第100話:愛人は私生活です(※王様に私生活などありません)
私生活( ˘ω˘ )
ルアンの作戦司令室。
大きな机の上には、ノルマンディーからイングランド、
フランス各地に至るまでの地図と報告書が広げられていた。
その中央で、ヘンリー二世は次々と指示を飛ばしている。
「東境の守りを固めろ。反乱側に通じている諸侯の動きを洗い出せ。
補給路は絶対に切らすな」
「はっ」
「イングランド北部には使者を送れ。スコットランド王の動きも見落とすな」
「御意」
淀みがない。
迷いもない。
家庭を大炎上させ、息子三人をパリへ走らせ、妻を城に閉じ込めた張本人とは
思えないほど、軍事と統治に関しては処理速度が異常に速い。
危機の最中にこそ最も冴え渡る男。
家庭内コミュニケーション能力は壊滅的。
危機管理能力は化け物級。
いつもの”ヘンリー二世”である。
一通りの命令を書き留めたところで。
書記官と側近の一人が、なぜか顔を見合わせた。
「……何だ」
ヘンリーが眉をひそめる。
「まだ報告があるなら言え」
側近は一瞬ためらったあと、恐る恐る口を開いた。
「陛下。軍事とは直接関係のない件なのですが……」
「前置きはいい」
「は」
側近は腹を括ったように続けた。
「陛下がウッドストックで親しくしておられる女性についての風聞が、
パリにまで届いております」
「…………」
ヘンリーの手が止まった。
「……何?」
「ロザムンドという女性の名も、噂の中に出ているようでございます」
しばしの沈黙。
それから、ヘンリーの眉間に深い皺が刻まれた。
「誰が流した」
「分かりません。宮廷筋から漏れたとも、諸侯の間で広まったとも」
「なぜ、今だ」
低い声だった。
「私は今、反乱の鎮圧と各地の防衛に追われている。
なぜそのような話が、敵側の宮廷でまで取り沙汰される」
本気で理解できないという顔をしている。
側近たちは黙った。
ヘンリーは苛立たしげに机を叩いた。
「息子どもの反抗も、アリエノールの処遇も、
王権と領国の安定に関わる問題だ」
そこで一度言葉を切る。
「だが、私が誰と親しくしようと、それは別の話だろう」
本人の中では実にきれいに部署分けされている。
国家案件
家庭案件
私生活案件
それぞれ別フォルダ
相互参照なし
完璧なつもりである。
だが。
長年仕えてきた老側近は、静かにため息をついた。
「……陛下」
「何だ」
「王の私生活は、すべて政治でございます」
「…………」
今度こそ、ヘンリーの言葉が止まった。
老側近は淡々と続けた。
「王が誰を重用し、誰を遠ざけ、誰と親しくするか。
それを諸侯は見ております。教会も見ております。敵国も見ております」
ヘンリーの顔が、わずかに険しくなる。
「それをどう利用するかまで含めて、政治でございます。
陛下ご自身が私生活とお考えでも、周囲がそう扱うとは限りません」
「…………」
正論。
しかも、非常に聞き覚えのある種類の正論だった。
ヘンリーの脳裏に、ふと。
シノンへ移された妻の姿が浮かんだ。
身分を隠し、人目を避け、
息子たちのいる方向へ向かっていたアリエノール。
そして。
『私は反乱に合流しようとしたんじゃない! 息子たちを説教して、
全員で家族会議を開こうとしてただけよ!』
そう主張していた妻に、自分は何と言ったか
本人の意図など関係ない。
お前が動けば、それ自体に政治的意味が生まれる。
周囲がどう受け取るかまで考えろ。
だから自由にはできない。
「…………」
ヘンリーの眉間の皺が、さらに深くなった。
本人の意図
『ただ親しくしているだけだ』
周囲の受け取り方。
息子たち
『母上を拘束しておきながら何をしている』
ルイ
『今それをやるのか』
諸侯
『王の評判を削る材料になる』
教会
『婚姻と道徳の問題として見過ごせない』
「……くそ」
小さく呟いた。
側近がわずかに目を見開く。
ヘンリーは片手で額を押さえた。
「……なるほど」
しばらくして。
渋々。
本当に渋々と言った様子で、低く口にする。
「確かに、腹は立つな」
「は?」
「あいつも、こういう気分だったのかもしれん」
側近たちが目を丸くした。
一瞬、ほんの一瞬だけ。
夫婦の相互理解が発生しかけた。
だが次の瞬間。
「だからといって、アリエノールを自由にする気はない」
即終了した。
「それとこれとは別だ」
「…………」
側近たちは何も言わなかった。
『たぶん、今それを言うから駄目なのだ』
だが、誰も口には出さない。
ヘンリーは苛立たしげに地図へ視線を戻した。
「息子どもが下らん噂で結束したつもりになっているなら、好きにさせろ」
「陛下」
「戦場で現実を見せればいい」
灰色の目に、いつもの鋭さが戻る。
「噂では領地は守れん。怒鳴るだけでも王にはなれん。
あいつらには、まだそれが分かっていない」
完全に仕事モードへ復帰している。
反省:終了。
改善:なし。
さすがである。
ヘンリーは地図の上の駒を動かした。
その時だった。
なぜかふと、遠く離れたシノンの方角から。
『案件増やすな、このバカ社長がぁぁぁぁ!!』
という妻の怒鳴り声が聞こえたような気がした。
「…………」
ヘンリーは手を止めた。
側近が首を傾げる。
「陛下?」
「……いや」
ヘンリーは顔をしかめた。
「何でもない」
もちろん、
アリエノールは何百キロも離れた城にいる。
声など聞こえるはずがない。
ただの幻聴である。
たぶん。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




