第4話 相沢さんに会いたいと思う日があります
秋になり、紗良は東京へ戻ってきた。
けれど、以前の書店に戻ったわけではない。
自分で選んだ場所で働きながら、少しずつ小説を書き始めていた。
神保町の古本まつりで再会した春斗に、紗良はようやく伝えます。
「相沢さんに会いたいと思う日があります」
それはまだ、恋と呼ぶには怖い気持ち。
でも、確かに前へ進み始めた気持ちでした。
その秋、紗良は東京へ戻ってきた。
戻ってくるといっても、以前の書店に復職したわけではない。
週に三日、別の小さな出版社でアルバイトをしながら、小説を書き始めた。
春斗の会社ではなかった。
春斗は最初、それを少し寂しく思った。
でも、すぐにそれでよかったのだと思い直した。
紗良が書く場所は、春斗が用意するものではない。
彼女自身が選ぶべきものだった。
再会したのは、十月の終わりだった。
神保町の古本まつりの日。
通りには本のワゴンが並び、平日なのに多くの人で賑わっていた。
春斗は仕事の合間に歩いていた。
古い文庫を眺めていると、隣に立つ人の気配がした。
「相沢さん」
振り向くと、紗良がいた。
髪が少し伸びていた。
服装も、以前より少し柔らかくなっている。
けれど、目は変わっていなかった。
遠くを見るような癖はまだ残っていたが、その遠さの中に、以前よりも確かな光があった。
「水瀬さん」
「お久しぶりです」
「お久しぶりです」
二人は少し笑った。
他人行儀な挨拶。
でも、それがかえって嬉しかった。
無理に距離を詰める必要がない。
離れていた時間が、ちゃんと二人の間に置かれている。
「書いてますか」
春斗が尋ねると、紗良は頷いた。
「書いてます。遅いですけど」
「遅くていいと思います」
「相沢さんなら、そう言うと思いました」
「実際、そう思います」
紗良はワゴンの上の古い詩集を手に取った。
「私、嘘をついてました」
突然の言葉に、春斗は黙った。
「もう書きたくないって言ったこと」
「はい」
「本当は、ずっと書きたかったです」
「はい」
「でも、書きたいって認めたら、生きたいって認めるみたいで怖かった」
紗良は詩集をそっと戻した。
「遼がいない世界で、私だけ何かを欲しがるのが怖かったんです」
春斗は何も言わなかった。
紗良は続けた。
「でも、書いてみたら、遼を置いていく感じはしませんでした」
「……はい」
「むしろ、ちゃんと連れていける気がしました。変ですよね」
「変じゃありません」
「相沢さんは、いつもそう言いますね」
「本当にそう思うので」
紗良は少し笑った。
そして、春斗を見た。
「相沢さんも、嘘をついてましたよね」
「はい」
「私の過去を何も知らないふりをしてた」
「はい」
「怒ってました。ずっと」
「当然です」
「でも、あの時、原稿を渡してくれてよかったとも思ってます」
春斗は息を止めた。
紗良は、まっすぐに言った。
「ありがとう」
その言葉は、赦しではなかった。
過去をなかったことにする魔法でもなかった。
ただ、ありがとうだった。
だからこそ、春斗の胸に深く届いた。
「こちらこそ、読ませてくれてありがとうございました」
「編集者として?」
「一人の読者として」
紗良は少し驚いてから、嬉しそうに目を細めた。
「それ、いいですね」
「はい」
「相沢さん」
「はい」
「この前の返事、まだしてませんでした」
春斗の鼓動が、不意に早くなった。
「返事?」
「好きだって言ってくれたこと」
周囲には人がいた。
本を選ぶ人。
店主と値段交渉をする人。
古い全集を抱えて歩く人。
誰も二人を見ていなかった。
それなのに、春斗にはその通りの音が遠くなった。
「急がなくていいです」
春斗は言った。
「分かってます。でも、急いでないから言えることもあります」
紗良は空を見上げた。
秋の空は高く、五月の風とは違う匂いがした。
「私は、まだ遼のことを忘れません」
「忘れなくていいです」
「たぶん、一生忘れません」
「はい」
「それでも、誰かを好きになっていいのか、まだ分かりません」
「はい」
「でも」
紗良は春斗を見た。
「相沢さんに会いたいと思う日があります」
春斗は、何も言えなかった。
紗良は少し困ったように笑った。
「これじゃ、返事になりませんか」
「なっています」
「本当に?」
「僕には、十分すぎます」
紗良の頬が少し赤くなった。
「じゃあ、今日、少し歩きませんか」
「はい」
二人は古本の並ぶ通りを歩いた。
恋人のように手をつないだわけではない。
肩が触れるほど近づいたわけでもない。
ただ、同じ速度で歩いた。
それだけなのに、春斗は胸の奥が満たされていくのを感じた。
途中、紗良が一冊の古いノートを買った。
表紙が布張りの、淡い緑色のノートだった。
「次の話、これに書こうと思って」
「どんな話ですか」
「まだ秘密です」
「編集者にも?」
「読者には、完成してから」
「厳しいですね」
「相沢さんには、最初に読ませると甘えてしまいそうなので」
「それは困りますね」
「はい。困るんです」
紗良はノートを胸に抱いた。
その仕草が、あの日、本を抱いて泣いていた姿と重なった。
けれど、今の彼女は泣いていなかった。
閉じ込めるためではなく、これから開くために、ノートを抱いていた。
春斗は、その違いが嬉しかった。
冬が来て、年が明けた。
紗良は小さな文学賞に短編を応募した。
結果は一次選考通過。
最終には残らなかった。
それでも紗良は、落ち込んだ後でまた書いた。
春斗はその姿を、近くで見守るようになった。
時々会って、本の話をした。
喫茶店で原稿の話をした。
神保町を歩き、古本を買い、別れ際に少しだけ立ち止まった。
手をつないだのは、二月の終わりだった。
粉雪が降った夜。
駅へ向かう途中、紗良が足を滑らせそうになり、春斗がとっさに手を取った。
その手を、紗良は離さなかった。
春斗も、離さなかった。
二人は無言で歩いた。
雪はすぐに溶けた。
紗良の手は冷たかった。
春斗は、その冷たさごと大切にしたいと思った。
そして季節はまた、二人の嘘を知っている五月へ向かっていった。
その五月に、紗良は一つの封筒を持って、春斗の前に現れることになる。
読んでくださってありがとうございます。
第4話では、紗良が東京へ戻り、春斗と再会するところを描きました。
遼を忘れるわけではない。
過去をなかったことにもできない。
それでも、誰かに会いたいと思う日がある。
その小さな気持ちは、紗良にとって大きな一歩だったと思います。
次話で完結です。
五月の風が知っていた嘘の先で、紗良と春斗がどんな未来を選ぶのか、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。




