最終話 五月の風は、君の嘘を知っていた
そして、次の五月が来た。
紗良が春斗に渡したのは、一つの封筒。
そこには、彼女自身の手で書き上げた物語が入っていました。
遼が遺したもの。
紗良が取り戻したもの。
春斗が待つと決めたもの。
五月の風が知っていた嘘の先で、閉じていた物語が、静かに新しいページを開きます。
最終話です。
そして次の五月が来た。
紗良から、一つの封筒を渡された。
場所は、あの書店の三階だった。
紗良が辞めた後も、春斗は時々そこを訪れていた。
その日は小さな企画展が開かれていて、若い作家たちの手書き原稿が展示されていた。
窓が開いていた。
五月の風が、白いカーテンを揺らしていた。
「完成しました」
紗良はそう言って、封筒を差し出した。
「長編ですか」
「中編くらいです」
「読んでも?」
「はい。最初の読者になってください」
春斗は封筒を受け取った。
表紙には、紗良の字でタイトルが書かれていた。
『五月の風は、君の嘘を知っていた』
春斗は息を呑んだ。
「このタイトル」
「変ですか」
「いえ」
「最初は違う題名だったんです。でも、これしかない気がして」
紗良は窓の外を見た。
「私の嘘も、相沢さんの嘘も、あの五月の風は全部知っていた気がするんです」
「……はい」
「あの時は、風になってどこかへ消えたいと思ってました。でも今は、風が吹く場所で立っていたいと思います」
春斗は封筒を胸の前で持ったまま、紗良を見た。
彼女はもう、消えそうではなかった。
傷が消えたわけではない。
遼への想いが薄れたわけでもない。
でも、紗良はそこにいた。
今を生きる人として。
これから先の言葉を、自分で選ぼうとする人として。
「水瀬さん」
春斗は言った。
「はい」
「僕は、あなたの書くものが好きです」
紗良は微笑んだ。
「私も、相沢さんがそう言ってくれるのが好きです」
春斗の胸が熱くなった。
紗良は少し照れたように視線を落とし、それから小さな声で続けた。
「それから」
「はい」
「私は、相沢さんに会いたいと思う日が、前より増えました」
春斗は笑った。
泣きそうになりながら、笑った。
「それは、かなり嬉しいです」
「まだ、ゆっくりでいいですか」
「もちろん」
「遅いですよ、私」
「知っています」
「面倒ですよ」
「知っています」
「たまに、過去に戻ります」
「その時は、戻ってきたくなるまで待ちます」
紗良は目を潤ませた。
「そういうところ、ずるいです」
「よく言われます」
「誰にですか」
「主に、水瀬さんに」
紗良が笑った。
その笑顔は、春斗が初めて見た頃のものとは違っていた。
遠くを見ていないわけではない。
でも、今は遠くを見るだけではなく、ちゃんと春斗の方にも戻ってくる笑顔だった。
春斗は封筒を大切に鞄へ入れた。
「読んだら、感想を言います」
「怖いです」
「怖いままで、聞いてください」
「編集者みたい」
「編集者です」
「でも今日は、一人の読者として?」
「はい。一人の読者として」
紗良は頷いた。
窓から入った風が、二人の間を通り抜けた。
五月の風だった。
あの日、紗良の涙を知っていた風。
春斗の沈黙を知っていた風。
遼が残した原稿の紙を揺らした風。
言えなかった言葉も、閉じ込めていた夢も、ついた嘘も、全部知っていた風。
春斗は思った。
人は、大切な人のすべてを知ることなどできない。
傷の深さも、夢の形も、夜中に一人で泣いた回数も、胸の奥で何度も飲み込んだ言葉も、完全には分からない。
それでも、そばにいたいと思う。
知らないからこそ、聞きたいと思う。
分からないからこそ、信じたいと思う。
春斗は紗良を抱きしめたいと思った。
でも、その前に聞いた。
「手を、つないでもいいですか」
紗良は少し驚いた顔をした。
それから、ゆっくりと手を差し出した。
「はい」
春斗は、その手を取った。
冷たくはなかった。
春の終わりと夏の始まりの間にある、柔らかな温度だった。
紗良は窓の外を見て、ぽつりと言った。
「遼に、怒られるかな」
春斗は少し考えた。
「怒るかもしれません」
「そこは、怒らないって言ってください」
「でも、たぶん最後は笑うと思います」
「どうして?」
「あなたが書いているから」
紗良は黙った。
そして、指先に少しだけ力を込めた。
「そうだといいな」
「はい」
「そう思えるように、書きます」
その言葉を聞いた時、春斗はやっと分かった。
紗良はもう、誰かに救われるだけの人ではない。
自分の言葉で、自分を救おうとしている。
春斗ができるのは、その隣にいることだけだ。
風になって包むことも、雪になって溶けることもできない。
彼女の過去を消すことも、痛みを代わりに背負うこともできない。
でも、彼女が書いた一文を読むことはできる。
彼女が黙った時に、待つことはできる。
彼女が歩き出す時に、同じ速さで隣を歩くことはできる。
それだけで、いいのだと思った。
書店の外へ出ると、夕方の神保町に柔らかな光が落ちていた。
古本屋の看板が、風に揺れている。
通りを歩く人たちの中で、春斗と紗良は手をつないだまま歩き出した。
何かが劇的に始まったわけではない。
過去が綺麗に終わったわけでもない。
それでも、二人の間には確かに新しいページが開いていた。
紗良がふと立ち止まった。
「相沢さん」
「はい」
「春斗さんって、呼んでもいいですか」
春斗は一瞬、返事を忘れた。
紗良が不安そうに見上げる。
「だめですか」
「だめじゃありません」
「じゃあ」
紗良は少し照れたように笑った。
「春斗さん」
名前を呼ばれただけだった。
それなのに、春斗は胸の奥にあった長い冬が、ゆっくりほどけていくような気がした。
「はい、紗良さん」
春斗がそう呼ぶと、紗良は目を丸くした後、頬を赤くした。
「急に呼ぶの、ずるいです」
「お互いさまです」
二人は笑った。
五月の風が、また吹いた。
もう、誰かが消えていく風ではなかった。
誰かの嘘を責める風でもなかった。
言えなかった言葉を、少しずつ外へ運んでくれる風だった。
紗良は春斗の隣で、鞄の中のノートをそっと押さえた。
そこには、これから書かれる物語が眠っている。
遼が残したもの。
紗良が取り戻したもの。
春斗が待つと決めたもの。
その全部を抱えて、紗良は前を向いていた。
「春斗さん」
「はい」
「まだ、好きって返すのは怖いです」
「はい」
「でも」
紗良は、春斗の手を握り直した。
「好きになってしまうのは、もう止められない気がします」
春斗は何も言えなかった。
言葉を仕事にしているのに、その一言に返す文章だけが見つからなかった。
だから、ただ頷いた。
紗良も、それで分かったように微笑んだ。
春斗は、その手を二度と急かさないと決めた。
けれど、離すつもりもなかった。
五月の風は、二人の嘘を知っていた。
けれど同時に、二人がまだ知らない未来も、きっと知っていた。
だから春斗は、紗良の手を握り直した。
紗良も、握り返した。
二人は何も言わずに歩いた。
古本の匂いと、夕暮れの光と、少し早い夏の気配の中を。
閉じていた物語の続きを、これから一緒に読みにいくように。
― 完 ―
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
この物語は、亡くなった人を忘れて次へ進む話ではなく、
大切な人から受け取ったものを抱えたまま、自分の人生をもう一度書き始める話でした。
紗良は、遼を忘れません。
春斗も、遼の代わりにはなれません。
それでも、誰かを思い出しながら、別の誰かと手をつなぐことはできる。
その優しさと怖さを、最後まで書きたかった作品です。
タイトルの「五月の風」は、二人の嘘も、涙も、言えなかった言葉も知っていました。
でも最後には、その風が、閉じていた物語の続きをそっと運んでくれたのだと思います。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




