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五月の風は、君の嘘を知っていた  作者: ちょこまろ


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3/5

第3話 まだ怒っています。でも、原稿は持っていきます

書店を辞め、東京を離れた紗良。


春斗への怒りは消えない。

遼を失った悲しみも、三年間止まっていた時間も、簡単にはほどけない。


それでも紗良は、遼が遺した原稿を持っていくことを選びます。

「まだ怒っています。でも、原稿は持っていきます」


長野の実家で、紗良がもう一度、自分の言葉と向き合い始める第3話です。

 紗良が書店を辞める日は、予定通り五月三十一日だった。


 春斗はその日、店へ行かなかった。


 行けば、引き止めてしまうと思った。


 引き止める権利などないのに。


 代わりに、春斗は会社で原稿を読んでいた。


 作家から届いた新作。


 だが、文字がうまく頭に入ってこなかった。


 夕方、スマートフォンが震えた。


 紗良からだった。


 初めて届いたメッセージ。


『今日で書店を辞めました』


 春斗は画面を見つめた。


 続けて、もう一通。


『まだ怒っています』


 春斗はその一文を何度も読んだ。


 当然だと思った。


 当然なのに、胸が痛んだ。


 少しして、三通目が届いた。


『でも、原稿は持っていきます』


 春斗は目を閉じた。


 それだけで、十分だった。


 すぐに返信しようとして、手が止まった。


 何と書けばいい。


 すみません。


 待っています。


 読ませてください。


 どれも違う気がした。


 春斗は何度も打っては消し、最後に短く送った。


『持っていってくれて、ありがとうございます』


 すぐに既読がついた。


 返事はしばらく来なかった。


 十分後、紗良から届いた。


『許したわけじゃありません』


 春斗は小さく息を吐いた。


『はい』


 それだけ返した。


 紗良は六月の初めに東京を離れた。


 長野の実家へ戻ると言っていた。


 春斗は見送らなかった。


 紗良からも、来てほしいとは言われなかった。


 それでよかった。


 物語には、無理に感動的な場面を作らない方がいい時がある。


 駅のホームで泣きながら抱き合うより、何も言わずに別々の朝を迎える方が、正しい別れもある。


 春斗はそう自分に言い聞かせた。


 けれど、寂しくないわけではなかった。


 書店へ行っても、もう紗良はいない。


 レジに立つ別の店員に「お疲れさまです」と言われても、その声ではない。


 三階のギャラリーへ上がると、あの日の泣き声だけが残っている気がした。


 春斗は仕事に没頭した。


 原稿を読み、作家と打ち合わせをし、書店営業をし、企画書を書いた。


 季節は梅雨に入り、やがて夏へ向かった。


 一方、紗良は長野の実家で、何も書けずにいた。


 実家は、駅からバスで二十分ほどの場所にあった。


 山が近く、朝になると鳥の声が聞こえる。


 東京の部屋では聞こえなかった音だった。


 父は、何も聞かなかった。


 紗良が急に戻ると言った時も、「そうか」とだけ言った。


 台所に立ち、味噌汁を作り、庭のトマトに水をやり、夜になると居間で野球中継を見た。


 優しい父だった。


 優しすぎて、紗良は時々苦しくなった。


 何も聞かれないことは、責められないことではない。


 聞かれないからこそ、自分の中の声が大きくなる。


 遼の原稿は、紗良の部屋の机の上に置かれていた。


 封筒から出して、またしまう。


 しまって、また出す。


 何度も繰り返した。


 最初の数日は、読むことすらできなかった。


 タイトルを見るだけで胸が詰まった。


 遼の字ではない。


 春斗がコピーした原稿だった。


 けれど、その言葉の呼吸は、遼のものだった。


 読み進めるたび、遼の声が聞こえる気がした。


 冗談を言う時の少し高い声。


 照れた時に早口になる癖。


 真剣な話をする時だけ、目を逸らさなくなるところ。


 全部が、紙の中から戻ってくる。


 紗良は怒っていた。


 春斗に。


 遼に。


 自分に。


 遼はなぜ、こんなものを残したのか。


 春斗はなぜ、三年も黙っていたのか。


 自分はなぜ、まだ続きを読みたいと思ってしまうのか。


 六月の終わり、雨の夜だった。


 父が寝静まった後、紗良は机の前に座った。


 窓を少し開けると、雨上がりの匂いが部屋に入ってきた。


 東京とは違う、土と草の匂い。


 机の上には、遼の原稿と、白いノートがあった。


 紗良はペンを持った。


 持っただけで、手が震えた。


 書けない。


 やっぱり書けない。


 そう思った。


 ペン先を紙に近づけると、胸の奥から声がした。


 書いたら、遼が本当に過去になる。


 書いたら、自分だけが先へ行く。


 書いたら、もう「かわいそうな恋人」でいられなくなる。


 紗良はペンを置いた。


 両手で顔を覆った。


「遼」


 小さく名前を呼んだ。


 返事はない。


 当たり前だった。


 三年間、何度呼んでも返事はなかった。


 それなのに、紗良はまだどこかで待っていた。


 遼が夢に出てきて、「もういいよ」と言ってくれることを。


 誰かが許可してくれることを。


 でも、誰も言ってくれない。


 許してくれる人を待っていたら、一生ここから動けない。


 紗良は顔を上げた。


 遼の原稿をもう一度読んだ。


 青年が駅のホームで何かを言おうとしている。


 恋人は、それを聞かないふりをしている。


 ここで止まっている。


 まるで、三年前の自分たちのように。


 紗良はノートを開いた。


 ペンを持った。


 最初の一文字を書くまでに、何度も息を吸った。


 そして、ようやく書いた。


 彼女は、その言葉を聞かなかったことにした。


 たった一文。


 たった一文なのに、紗良は泣いた。


 それは遼の続きでありながら、紗良の始まりだった。


 その夜、紗良は五行だけ書いた。


 翌朝読んだら、ひどい文章だった。


 消したくなった。


 でも、消さなかった。


 書いた自分を、なかったことにしたくなかった。


 七月に入ると、紗良から春斗へ時々短いメッセージが届くようになった。


『今日は一行も書けませんでした』


 春斗は返信した。


『一行も書けなかった日も、たぶん小説の中に入ります』


『昨日書いたところ、全部消しました』


『消すのも書くことです』


『父が庭のトマトを自慢してきます』


『いいトマトは、いい小説より強いかもしれません』


『それは編集者としてどうなんですか』


『一人の読者としての感想です』


 少しずつ、やり取りの中に柔らかさが戻ってきた。


 けれど春斗は、好きだとは言わなかった。


 一度言った。


 それで十分だった。


 紗良が返事をしないことも、春斗は受け入れていた。


 彼女はまだ、誰かの恋に応える場所まで戻っていない。


 それでも、彼女は書いている。


 それだけでよかった。


 八月の終わり、紗良から長いメールが届いた。


 件名は、


『五月の風が吹く場所で 後半』


 春斗は会社にいた。


 夜十時を過ぎ、編集部には数人しか残っていなかった。


 添付ファイルを開く前に、春斗は深呼吸した。


 画面に、紗良の文章が現れた。


 最初の一文を読んだ瞬間、春斗は動けなくなった。


 それは、遼の文章に似ていなかった。


 似せようともしていなかった。


 紗良の文章だった。


 静かで、柔らかくて、でも芯に痛みがある。


 青年が言えなかった言葉を、恋人は聞かないふりをしている。


 彼女にも言えない夢があるからだ。


 二人はホームで別れる。


 けれど、別れは終わりではなく、それぞれが自分の言葉を取り戻すための始まりとして描かれていた。


 そして最後、恋人は風の中でこう思う。


 あなたを置いていくのではない。


 あなたから受け取ったものを、私の足で運んでいくのだ。


 春斗は読み終えた後、しばらく画面を見つめていた。


 涙が出ていることに、少し遅れて気づいた。


 編集部の後輩が「相沢さん、大丈夫ですか」と声をかけてきた。


 春斗は慌てて目元を拭った。


「大丈夫。いい原稿を読んだだけ」


 そう言うと、後輩は笑った。


「編集者っぽいですね」


「編集者だからな」


 でも本当は、編集者としてだけ泣いたのではなかった。


 一人の男としても、泣いた。


 紗良が戻ってきた。


 遼のところへではない。


 過去の中へでもない。


 自分自身の言葉の場所へ、戻ってきた。


 春斗はメールを返信した。


『読ませてくれて、ありがとう。これは水瀬さんの小説です』


 すぐに返事は来なかった。


 翌朝、短い返信が届いた。


『そう言われるのが、一番怖かったです。でも、一番聞きたかったです』


 その一文を読んだ時、春斗は初めて、彼女が本当に帰ってくるかもしれないと思った。

読んでくださってありがとうございます。


第3話では、紗良が東京を離れ、遼の原稿と向き合いながら、少しずつ自分の文章を取り戻していく姿を描きました。


怒っている。

許したわけではない。

それでも、続きを書こうとする。


紗良にとって、それは遼を忘れることではなく、遼から受け取ったものを自分の足で運んでいくための一歩でした。


次話では、季節が進み、紗良と春斗が再び神保町で向き合います。

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