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五月の風は、君の嘘を知っていた  作者: ちょこまろ


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2/5

第2話 三年前、彼が遺した原稿

三年前、春斗が担当していた新人作家・有森遼。

そして、遼が紗良に渡したがっていた未完成の原稿。


春斗は、その原稿をずっと抱えたまま、紗良に真実を告げられずにいました。


閉店後の書店で、春斗はついに遼との過去と、自分の嘘を打ち明けます。

止まっていた時間を動かす、第2話です。

 それからの十日間、春斗は焦りを隠しながら過ごした。


 仕事では原稿の締切が重なり、作家からの電話も鳴り続けた。


 だが、春斗の頭の片隅にはいつも紗良がいた。


 五月三十一日。


 その日付が、心の中で何度も点滅した。


 春斗は有森遼の本を、自分の本棚から取り出した。


『あの春を、君に返す』


 初版。


 帯には、春斗が考えたコピーが印刷されている。


 若かった。


 今見れば、少し力が入りすぎている。


 けれど、あの時の春斗は本気だった。


 遼の才能を信じていた。


 この作家は、きっと届く。


 そう思っていた。


 三年前の春、春斗はまだ編集者として自信などなかった。


 上司の後ろについて作家に会い、会議ではうまく意見を言えず、赤字を入れるたびに「自分の方が間違っているのではないか」と怯えていた。


 そんな春斗にとって、有森遼は初めて「自分が見つけた」と胸を張れる作家だった。


 最初に届いた投稿原稿を読んだ時のことを、春斗は今でも覚えている。


 文章は荒かった。


 構成も不器用だった。


 けれど、主人公が大切な人の背中を見送る場面に、春斗はしばらく目を離せなかった。


 うまい文章ではない。


 でも、残る文章だった。


 翌週、春斗は遼に連絡した。


 会ったのは、出版社近くの古い喫茶店だった。


 遼は緊張していて、コーヒーに砂糖を入れすぎた。


「すみません、こういう場所、慣れてなくて」


「僕も担当としては慣れていません」


 春斗が正直に言うと、遼は驚いた後で笑った。


「じゃあ、二人とも新人ですね」


「そうですね」


「よかった。僕だけじゃないんだ」


 その笑顔は、人を安心させるものだった。


 遼は自分の才能を大きく見せようとしなかった。


 賞を取りたい、売れたい、有名になりたい。


 そういう欲がないわけではない。


 でも、その奥にもっと素朴な願いがあった。


「彼女に、読んでほしいんです」


 打ち合わせの終わりに、遼はそう言った。


「恋人さんですか」


「はい。さらっていいます」


 春斗は、その名前を聞いていた。


 けれど、遼はいつも彼女のことを「さら」とだけ呼んでいた。


 春斗が知っていたのは、名前と、長野出身で、本が好きで、昔から文章を書いている女性だということだけだった。


「彼女も、昔から書いてるんです。僕よりずっといい文章を書くんですよ」


「そうなんですか」


「はい。でも、本人は全然認めないんです。自分の文章なんて誰も読みたくないって」


 遼は困ったように笑った。


「だから、僕が先に本を出せたら言いたいんです。ほら、僕でもここまで来られたよって。次はさらの番だよって」


 春斗はその時、いい恋人だなと思った。


 ただ、それだけだった。


 まさか三年後、その人が水瀬紗良という名前で、別の書店に立っているとは思わなかった。


 まさかその人を、自分が好きになるとは思わなかった。


 遼の本を開くと、奥付に自分の名前があった。


 担当編集 相沢春斗。


 その文字を見るたび、春斗は苦しくなる。


 刊行直前、遼は事故に遭った。


 深夜のアルバイト帰りだった。


 雨の強い夜で、見通しが悪かったと聞いた。


 春斗が知らせを受けた時、遼の本はすでに印刷所へ入っていた。


 戻せないところまで進んでいた。


 遼の死後、春斗は遺族との連絡、帯文の変更、刊行時期の調整、書店への説明に追われた。


 編集者として、やるべきことはやった。


 でも、一つだけできなかったことがある。


 遼が紗良に渡したがっていた原稿を、届けること。


 遼はデビュー作とは別に、短い原稿を春斗へ預けていた。


「これは、まだ本にするものじゃないんです」


 そう言って笑っていた。


「彼女と約束してる話なんです。僕が前半を書いて、彼女が後半を書く。そういう遊びを昔からしていて」


「恋人さんと?」


「はい。くだらない約束ですけど、僕たちには大事で」


 春斗はその原稿を預かった。


「刊行が落ち着いたら、返してください」


 遼はそう言っていた。


「いや、返すというより、さらへ渡してください。僕が照れずに渡せなかったら」


「自分で渡してくださいよ」


「そうですね。自分で渡します」


 遼は笑った。


 その約束は、果たされなかった。


 事故の後、春斗は彼女に連絡を取ろうとした。


 けれど遼のスマートフォンは事故で破損し、遺族も彼女の詳しい連絡先を知らなかった。


 聞いていたのは「さら」という名前と、長野出身で、東京で本に関わる仕事をしているらしいという曖昧な情報だけだった。


 出版社から探すには、あまりにも手がかりが少なかった。


 当時の春斗は、まだ新人に毛が生えた程度の編集者で、遺族に何度も踏み込んで尋ねる勇気もなかった。


 遼の死で、自分自身も壊れかけていた。


 初めて担当した作家を、初めて本にする直前で失った。


 守れなかった。


 間に合わなかった。


 そんな思いが、胸の奥に黒く沈んだ。


 そして春斗は、原稿を机の引き出しにしまった。


 いつか。


 いつか渡そう。


 そう思いながら、三年が経った。


 今なら分かる。


 それは優しさではない。


 忙しさでもない。


 春斗の弱さだった。


 春斗は机の引き出しを開けた。


 そこには、一つの封筒があった。


 三年前から、捨てられずに持っていたもの。


 有森遼が最後に春斗へ渡した原稿のコピーだった。


 未発表の短編。


 タイトルは、


『五月の風が吹く場所で』


 春斗は封筒を見つめた。


 これは、ただの原稿ではない。


 遼が紗良に渡したかったもの。


 紗良が閉じ込めた時間を開く鍵。


 そして、春斗が隠し続けていた嘘そのものだった。


 翌日、春斗は書店へ向かった。


 紗良は一階のレジにいた。


 春斗を見ると、いつものように笑った。


「いらっしゃいませ」


 その言葉が、もうすぐ聞けなくなる。


 そう思っただけで、胸が詰まった。


「水瀬さん」


「はい」


「今日、少しだけ時間をもらえませんか」


 紗良の表情がわずかに変わった。


「仕事の話ですか」


「……大事な話です」


 紗良は春斗の手元を見た。


 そこには、茶色い封筒があった。


 紗良の目が、一瞬だけ揺れた。


「閉店後なら」


「ありがとうございます」


 その夜、二人は三階のギャラリースペースにいた。


 初めて紗良の涙を見た場所。


 窓は少しだけ開いていて、五月の風が入ってきていた。


 外では、遅い時間の車の音がかすかに聞こえる。


 春斗は封筒をテーブルの上に置いた。


 紗良はそれをじっと見ていた。


「何ですか」


「三年前、有森遼さんから預かった原稿です」


 紗良の顔から、色が消えた。


「どうして」


 声が震えていた。


「どうして、相沢さんが遼の名前を」


 春斗は深く頭を下げた。


「黙っていて、すみません」


「……知ってたんですか」


「はい」


「いつから」


「水瀬さんが、この場所で泣いていた夜からです」


「その前は?」


「遼さんから、あなたの名前を聞いていました。ただ、彼はあなたのことを、いつも『さら』とだけ呼んでいたので、同じ人だと気づきませんでした」


 紗良はテーブルに手をついた。


 立っていられないように見えた。


「相沢さんは」


 紗良の声が、低くなった。


「遼の、何だったんですか」


「担当編集者でした」


 紗良の瞳が、大きく見開かれた。


 そこに浮かんだのは、驚きだけではなかった。


 怒り。


 悲しみ。


 裏切られたような痛み。


 春斗は、その全てを受け止めるしかなかった。


「どうして言わなかったんですか」


「言うべきでした」


「そうですね」


「すみません」


「謝ってほしいんじゃありません」


 紗良の声が震えた。


「どうして、今なんですか。どうして、もっと早く言ってくれなかったんですか」


「怖かったんです」


「何が」


「あなたを、壊してしまうことが」


 紗良は笑った。


 泣きそうな顔で、笑った。


「それ、優しさのつもりですか」


「違います」


 春斗は首を振った。


「臆病だっただけです。あなたが傷つくのを見るのが怖かった。あなたに責められるのも怖かった。遼さんのことを知っている自分が、あなたに近づいてしまったことも怖かった」


「近づいて?」


 紗良の目に、別の感情が混じった。


 春斗は息を吸った。


 もう逃げられなかった。


「水瀬さんのことが、好きです」


 紗良は何も言わなかった。


 春斗は続けた。


「でも、遼さんの代わりになりたいわけじゃありません。あなたの過去を奪いたいわけでもありません。ただ、今ここにいるあなたが、好きです」


「そんなの」


 紗良は唇を噛んだ。


「そんなの、ずるいです」


「はい」


「遼のことを知っていて、黙っていて、それで好きだなんて」


「はい」


「私がどれだけ」


 そこで声が途切れた。


 紗良は封筒を見た。


 手を伸ばしかけて、止めた。


「相沢さんは、私が知らない遼を知っていたんですね」


 その一言に、春斗は顔を上げられなかった。


「私は、遼の最後の頃のことをほとんど知りません。あの人、私に心配かけたくないって、原稿のことも、仕事のことも、あまり話してくれなかった。私はそれがずっと悔しかった」


 紗良の声が、少しずつ震えを帯びていく。


「私が一番知りたかった遼の最後の夢を、相沢さんだけが持っていたんですね」


 春斗は、答えるたびに自分の足元が崩れていくのを感じた。


「……はい」


「三年間も」


「はい」


「私が、何も知らないまま、毎日この本を売っている間も」


 春斗は唇を噛んだ。


 言い訳を一つもしないことだけが、今の自分にできる最低限の誠実さだった。


「はい」


「ひどいです」


「はい」


「本当に、ひどい」


「はい」


 紗良の怒りは正しかった。


 紗良の悲しみも正しかった。


 春斗に許される理由など、一つもなかった。


「でも」


 紗良は涙を拭わなかった。


「その原稿が遼のものなら、見せてください」


 春斗は封筒を差し出した。


「これは、あなたのものです」


 紗良は震える手で封筒を受け取った。


 封を開ける。


 中から原稿用紙のコピーが出てきた。


 紗良は一枚目を見た。


 タイトルを見た瞬間、肩が震えた。


「これ」


 声にならない声だった。


「私たちが、昔話してた題名です」


「そう聞いています」


「五月の風が吹く場所で」


 紗良はそのタイトルを指でなぞった。


「遼、覚えてたんだ」


 涙が、原稿に落ちそうになった。


 春斗はハンカチを差し出そうとして、やめた。


 今は、彼女の涙に勝手に触れてはいけない気がした。


 紗良はゆっくりと原稿を読み始めた。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 紙をめくる音だけが、夜の書店に響いた。


 春斗は黙って待った。


 編集者としてではなく、一人の男として。


 紗良が顔を上げたのは、十分以上経ってからだった。


「途中で終わってる」


「はい」


「ここから、私が書くはずだったんですね」


「遼さんは、そう言っていました」


「ひどい」


 紗良は泣きながら笑った。


「こんなところで止めるなんて、ひどいよ」


 原稿の中の物語は、風の強い五月の日に、別々の道へ進もうとする二人の話だった。


 主人公の青年は、恋人に言えない言葉を抱えている。


 恋人は、自分の夢を隠している。


 二人は駅のホームで向き合う。


 けれど、青年が何かを言おうとしたところで、原稿は終わっていた。


 その続きは、紗良に託されていた。


「書けません」


 紗良は原稿を抱きしめた。


「こんなの、書けるわけない」


「今すぐじゃなくていいです」


「三年も経ってるんです」


「はい」


「遼はもういないんです」


「はい」


「私が続きを書いたって、遼は読めないんです」


「それでも」


 春斗は静かに言った。


「あなたは読めます」


 紗良が春斗を見る。


「あなたが、遼さんの言葉を読んだように、今度はあなた自身の言葉を、あなたが読むことができます」


「自分のために書けってことですか」


「はい」


「そんなの、許されるんですか」


「誰にですか」


 紗良は答えなかった。


 春斗は続けた。


「遼さんは、あなたに止まっていてほしかったわけじゃないと思います」


「相沢さんに、何が分かるんですか」


「分かりません」


 春斗は正直に言った。


「僕には、あなたの三年は分かりません。遼さんを失った痛みも、あなたがどれだけ自分を責めてきたかも、分かったふりはできません」


「だったら」


「でも、遼さんがあなたの言葉を信じていたことは分かります」


 紗良が息を止めた。


「遼さんは言っていました。彼女の書く文章は、風みたいなんです、と」


 紗良の涙が止まった。


「風?」


「はい。つかまえられないのに、残る。優しいのに、痛い。そう言っていました」


 紗良は、原稿を握りしめた。


 その手が、小さく震えていた。


「遼、そんなこと言ってたんですか」


「言っていました」


「恥ずかしい」


「嬉しそうでした」


「……馬鹿ですね」


「はい」


「本当に、馬鹿」


 紗良は原稿を胸に当てた。


 そして、子どものように泣き出した。


 春斗は何もしなかった。


 近づくことも、抱きしめることもできたかもしれない。


 でも、それは違うと思った。


 今、紗良が向き合っているのは春斗ではない。


 三年前の遼と、三年前から動けなくなっていた自分自身だった。


 春斗はただ、そばにいた。


 それが今の自分に許された、唯一のことだった。


 けれど、その原稿を抱きしめた紗良の指先が、ほんの少しだけ、未来へ伸びたように見えた。

読んでくださってありがとうございます。


第2話では、春斗が三年間抱えていた原稿と、紗良に黙っていた真実が明かされました。


遼が遺した未完成の物語。

それは紗良を傷つけるものでもあり、同時に、彼女がもう一度自分の言葉を取り戻すためのきっかけでもあります。


春斗の告白を、紗良はすぐには許せません。

次話では、東京を離れた紗良が、怒りを抱えたまま原稿と向き合っていきます。

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