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五月の風は、君の嘘を知っていた  作者: ちょこまろ


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第1話 閉店後の書店で、彼女は泣いていた

閉店後の神保町の書店で、彼女は一冊の本を抱いて泣いていた。


編集者の相沢春斗が見てしまったのは、書店員・水瀬紗良の涙。

そして、その本の著者名は、春斗が三年前に担当していた亡き新人作家の名前だった。


本に残された想いと、言えなかった嘘。

五月の夜から始まる、静かな再生の恋物語です。

 閉店後の書店で、水瀬紗良は一冊の本を抱いて泣いていた。


 その著者名を見た瞬間、相沢春斗は、三年前に閉じ込めたはずの罪を思い出した。


 五月の夜だった。


 神保町の路地にある古い書店は、営業中の賑わいを失うと、まるで呼吸を浅くするように静かになる。


 昼間は人の足音、レジの音、ページをめくる音、誰かが小声で交わす「これ、面白そう」という言葉が重なっている。けれど閉店後には、それらがすべて棚の奥に吸い込まれて、紙とインクの匂いだけが残る。


 相沢春斗は、その匂いが好きだった。


 小さな出版社で編集者をしている春斗にとって、書店は仕事場であり、戦場であり、祈る場所でもあった。


 作家が命を削るように書いた言葉も、デザイナーが何度も直した装丁も、営業が頭を下げて置いてもらった一冊も、ここに並んで初めて読者と出会う。


 本は、作っただけでは届かない。


 誰かに見つけてもらわなければならない。


 だから春斗は、営業帰りには必ずと言っていいほど、その書店に寄った。


 三階建ての古い店だった。


 一階は文芸と新刊。


 二階は人文書と専門書。


 三階は児童書と、小さなギャラリースペース。


 駅前の大型書店のような派手さはない。けれど棚の並びに、店員の手の温度があった。


 売れる本だけを押し出すのではなく、まだ見つかっていない本を、誰かの目線の高さにそっと置いてくれる店。


 春斗はその店が好きだった。


 そして、その店にいる一人の女性を、いつの間にか目で追うようになっていた。


 水瀬紗良。


 二十七歳。


 肩の少し下で切り揃えた黒髪と、柔らかい声を持つ書店員だった。


 紗良は、誰に対しても丁寧だった。


 老人が本の場所を尋ねれば、棚まで一緒に歩いた。


 学生が参考書選びに迷っていれば、急かさずに話を聞いた。


 小さな子どもが絵本を床に落としてしまえば、「本もびっくりしたね」と笑って拾った。


 その笑い方が、春斗には少し不思議だった。


 明るい。


 けれど、どこか遠い。


 目の前の相手にちゃんと笑っているのに、その笑顔の奥だけが、いつも別の場所を見ている。


 春斗は編集者だから、言葉にならないものを見る癖がある。


 作家の沈黙。


 原稿の行間。


 何気ない一文の中に潜む、本当に書きたかった感情。


 紗良の笑顔にも、それに似た行間があった。


 何かを隠している。


 けれど、それを尋ねるほど、春斗は彼女に近くなかった。


 二人の関係は、せいぜい「よく来る出版社の人」と「書店員」だった。


「今日もお疲れさまです」


 レジで顔を合わせるたび、紗良はそう言った。


「お疲れさまです。新刊、いい場所に置いてくださってありがとうございます」


「いえ。相沢さんのところの本、うちのお客さんと相性いいんです」


「そう言ってもらえると助かります」


 会話はいつも、そのくらいで終わる。


 あと一言。


 もう一歩。


 春斗は何度もそう思った。


 でも、言葉は出なかった。


 人の文章には赤字を入れられるくせに、自分の心から出てくる一文だけは、いつも完成しなかった。


 その夜も、春斗は閉店間際の書店にいた。


 五月の終わり。


 昼間は少し汗ばむほどだったのに、夜になると風が冷たかった。


 店の自動ドアが開くたび、外の風が新刊のポップをかすかに揺らした。


 春斗は文芸棚の前で、自社の新刊の減り具合を確認していた。


 平積みの山は、先週より少し低くなっている。


 悪くない。


 心の中で小さく安堵した時、店内放送が流れた。


 本日の営業は終了いたしました、という落ち着いた女性の声。


 春斗は慌てて本を一冊手に取り、レジへ向かった。


 けれど、レジに紗良はいなかった。


 代わりに、年配の男性店員が会計をしてくれた。


「水瀬さん、今日はもう上がられたんですか」


 何気なく尋ねると、男性店員は少しだけ首を傾げた。


「いや、まだいると思いますよ。三階の整理をしてるんじゃないかな」


「そうですか」


 春斗は会計を済ませ、店を出ようとした。


 けれど、足が止まった。


 三階。


 ギャラリースペース。


 閉店後の書店。


 上がってはいけない。


 もう閉店している。


 そう思ったのに、春斗は階段の方を見た。


 その時だった。


 微かな声が聞こえた。


 泣き声、だった。


 春斗の胸が、嫌なほど強く鳴った。


 三階の照明は半分だけ落ちていた。


 児童書の棚を抜けた先、小さなギャラリースペースの隅に、紗良がいた。


 彼女は床に座り込んでいた。


 膝を抱えるようにして、一冊の本を胸に押し当てている。


 泣いているのに、声を殺していた。


 誰にも見つからないように。


 誰にも心配されないように。


 泣き慣れている人の泣き方だった。


 春斗は動けなくなった。


 見てはいけない。


 そう思った。


 でも、視線が離せなかった。


 紗良が抱きしめている本の表紙が、薄暗い照明の下でかすかに見えた。


 白地に、淡い青の線で描かれた海。


 タイトルは、


『あの春を、君に返す』


 著者名を見た瞬間、春斗の呼吸が止まった。


 有森遼。


 その名前を、春斗は知っていた。


 知っているどころではない。


 三年前、春斗が初めて単独で担当した新人作家の名前だった。


 そして、デビュー作の刊行直前に事故で亡くなった青年の名前だった。


 紗良が本を抱きしめたまま、震える声で言った。


「ごめんね、遼」


 春斗の指先から、血の気が引いた。


 有森遼。


 水瀬紗良。


 その二つの名前が、春斗の中で突然つながった。


 紗良は、遼の恋人だったのだ。


 春斗は一歩後ずさった。


 床板が小さく鳴った。


 紗良が顔を上げた。


「……相沢さん?」


 泣き濡れた目が、春斗を見た。


 その瞬間、春斗は自分が取り返しのつかない場所に踏み込んでしまったことを悟った。


「すみません」


 春斗は反射的に頭を下げた。


「閉店後なのに、勝手に上がってしまって」


 紗良は急いで涙を拭った。


 けれど、もう隠せなかった。


 赤くなった目も、震えた肩も、胸に抱いた本も。


「見ました?」


 静かな声だった。


「……少しだけ」


「そうですか」


 紗良は笑おうとした。


 いつものように。


 でも、その笑顔は途中で崩れた。


「恥ずかしいところ、見られちゃいましたね」


「恥ずかしいことじゃありません」


 春斗は言った。


 言ってから、自分の声が少し震えていることに気づいた。


 紗良は本を見下ろした。


「この本、好きなんです」


「……はい」


「大事な人が書いた本なんです」


 春斗は、何も言えなかった。


 自分は知っている。


 その本を作ったこと。


 原稿を受け取った日。


 遼と交わした会話。


 刊行の打ち合わせをした喫茶店。


 遼が「彼女に一番に読んでほしいんです」と照れたように笑っていたこと。


 そして、その願いが叶う前に、遼がこの世を去ったこと。


 全部、知っている。


 なのに春斗は、その場で言えなかった。


「そうなんですね」


 出てきたのは、そんな薄い言葉だった。


 紗良は顔を上げた。


「相沢さんは、編集者さんですよね」


「はい」


「こういう時、言葉って見つかりますか」


「……見つからないことの方が多いです」


 紗良は少しだけ笑った。


 今度は、無理に作った笑顔ではなかった。


「編集者さんでも?」


「編集者だから、かもしれません。言葉にできないものがあるって、知ってしまうので」


 紗良は本を胸に抱え直した。


「私、昔、書いてたんです」


「小説を?」


「はい。でも、もう書いてません」


「どうしてですか」


 春斗が尋ねると、紗良はしばらく黙った。


 そして、棚の上に置かれた小さな観葉植物を見た。


 葉が、窓から入る五月の夜風に揺れていた。


「書いたら、置いていくことになる気がしたから」


「置いていく?」


「私だけ、先に進むみたいで」


 春斗は息を呑んだ。


 紗良は続けた。


「彼は、書くことが好きでした。私も好きでした。二人でいつか、一緒に本を出そうって笑ってたんです。でも彼だけが本になって、私は書けなくなった」


 紗良の指が、本の背を撫でた。


「彼の夢はここに残ったのに、私が新しいものを書いたら、彼との約束を終わらせるみたいで」


「……」


「だから、私はもう書かないんです」


 その言葉は、あまりに静かだった。


 静かすぎて、嘘だと分かった。


 春斗は思った。


 この人は、まだ書きたいのだ。


 書きたいのに、書けないのだ。


 書くことを諦めたのではなく、諦めたふりをしているだけだ。


 その嘘を、自分の胸に押し込めて、毎日この書店で本を売っている。


 誰かの物語を読者へ手渡しながら、自分の物語だけを閉じ込めている。


「水瀬さん」


 春斗は名前を呼んだ。


 紗良がこちらを見る。


 本当のことを言わなければいけない。


 春斗はそう思った。


 僕は有森遼を知っています。


 僕は彼の担当編集者でした。


 彼があなたに読ませたいと言っていた本を、僕は一緒に作りました。


 言うべきだった。


 でも、言えなかった。


 紗良の目が、あまりにも壊れそうだったから。


 今この場で自分が過去の扉を開けたら、彼女はもう立てなくなるかもしれない。


 そんな臆病な言い訳を、春斗は自分に許してしまった。


「また、読ませてください」


 代わりに、そんな言葉を口にした。


「え?」


「水瀬さんが書いたものを。いつかでいいので」


 紗良は目を見開いた。


 それから困ったように笑った。


「だから、もう書いてないんです」


「はい」


「嘘じゃないですよ」


 春斗は、少しだけ苦しくなった。


「分かっています」


 嘘だと分かっているのに、そう言った。


 その夜から、二人の距離は少しだけ変わった。


 春斗は以前より頻繁に書店へ通うようになった。


 仕事のためだと言い訳しながら、実際には紗良の姿を探していた。


 紗良も、春斗を見るとほんの少し柔らかく笑うようになった。


 けれど、その笑顔の奥にある遠さは変わらなかった。


 五月は、少しずつ終わりに近づいていた。


 雨の匂いが街に混じり始め、店先の紫陽花が色づき始めていた。


 ある日の夕方、春斗は店の二階で紗良と偶然一緒になった。


 人文書の棚の前だった。


 紗良は段ボールを抱えていた。


「手伝います」


「大丈夫です。慣れてますから」


「でも重そうです」


「本は重いんです。知ってますよね、編集者さん」


「知っているので、持ちます」


 春斗が手を伸ばすと、紗良は少し迷ってから段ボールを渡した。


 思ったより重かった。


「……本当に重いですね」


「だから言ったのに」


 紗良が笑った。


 その笑顔に、春斗の胸が少し緩んだ。


 二人で棚の前に段ボールを置き、中の本を出していく。


 古い文庫のフェアだった。


 夏目漱石、太宰治、宮沢賢治、幸田文。


 紗良は一冊一冊、まるで知り合いに触れるように本を扱った。


「水瀬さんは、本が好きなんですね」


「はい。好きです」


「書くよりも?」


 聞いてから、春斗はしまったと思った。


 紗良の手が止まった。


 少しの沈黙。


 それから彼女は、文庫本の角を揃えながら言った。


「読む方が安全です」


「安全?」


「誰かが書いてくれた物語なら、私は傷つかないで済むから」


「でも、読んで傷つくこともあります」


「ありますね」


 紗良は小さく頷いた。


「でも、自分で書くよりはましです」


「どうして」


「自分で書くと、自分が何を欲しがっているのか分かってしまうから」


 春斗は黙った。


 紗良は棚に本を差しながら続けた。


「会いたいとか、戻りたいとか、許されたいとか。そういう気持ちが、文章に出てしまうんです。私はそれが怖い」


「怖いままで、書いてもいいと思います」


「編集者さんは、そう言いますよね」


「相沢春斗個人としても、そう思います」


 紗良がこちらを見た。


 その目に、少し驚きがあった。


「個人として?」


「はい」


「相沢さんにも、怖いものがあるんですか」


「あります」


「何ですか」


 春斗は答えに詰まった。


 君のことを知っているのに、知らないふりをしていること。


 君の大事な人の名前を聞くたびに、自分の胸が痛むこと。


 君が遠くへ行ってしまいそうで怖いこと。


 言えないことばかりだった。


「大事なことほど、言い出せないことです」


 春斗がそう言うと、紗良は少し目を伏せた。


「それ、分かります」


 二人の間に、柔らかい沈黙が落ちた。


 その沈黙を破ったのは、店長の声だった。


「水瀬さん、ちょっといい?」


 一階から呼ばれ、紗良は「はい」と返事をした。


 そして春斗に向き直る。


「相沢さん、ありがとうございました」


「いえ」


 紗良は立ち去りかけて、ふと振り返った。


「私、今月いっぱいでここを辞めるんです」


 春斗の中で、何かが止まった。


「……辞める?」


「はい」


「どうして」


「地元に戻ろうと思って」


「地元?」


「長野です。父が一人なので。あと、少し休みたくて」


 紗良は穏やかに笑った。


 でも春斗には分かった。


 それは、別れを先に受け入れた人の笑顔だった。


「急ですね」


「ずっと考えていたんです」


「この店は」


「好きです。でも、好きだからこそ、離れた方がいいこともあります」


 春斗は言葉を失った。


 見えない遠くへ消えていく。


 そんな感覚が、急に現実の形を持って目の前に立った。


「いつまでですか」


「五月三十一日まで」


 あと十日。


 春斗は、手の中の文庫本を強く握りしめた。


「送別会は苦手なので、こっそり辞めます」


「水瀬さんらしいですね」


「私らしいですか?」


「たぶん」


 紗良は少し笑った。


「相沢さんは、私のこと何も知らないのに」


 その言葉が、春斗の胸を刺した。


 何も知らないわけじゃない。


 でも、本当に知るべきことは何一つ知らない。


 彼女がいつ傷ついたのか。


 いつ安らぐのか。


 どんな夢を、まだ胸の奥に抱きしめているのか。


 春斗は近くにいた。


 でも、何も知らなかった。


 そして、彼女がいなくなるまでに残された時間は、もう十日しかなかった。

読んでくださってありがとうございます。


第1話では、春斗が紗良の涙を見てしまい、三年前に閉じ込めていた過去と向き合う入口を描きました。


紗良が抱いていた本。

亡くなった作家・有森遼。

そして、春斗がまだ言えずにいる真実。


この先、遺された原稿をきっかけに、止まっていた時間が少しずつ動き出します。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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