第二十二話 チェシャ猫
次元の歪みを己が身で体感するのは、これが初めてだった。
まるで自分がこね回されているような、奇妙な感覚である。
分かりやすく表現すれば、乗り物酔いに近かった。正直、あと数秒この感覚が続けば、吐く自信がある。
誰かを連れての転送は、サキムニも初らしい。そして、初挑戦を必ず失敗するのが、彼である。
二人が歪みを抜けた先は、地面から二メートル程高かった。
「うわぁ!」
悲鳴を上げたのは、果たしてどちらだったのか。
無警戒にも程があるが、サキムニをカツアゲした地点から殆ど移動していなかった別役ら目がけ、私たちは着地した。
合コン時は、互いにこざっぱりとした出で立ちだったが、本日こちらは防弾チョッキを着用。そして向こうは腕の刺青を露出した、タンクトップ姿である。
「あ、あんた、合コンの……」
うめいた別役の鎖骨を、分厚いブーツで踏みつける。
ぎゃっ、と短い悲鳴が上がった。緩衝材以外に、鉄板も仕込まれているブーツだ。痛くて当然、ご愁傷様である。
「先日はどうも。そして、今日はウチの後輩に、手を出していただいたそうで」
口元だけで笑う。目は見開いたままだ。相手の心の根底まで、威圧感を植え付けるためである。
サキムニが馬乗りになっている日ノ出は、メガネが割れて状況を把握できていないようだった。
「なぁ、おい、別役! 何も見えねぇんだけど!」
「さっき逃げたウサギ野郎が、合コンのデカ女連れて戻って来たんだっ……あだだだぁっ!」
かかとで、別役の鎖骨を踏みにじる。
「デカ女でなく、宿毛と呼んでいただければ、と思いますので」
そして彼のウィッカを取り出し、これ見よがしにかざす。
「この中に収められていた写真に、物部 久志という男が写っていたんだけど」
わめいていた、別役の声が止まった。サキムニを蹴倒していた日ノ出も、ゴクリと生唾を飲み、硬直した。
分かりやすい反応は嫌いじゃない。
「彼と仲いいみたいね? で、今、彼が怪しいおクスリのことで捕まってるのも、知ってるよね?」
二人の泳いだ目が、肯定だと語る。
「何か知ってたら、教えてくれないかしら?」
子供に言い含めるように、鎖骨から足をどかせ、代わりに頭を掴む。
「お……」
震える声を、別役が絞り出した。
「教えたら、俺ら助かるのか?」
「かもしれないし、そうじゃないかもしれない」
チェシャ猫のように曖昧に答え、
「でも、教えない方が、きっとひどい目に遭うと思うよ」
個人的な負の感情も混じっていたのか、自分でも驚くほど、吐き出した声に温度がなく、ねっとりとしていた。
「分かったよ、お、教えるから! クスリのこと、言えばいいんだろ!」
「とりあえずはね」
声どころか、体全体まで震わせている別役に、内心呆れた。
青柳経由での話だと、久志は未だに「知らない、サプリだと思って貰った。友人の友人から貰ったから、相手の名前も憶えてない」
と、シラを切り続けているらしい。
調べる側としては迷惑な話だが、意外に豪胆な性格である。さすが、屋上でおイタをしようとした猛者は違う。
壊れたメガネを外した日ノ出も、目を細めながらの揉み手である。
「えーっと、宿毛、さんだよね? じゃあ、クスリ作ってる場所に、案内すればいいんだよね?」
「今のところはね」
男子トイレで対峙した時以上にへりくだった態度に、軽くいらつきを覚える。
この二人も、ゼパールのタックルと、お説教を受ければいいのに。
こちらの苛立ちに気づいたのか、尻もちをついたままのサキムニにすら愛想笑いを浮かべ始め、二人は立ち上がった。
「実は、この近くにあるんですよ、クスリの工場?っていうか、隠れ家的なの」
「大がかりにやってるの?」
「いや、まだ俺らの友達の知人が数人で、なんですけど」
自分たちの友達の知人、ね。どこまでが本当なのやら。
とんとん拍子に話が進み、裏路地の奥の奥にある、薄汚れた雑居ビルへ案内される。
社章から届く映像で察知したのか、青柳からメールが入った。
それは一文のみ。
──状況によっては、電気手甲の使用を許可──
日和見な割に、刑事事件が絡むと容赦がないのか。それとも、イビスの一件でかなり苛立っているのか。
元より言われずとも、事後承認頼みで、手甲は使うつもりだったのだが。
低姿勢だった二人の目つきが、階段を上り、三階の一室に着いた途端、悪意を帯びた。
ここがクスリの精製場所であり、そして小悪党どもの巣というわけか。
案の定彼らに案内された部屋には、彼らよりも荒事に慣れ、そしてそれを生き甲斐あるいは生業としていそうな三人の男がいた。部屋の中央のおんぼろソファに二人、奥の机に一人。
室内には、食い散らかしたジャンクフードの残骸が散らばっており、すえた臭いが充満している。シャツの裾を掴んでくるサキムニが、もう片手で鼻を押さえていた。そうか、ウサギは嗅覚もいいんだっけ。
そんな、掃き溜めとしか形容しようのない室内の壁際に、清潔感漂う実験器具のようなものがポツン、と佇んでいた。
足を机に投げ出して最奥の椅子に座る、リーダー格らしきスキンヘッドの大男が、眉根を寄せた。
リーダー格は上座に座る、というのは実社会でも裏社会でも同じらしい。
「オイ、なに女連れ込んでんだよ。っつうか、なんだそいつら? そもそも女だよな、デカい方は?」
私を突き飛ばすようにして前へ出て、別役がゴミだらけの床にひれ伏す。
「安田さん、マジやばいですって! コイツら、プランシー社の人間なんすよ! クスリのこと、気づかれたみたいで!」
「はぁっ?」
安田と呼ばれたリーダーが立ち上がったことで、彼の椅子の後ろに、もう一人いるのだと気づいた。
と、同時に、青柳からの通信要請が入る。
安田を初めとする、男たちをねめつけながら回線を開く。
「宿毛。今、科捜研から連絡があった。麻薬の成分なんだがな、ビーストの血液が原材料らしい」
「その情報、グッドタイミングです。麻薬の精製所で、イビスも発見しました」




