第九話
山本先輩との約束は、隣町の廃工場に二十二時に向かうことだった。
瞬が約束の場所へと続く電柱の前に着いたのは、二十時を少し過ぎた頃。
まだ約束には早いその場所、街灯の冷たい光の下には、いつも通り愛が立っていた。
赤い服、白い顔。
何も変わらないはずのその姿。だが、今夜に限っては、彼女の纏う空気がどこか遠く、触れられないほど希薄に感じられた。
「こんばんは」
瞬の呼びかけに、愛はすぐには答えなかった。ただじっと、射すような視線で瞬を見つめ、それから零すように小さく呟く。
「……本当に、来たんだね」
「今日で終わりにしよう」
瞬の短い、だが決意を秘めた言葉に、愛はそれ以上何も言わず、静かに、深く頷いた。
駅へ向かう道すがら、沈黙を破ったのは愛だった。ぽつりと、探るように尋ねる。
「作戦とかあるの」
「これ見てよ」
瞬は少し得意げな笑みを浮かべ、肩にかけたバッグのジッパーを開いた。
愛が歩みを止め、数秒間、その中身を凝視する。
入っていたのは、何の変哲もない、大きめの鍋蓋だった。
「これでナイフで襲われても大丈夫」
胸を張る瞬の姿に、愛は呆れたように目を細めた。そして、張り詰めていた糸が切れたように、堪えきれず笑いをこぼす。
「バッカじゃないの」
鈴の鳴るような笑い声。瞬も苦笑しながら、すぐに表情を引き締めた。
「……まあ、出たとこ勝負だ」
愛も笑いを引き、同じように頷いた。その瞳からは、もう迷いが消えていた。
最寄り駅を降り、廃工場跡地へ向かうにつれて、街の灯りは遠ざかっていく。
やがて周囲は濃い闇に沈み、アスファルトを叩く二人の足音だけが、不気味なほど静かに響き渡った。
廃工場に着いた頃には、二十一時を回っていた。
錆びついたトタンの壁、割れた窓ガラス。夜風が建物を吹き抜けるたび、どこかで軋む音がキィキィと鳴り響く。
「……なんか、怖いね」
愛が小さく呟いた。
「愛にも怖いものがあるんだ」
瞬が緊張をほぐそうと軽く笑うと、愛はむっとして彼を睨みつける。
「もう——」
その瞬間だった。
引き裂くような鋭い悲鳴が、廃工場の奥から響いた。
二人は顔を見合わせ、言葉もなく同時に駆け出す。
埃っぽい通路を抜け、階段の前まで来たところで、愛が瞬の腕を掴んで制した。
「まず、私が見てくる。瞬はここにいて」
瞬は一瞬だけ躊躇したが、彼女の強い眼差しに圧され、深く頷いた。
愛は音もなく階段を駆け上がり、暗い部屋へと足を踏み入れる。
辺りを支配する、心臓が痛くなるほどの静寂。
だがその直後、愛の背後から、慌てた足音が聞こえてきた。
「もう——」
入るなと言ったのに。そう苦言を呈そうと振り返る。
入口の手前まで、瞬が息を切らしてやってきていた。
その瞬間、愛の視線が凍りついた。
ドアの影。闇が凝固したような場所に、明らかな人影があった。
「来ないで!」
叫びは、間に合わなかった。
人影が、音もなく立ち上がる。
雲の切れ間から差し込んだ月明かりに、凶悪なナイフの刃が鋭く光った。
次の瞬間、凄まじい肉声とともに、刃が瞬の太腿へと深く突き刺さる。
肉を裂く鈍い音。直後、凄惨な悲鳴が廃工場に響き渡った。
「が、あ、っ……!」
瞬は崩れるように膝をつき、激痛に顔を歪めながらも、目の前に立つ男を見上げた。
月光に照らされ、冷酷な輪郭が浮かび上がる。
黒田優也。
男は無表情のまま、虫ケラでも見るかのように冷たく瞬を見下ろしていた。
「馬鹿なやつだ……わざわざ死にに来るなんて」
低く、感情の籠らない声で呟き、黒田は懐からもう一本のナイフを取り出した。
「やめて!」
愛は叫び、黒田へと飛びかかった。
だが、彼女の身体は手応えもなく、黒田の輪郭をすり抜けて虚空を舞う。
何も、届かない。触れることすらできない。
「ひ、う、あ……!」
瞬は必死に床を這い、後退した。血の尾を引きながら、部屋の奥へと足を引きずる。
黒田は愉悦を噛み締めるように、ゆっくりと距離を詰めていく。その口元には、三日月のような笑みが浮かんでいた。
そして、無慈悲にナイフが振り上げられる。
瞬は絶望のなか、強く目を閉じた。
——ドカッ!!
肉と骨が激しくぶつかり合う、鈍い衝撃音。
続いて、重い肉体が床へ崩れ落ちる気配がした。
恐る恐る、瞬が目を開ける。
そこには、黒田が仰向けに倒れていた。
そしてその前に、一人の女が立っている。
山本マリナだった。
彼女は、血に濡れていた。
手に握られたナイフも、衣服も、細い腕も、そして白い頬までもが、べっとりと赤く染まっている。
「⋯⋯瞬くん⋯⋯助けにきたよ⋯」
彼女は、笑っていた。
血に染まったその笑みは、月明りに照らされて、不気味に歪んでいた。




