第十話
ナトリウム灯の青白い光が、破れたトタンの隙間から細く差し込み、這うような血の海を照らし出していた。
「瞬くんのこと……実は私も好きなのよ」
山本マリナの唇が、ゆっくりと、歪な弧を描いていく。それは到底「笑み」と呼べるものではなかった。ただ欲望だけを煮詰めたような、恍惚とした光がその瞳の奥でギラギラと脈打っている。
「告白された時ね……心臓が破裂しそうなくらい、本当に嬉しかったの」
べっとりと赤く染まった靴が、アスファルトを鳴らして一歩、近づいてくる。
「壊してしまいたいほど……。ふふ、やっと、私の望みが叶うのね」
狂気に満ちた愛の告白に、瞬は喘ぐような息を呑み、必死に愛の方へと視線を走らせた。
愛は、両手で激しく頭を抱えていた。その視線は山本マリナに釘付けにされたまま、顔面は生気を失って青ざめていく。
その瞬間、せきを切ったように彼女の記憶がフラッシュバックした。
あの夏の夜。廃工場の生温かい空気。
暗闇の向こうから、血まみれになって走ってきた女の顔。
助けて、という悲鳴。すれ違った直後、背中に冷たい刃が深く突き刺さった、あの悍ましい感触――。
(あの女は――山本マリナだったんだ)
すべての真実が、最悪の形で繋がった。愛を殺したのは、目の前で微笑むこの女だ。
「あら、かわいそうに」
マリナが、這いつくばる瞬の前にしなやかにしゃがみ込んだ。そして、彼の太腿に深く突き刺さっていた黒田のナイフの柄に手をかけると、一切の躊躇なく、ゆっくりとそれを引き抜いた。
「が、あ、っ……あああああぁぁッ!!」
声にならない凄惨な悲鳴が、廃工場の重い空気を引き裂く。瞬は歯が砕けんばかりに食いしばり、床をのたうち回った。あまりの激痛に、視界が白く明滅する。
「もっと……もっといい声で聞かせてよ」
マリナは愉悦に肩を揺らしながら、おもむろに、瞬の新しい傷口へとなめし革のヒールを踏みつけた。肉の潰れる嫌な音が響く。
「なんで……っ、なんでこんなことを……!」
血反吐を吐き出しながら、瞬は命を削るようにして問いかけた。
「私ね、気に入った物を『壊す』のが大好きなの」
マリナは、明日の天気を語るかのような平然とした口調で答えた。
「黒田、も……共犯、なのか……?」
「優也のこと?」
マリナは退屈そうに首を振った。
「違うわよ。あの子、私のことが好きだって言うからさ。だからちょっと、お片付けを手伝ってもらってただけ」
くすくすと笑いながら、マリナはおもむろに首を傾げた。まるでおもちゃの次の遊び方を思案する、無垢な子どものような仕草だった。
「さて、そろそろ続きをやりましょっか。次は……もう片方の足ね」
容赦なく、二本目のナイフが振り上げられる。瞬は死を覚悟した。
――ドカッ!!!
肉体が激しく衝突する鈍い音が、静寂を破った。
突き飛ばされた山本マリナが、不格好に前のめりへと倒れ込む。
その背中には、死んだはずの黒田優也が泥泥の血にまみれながら、必死にしがみついていた。胸の傷口からおびただしい血を流し、息絶え絶えでありながら、その両腕には尋常ではない力が込められている。
「優也……あなた、何してるの?」
床に伏したマリナが、初めて不快そうに眉を寄せ、驚きを含んだ声で呟いた。
呆然とする瞬の視線に、黒田がゆっくりと顔を向けた。その瞳は、黒田のものではなかった。やけに静かな、深い、愛の目だった。
「お願い……逃げて……!」
黒田の口から、掠れた、だが紛れもない愛の声が響く。
「お前……愛なのか!?」
瞬が叫んだ瞬間、下からマリナの低く冷徹な声が這い上がってきた。
「本当に……面倒くさいわね」
狂刃が、黒田の背中へと容赦なく突き立てられた。
「きゃああっ!!」
黒田の肉体を通じて、愛の悲鳴が廃工場に木霊する。
「待ってろ、今行く……!」
瞬が這い上がろうとしたが、黒田の――愛の強い視線が、それを鋭く制した。
血に濡れた顔で、ボロボロになりながら、それでも彼女の瞳は「来るな」と瞬を激しく睨みつけていた。
「やめて……お願いだから、生きて。逃げてよ……!」
瞬は血の味がするほどに唇を噛み締めた。
一秒。永遠のようにも思える停滞。
だが、瞬は愛の遺志を無駄にしないために、涙を振り払って奥の部屋へと向かって足を引きずり始めた。ずるずると、重い血の尾を引きながら。
背後から、肉を抉る鈍い音が何度も、何度も響き渡る。
しかし、愛は、今度は二度と悲鳴を漏らさなかった。ただ静かに、瞬の背中を、その魂のすべてで見守るように。




