第十一話
奥の部屋は、かつて資材置き場として使われていたであろう薄暗い倉庫だった。
天井までうずたかく積まれた段ボール箱と、古びたポリタンクが無数に転がり、まともな足の踏み場もない。瞬は激痛に耐えながら必死に床を這い、入口近くにある段ボールの歪な隙間へとその身を滑り込ませた。
荒い呼吸を押し殺し、震える手でジーンズのポケットを探る。しかし、指先が触れたのは虚しさだけだった。携帯がない。どこかで落としたのだ。致命的な絶望が頭をよぎった、その時だった。
カツン、カツン。
冷酷なまでに等間隔な足音が、コンクリートの床を叩いて近づいてくる。
「瞬くん……出ておいでよ」
闇の奥から、山本マリナの艶を帯びた声が染み出してくる。
「……こんどは、かくれんぼなの?」
少女のように無邪気な、だからこそ悍ましい笑い声が静寂に響いた。
足音はゆっくりと部屋の奥へと向かっていく。バコン、と重く鈍い音が鼓膜を震わせた。ポリタンクが蹴り倒された音だ。続いて、もう一本。また一本。
瞬く間に、鼻を突くような灯油の臭気がじわりと、重苦しく空気に混ざり合っていく。
ガサガサと段ボールが乱暴に崩される音が、一つ、また一つと確実にこちらへ近づいてくる。瞬は唇を血が出るほど噛み締め、呼吸すら止めて祈った。
やがて、ピタリと全ての音が止まり、静寂が落ちる。
恐怖に急かされるように、瞬は段ボールの僅かな隙間から、そっと外の様子を覗き見ようとした。
「……みーつけた」
ひっくり返るような声が、真上から降ってきた。
隙間から覗き込んでいたのは、マリナの顔だった。かつて憧れた先輩の面影はどこにもない。それは笑みというより、人間の顔としての形を保てずに歪みきった、得体の知れない怪物の相貌だった。
「ひっ……!」
直後、細い腕からは想像もつかない力で髪を掴まれ、隙間から引きずり出された。そのまま入口近くの広い床へと、容赦なく転がされる。
「あーそーぼ」
楽しげな囁きと共に、冷たい刃が今度は反対側の太腿へと深く突き刺さった。
「が、あぁぁぁぁぁッ!!!」
割れんばかりの悲鳴が廃工場の高天井に木霊する。マリナはその声を浴びて、狂ったように大声で笑った。
視界が血の涙で霞む中、瞬は壊れた人形のように床を這った。その視線の先、冷たくなって動かなくなった黒田の肉体――そこにいるはずの愛のもとへ、少しずつ、血の尾を引きながら身体を動かしていく。
マリナはそれを見下ろし、まるでお気に入りのおもちゃの最期を観察するように、愉悦に満ちた足取りでゆっくりと後を追ってきた。
「動くな! 警察だ!」
鼓膜を破らんばかりの怒号が響き渡った。
視界を真っ白に染めるほどの強力な懐中電灯の光が一斉に差し込み、大勢の警官隊が倉庫の入口から怒涛の勢いで雪崩れ込んでくる。
そして、その光の渦の中に、見慣れた、泥臭い男の顔があった。
「佐々木……?」
「大丈夫か、瞬!」
佐々木はなりふり構わず、血の海と化した床を滑るようにして瞬のもとへ駆け寄った。
「お前、なんで……ここに……」
「これだよ!」
佐々木は荒い息を吐きながら、自身のスマホの画面を瞬の目の前に突きつけた。
画面に表示されていたのは、昨日から今朝にかけて交わされた、二人のLINEのトーク履歴だった。
『私は神崎愛といいます。信じられないと思いますが本当です』
(おまえ、何冗談言ってるの?)
『瞬を助けてください。明日の午後十時に隣町の廃工場に、山本先輩と一緒に黒田を誘い込みました』
(いいかげん怒るぞ)
『信じてください』
(わかった。むちゃだけはするなよ)
『ありがとうございます』
スクロールされる文字を見つめながら、瞬の目から熱いものが溢れ出た。
メッセージの送信時間は、昨夜、あのコンビニの前で瞬が意識を失い、愛がその肉体を借りていた時間と完全に一致していた。
「あいつ……自分のためじゃなく……」
瞬は小さく、掠れた声で呟いた。
顔を上げると、警官隊に銃口を向けられたマリナが、倉庫の奥の壁際へとじりじりと後退していくのが見えた。完全に包囲されている。しかし、彼女の瞳から光は消えていなかった。
「みんな、道連れよ」
低く、ひどく静かな声だった。
チカッ、と小さな音がして、彼女の細い指先で小さなライターの火が灯る。
それが床一面に広がっていた灯油の海へと落とされるまで、一秒もかからなかった。
ゴオオオッ!!!
凄まじい爆発音と共に、狂暴な炎が床を走り抜けた。火の手は一瞬で壁を駆け上がり、乾燥しきった段ボールを次々と飲み込んでいく。肌を焼き焦がすほどの灼熱の熱気が、一気に向かってきた。
「退避! 全員退避しろ!」
警官たちが叫び声を上げながら、煙の立ち込める出口へと一斉に向きを変える。
その燃え盛る紅蓮の炎の奥で、なおも山本マリナの引き裂くような高笑いだけが、響き渡り続けていた。
「行くぞ、瞬! しっかり捕まってろ!」
佐々木が瞬の身体を強引に背負い上げ、猛煙の中を突き進む。天井を舐める炎の勢いに、古い建物の梁がギギギと悲鳴を上げて軋んだ。
崩落する建物を背に、決死の思いで外へと飛び出すと、夜の冷たい空気が全身を包み込んだ。
ドサドサと、背後で巨大な工場が崩壊していく轟音が鳴り響く。
地獄のような熱風の中、瞬はただ、炎に包まれる廃工場を見つめていた。
轟々と燃え盛る炎の音に混じって、しばらくの間――あの歪んだ笑い声だけが、夜空の向こうへ消えていくように、いつまでも聞こえていた。




