第十二話
轟々と燃え盛る火の粉が、夜空へ高く舞い上がっていく。その圧倒的な熱風と赤黒い炎を見つめながら、瞬は唐突に、引き裂かれるような恐怖に襲われた。
愛がいない。
「愛は……! 愛がまだ、あの中に――!」
地面に両手をつき、ボロボロの身体で再び燃える工場へと這い進もうとする瞬の腕を、佐々木が強い力で掴んで引き止めた。
「おい、落ち着け瞬! 中には他に誰もいなかった!」
「違うんだ! 愛が……愛が黒田の中にまだ残ってるんだよ!」
狂ったように叫んだ、その瞬間だった。
「……瞬」
背後から、鼓膜を優しく撫でるような声がした。
弾かれたように振り返る。
そこには、瞬の後ろに佇む彼女の姿があった。
赤い服、白い顔。しかしその輪郭は驚くほど薄く、背後の激しい炎の光を透かすように、儚くゆらゆらと揺れている。今にも夜の闇に融けて消えてしまいそうだった。
「……ありがとう」
愛が静かに微笑む。その瞬間、夜空の雲の切れ間から、まるで彼女を祝福するかのように柔らかな一筋の光が降り注いだ。まっすぐな光に包まれた愛の身体が、一瞬だけくっきりと、神聖なほど美しく照らし出される。
「本当に……本当にいたんだな……」
隣で、佐々木が呆然と、絞り出すように呟いた。
「明日……明日、水族館に行こう」
瞬は愛を見つめたまま言った。声は激しく震え、涙が視界を遮っていく。
愛は、どこか悲しそうに、困ったように眉を下げて笑った。
「約束、守れなくてごめんね。もう……私、行かなきゃいけないの」
「行かないでくれ!」
気づいた時には、喉がちぎれんばかりに叫んでいた。「君に食べさせたいものも、見せたい場所も、まだたくさんあるんだ……だから、お願いだ!」
大粒の涙が、堰を切ったように瞬の頬を伝い落ちる。
愛はますます困ったように微笑み、その瞳を潤ませた。
「せっかく、最後はちゃんと笑って逝こうと思ったのに……あなたがそんな風に泣くから」
愛の目からも、とめどなく、静かに涙が溢れ出した。
その涙が、瞬の差し伸べた手に触れた瞬間――ひんやりとした、けれど確かな温度が伝わってきた。
瞬は夢中で、愛の細い身体を抱きしめた。腕の中に、確かに柔らかい何かの実存があった。
「行かないでくれ……お願いだから、ここにいてよ……」
「瞬は……あったかいね」
愛は瞬の胸に顔を埋め、世界で一番優しい声で囁いた。
「今まで、本当にありがとう」
次の瞬間、腕の中から、抱きしめていた温もりが嘘のように消え去った。
同時に、限界を迎えた瞬の意識も、深い水底へと静かに落ちていった。
◇
目を覚ますと、そこは無機質な病院のベッドの上だった。
動かない身体のまま、枕元のテレビをつけると、連日同じニュースが冷淡に流れていた。事件の容疑者として、黒田優也と山本マリナの名前が繰り返し読み上げられる。二人が勤めていた会社には連日記者たちが押しかけ、業績は一気に悪化していった。
そして――あの焼け焦げた廃工場跡から発見されたのは、男性の遺体、たった一体のみだった。
山本マリナの遺体は、どれだけ捜索しても、ついに見つからなかった。
退院した日の帰り道、瞬は引き寄せられるように、いつもの電柱の前に立った。
ナトリウム灯ではなく、ありふれた街灯の光が静かにアスファルトを照らしている。当然だが、そこにはもう、赤い服の少女は立っていなかった。
「ありがとう」
誰もいない、冷たい夜の空気に向かってぽつりと呟き、瞬は前を向いて歩き出した。
それからの瞬は、胸に空いた穴を埋めるように、ただがむしゃらに仕事に打ち込んだ。彼女のことを、思い出す暇もないくらいに。
気づけば、あの夜から一年という月日が流れていた。
会社の業績は完全に持ち直し、瞬と佐々木は昇進してチーフになっていた。
久しぶりに二人きりで飲みに行った夜、瞬は胸の奥に仕舞い込んでいたすべてを話した。愛と出会ったこと。電柱の前で何度も他愛のない会話を交わしたこと。そして、あの廃工場の夜の出来事。
佐々木は酒杯を傾けながら、黙って聞いていた。途中で何度か小さく相槌を打ちながら、茶化すこともなく、最後まで真剣な目で。
気づけば夜は深く更けていた。心地よい酔いを引きずりながら静かな夜道を歩いた。
見慣れた角を曲がると、あの電柱が見えてくる。
その街灯の影に、ふっと、鮮烈な色が視界に飛び込んできた。
視覚を灼くような、赤い服。
瞬はピタリと足を止めた。心臓が大きく跳ね上がり、息を呑む。
「こんばんは。こんな遅くに危ないよ……何してるの」
声をかけると、その少女がゆっくりと振り返った。
間違えるはずがない。愛だった。
「……あなたがあんなに泣くから」
どこか怒ったような、でもひどく照れくさそうな、鈴を転がすような声。
「妙な未練が生まれちゃったじゃないの。……責任とって、私がちゃんと成仏するまで付き合いなさいよね!」
愛はぷくっと頬を膨らませ、生意気に瞬を指差して叫んだ。
瞬は愛を見た。愛は瞬を見た。
次の瞬間、どちらからともなく同時に吹き出していた。
笑いが止まらなかった。静まり返った住宅街の夜に、一年越しの、二人分の楽しげな笑い声が優しく響き渡る。
ひとしきり笑い転げたあと、瞬は涙を拭って、肩の力を抜いて言った。
「じゃあ……まずは水族館だな」
「明日の朝、またここで」
「明日の朝、またここで」
二人の声が、今度こそ重なり合い、心地よい夜風に溶けていった。




