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今夜、月が輝く電柱の前で⋯  作者: あると


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8/12

第八話


その夜も、いつもの電柱の前に彼女はいた。

ナトリウム灯の青白い光が、夜の闇を円形に切り取っている。その境界線の上で、愛の赤い服が意思を持つ生き物のように、夜風に小さく揺れていた。

「こんばんは。奇遇だね」

瞬はポケットに手を突っ込んだまま、なるべく普段通りのトーンで声をかけた。

だが、愛は視線を鋭くこちらに寄こしたかと思うと、すぐにツンと顔を背けてしまった。

「知らない」

頑なで、どこか拗ねた子どものような声。

瞬の唇の端から、自嘲気味な苦笑が漏れる。

「まだ怒ってるのか」

返事はない。ただ、白い頬をこれ見よがしに膨らませて横を向いている。

そのあまりに年相応の少女らしい仕草を見ていると、彼女が五年前に命を奪われた「この世の者ではない存在」だという現実が、にわかに信じられなくなる。だからこそ、不思議な愛おしさと共に、胸の奥がちりりと痛む。

瞬は肺の底から冷たい空気を吐き出し、張り詰めた本題を切り出した。

「実は明日……山本先輩と一緒に、黒田主任を隣町の廃工場へ誘った」

その瞬間、愛の身体が弾かれたようにこちらを向いた。

「――何言ってるの!?」

静寂に沈んでいた住宅街を切り裂くような声だった。

大きく見開かれた彼女の瞳には、ドス黒い怒りと、それを上回る圧倒的な焦燥が入り混じっている。

「なに考えてるの!? 自分が何をしようとしてるのか、わかってるの!?」

「わかってるつもりだけど」

静かに、諭すように瞬は答えた。しかし、愛は拒絶するように強く首を振る。

「全然わかってない……!」

彼女の声が、小刻みに震え始めていた。

「相手は、殺人犯なんだよ……!?」

「わかってる」

瞬は逃げずに、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめ返した。

「でも、このままだと山本先輩が危ない。あいつの次の標的にされるかもしれないんだ」

愛の唇が戦慄き、言葉が途切れた。

何かを言いかけ、しかし喉の奥でつかえたように俯く。ぎゅっと噛み締めた薄い唇から、かすかな血の滲むような悔しさが伝わってくるようだった。

二人の間を、冷たい夜風が通り抜けていく。アスファルトの冷気が足元から這い上がってくるような、長い沈黙。

やがて、愛はゆっくりと顔を上げた。

怯えに染まっていた瞳の奥に、何かを明確に決意した、冷徹な光が宿っていた。

「……私も行く」

瞬は少しだけ目を見開いた。驚きはすぐに、確かな熱を帯びた安心感へと変わる。

「一緒に行こう」

瞬が優しく微笑むと、愛は微かに、けれど力強く頷いた。

だが、その次の瞬間だった。彼女はまったく脈絡のない、拍子抜けするような言葉を口にした。

「クレープが食べたい」

「……は?」

緊迫していた脳の回路が強制終了されたような、間の抜けた声が瞬の口から漏れた。

「だって、食べたいんだもん」

愛はさも当然と言わんばかりに胸を張る。数秒前までの凍りつくような深刻さは、一体どこへ霧散してしまったのだろうか。

「こんな時間にクレープ屋なんてやってないだろ」

「じゃあ、コンビニスイーツで我慢する」

一歩も引かない即答だった。

瞬は思わず片手で額を押さえた。やれやれ、と小さく息を吐き出す。

「しょうがねえな」

その言葉を聞いた瞬間、愛の顔に少女らしい、灯火のような笑みが咲いた。

二人は並んで歩き出す。街灯の明かりが、アスファルトの上に二つの歪んだ影を落としていた。一つの影は確かに実体から伸び、もう一つの影はどこか希薄で、夜の闇に融けかかっている。

道すがら、愛はまた映画の話を始めた。

この前、瞬の肉体を借りて観たあの恋愛映画のことだ。お気に入りの台詞、中盤に仕掛けられていた伏線の妙、そしてラストシーンの映像美――。語り始める彼女の熱量は、まるで堰を切ったように溢れ出し、止まる気配がない。

瞬は相変わらずその内容の半分も理解できていなかったが、「へえ」とか、「そうだったのか」とか、適当な相槌を打ちながら、ただその楽しげな横顔を見つめていた。その声を耳に届かせていたかった。

不意に、愛が語り口を緩め、上目遣いで瞬を見た。

「次は、水族館に行きたいな」

「次?」

「だめ……?」

急に小さくなった、不安げな声。

瞬は小さく吹き出し、肩の力を抜いた。

「別にいいけど。お化けって水槽をすり抜けたりしないのか?」

「しないわよ、馬鹿」

本当? と嬉しそうに目を細める愛の顔を見て、瞬の胸の奥に「明日を生き延びる」ための確かな楔が打ち込まれた。

そんな他愛のない会話を交わしているうちに、行く手に白々としたコンビニの灯りが見えてきた。

店内に入ると、愛は真剣そのものの表情でスイーツコーナーの前に佇んだ。まるで人生のすべてを左右する選択を迫られているかのような横顔だ。

数分間、棚を睨みつけた末に彼女が選んだのは、クリームが限界まで詰まった大きなシュークリームだった。

店を出ると、夜風の冷たさが一段と増していた。

愛はプラスチックのパッケージ越しにシュークリームを見つめ、ぽつりと呟いた。

「やっぱり……ちょっと緊張する」

「俺の方が緊張するんだけどな。寿命が縮む気がする」

瞬が苦笑すると、愛は申し訳なさそうに眉を八の字に下げた。それでも、生身の「味覚」への未練には勝てなかったらしい。

瞬は観念したようにベンチに腰掛け、ゆっくりと目を閉じた。

「ほら、おいで」

愛が静かに頷く気配がした。

次の瞬間、心臓の奥に冷たい氷の塊が突き刺さるような、あの独特の感覚が滑り込んできた。

全身の筋肉から一気にあらゆるエネルギーが剥ぎ取られていく。視界が急速にブラックアウトし、瞬の意識は重い水底へと沈んでいった。

――。

――――。

ハッと気がついたとき、瞬はコンビニの外のベンチに横座りになっていた。

身体は泥のように重く、頭の芯がぐわんぐわんと激しく脈打っている。指先一つ動かすのにも、強烈な意思が必要だった。

隣には、両手を胸の前で小さく組みながら、愛が立っていた。

その表情は、どこか満足げで、同時にひどく申し訳なさそうで……複雑に揺れていた。

「……ありがとう」

消え入るような小さな声。瞬は掠れた声で笑ってみせた。

「ちゃんと、食えたか?」

愛はこくりと頷き、それから少しだけ視線を落とした。

「……ごめんね。また、無理させちゃって」

「全然大丈夫。これくらい」

瞬は膝の震えを抑えながら、ゆっくりと立ち上がった。足元が少しふらついたが、何とか踏みとどまる。

愛はそれ以上何も言わなかった。ただ、街灯に照らされた彼女の横顔は、言葉とは裏腹に、張り裂けそうなほど寂しそうに見えた。

二人は並んで、来た道を戻り始める。

もう、会話はほとんどなかった。けれど、そこに気まずさは一切ない。ただ、お互いの存在の気配だけが、冷たい夜の空気の中で静かに通い合っていた。

やがて、いつもの電柱の前へと辿り着く。

青白い光が、いつものように彼女の立つべき場所を照らしていた。瞬は足を止め、愛へと向き直る。

「明日。またここで」

愛はしばらくの間、じっと瞬の顔を見つめていた。

何かを言いたそうに、その小さな唇が微かに動く。けれど、彼女はその言葉を喉の奥へと静かに飲み込んだ。

代わりに、精一杯の、けれどどこか儚い微笑みを浮かべる。

「……うん。また明日」

瞬は小さく手を上げ、そのままアパートへ向かって歩き出した。一歩進むごとに、身体の重みが現実の感覚を取り戻していく。

愛はその背中を見送っていた。

夜の闇へ遠ざかっていく、彼の後ろ姿を。

角を曲がり、完全にその姿が見えなくなるまで、一瞬たりとも目を逸らさずに。

まるで、届かない神に祈りを捧げるように。どうか、彼が無事でありますようにと、魂のすべてで願うように。

彼女は街灯の下で、ただ静かに、いつまでも立ち尽くしていた。



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