第六話
翌朝、電柱の前に愛は立っていた。
朝の光を受けて、彼女の赤い服はいつもよりも鮮やかに見える。落ち着かない様子で体を揺らしながら、どこかぎこちなく佇んでいる。その姿は、瞬の知っている愛とは少し違っていた。
「おはよう」
愛はぺこり、と不自然に頭を下げた。
その瞬間、瞬は思わず吹き出した。こらえようとしても笑いが止まらない。
「……何よ」
愛が小さく呟く。顔はみるみる赤くなっていった。
「あのひと、ひとりで笑ってる」
通りすがりの子どもが母親の手を引きながら言う。
「しーっ、指ささないの」
母親は慌てて子どもを連れて去っていった。
愛の頬から赤みが引いていく。俯き、ほんの少し寂しそうな表情を浮かべた。
「……行こっか」
瞬は何事もなかったように歩き出した。愛は黙ってその隣に並ぶ。
映画館は混雑していた。流行りの恋愛映画。瞬にとっては、正直あまり興味のないジャンルだった。
照明が落ち、スクリーンが光を帯びる。
しばらくして、瞬はあくびをこらえながら、ふと隣を見た。
愛の頬を、涙が伝っていた。
スクリーンから目を離さないまま、拭おうともしない。ただ静かに泣いている。
瞬は、その横顔から目を離せなくなった。
やがてエンドロールが流れ始める。
そのとき、愛がこちらを向いた。瞬は慌てて前を向く。
「終わったよ」
「あ、ああ……面白かったな」
愛は少し首を傾げたあと、堰を切ったように話し始めた。
あの台詞が良かった、あの場面の伏線が最後に繋がっていた、主人公の表情が――
その熱量に、瞬はまったくついていけない。
「うん」「そうだな」「確かに」
適当な相槌を打ちながら、内容はほとんど頭に入っていなかった。それでも、楽しそうに語る愛の横顔から、目を逸らせなかった。
映画館を出ると、通りにクレープ屋の屋台が出ていた。
ふいに、愛の足が止まる。
屋台をじっと見つめていた。
「……食べよっか」
瞬が言うと、愛はゆっくり振り向いた。
「私は食べられないの」
その声は、少しだけ寂しそうだった。
「俺の体、使えないのか」
愛は答えない。
瞬はそのまま屋台に向かい、愛が見ていたクレープを買った。チョコとストロベリーのやつだ。
戻ってきて、それを差し出す。
「さあ、こい」
「無理よ」
「じゃあ捨てるぞ」
「……もう」
呆れたように言いながらも、愛は観念したように小さく息をついた。
「どうなっても、知らないわよ」
次の瞬間、愛が瞬の中へと滑り込んできた。
全身から一気に力が抜ける。激しい疲労感に襲われ、視界が暗くなる。
瞬は、そのまま意識を手放した。
体の内側で、愛はクレープを口に運ぶ。
甘さが広がった。
「美味しい——!」
思わず声が漏れる。
周囲からくすくすと笑い声が起きた。愛ははっと我に返り、そそくさとその場を離れる。人目のない場所まで移動し、急いでクレープを食べきった。
やがて、体を返す。
瞬はベンチに崩れ落ちるように座り込んだ。足元が覚束ない。頭の中がぐるぐると回っている。
愛はその隣に立ち、少し俯いた。
「……ありがとう」
かすかな声だった。
「瞬くんじゃない!」
そのとき、声が響いた。
顔を上げると、山本先輩が手を振りながら近づいてくる。その隣には黒田主任の姿もあった。
「何してるの?」
「……買い物です」
答えながら、瞬はちらりと愛を見る。
愛は黒田主任を見つめていた。
目を見開き、瞬きもせずに。
そこに浮かんでいたのは――驚きではなかった。




