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今夜、月が輝く電柱の前で⋯  作者: あると


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第五話

その日の帰り道も、電柱の前に愛は立っていた。

瞬が足を止めると、愛の方から口を開いた。

「……こんばんは」

思わず、瞬は少し目を見開いた。いつも自分から声をかけていた。愛の方から挨拶してきたのは、初めてだった。

「こんばんは、神崎さん」

愛は小さく微笑んだ。街灯の光の中で、その顔はいつもより少し柔らかく見えた。

しばらく他愛のない話をした。風が冷たいこと。夜が少し長くなってきたこと。それだけのことが、以前より自然にできるようになっていた。

一区切りついたところで、瞬は言った。

「神崎さん、本当は覚えてるんでしょ」

愛の表情が、わずかに止まった。それから、静かに頷いた。

「もし良ければ、教えてくれないか。相棒として」

愛は少し俯いた。沈黙が落ちた。

やがて、遠くを見るように顔を上げた。視線の先には、マンションがそびえていた。

「今はあのマンションが建ってるけど……五年前は、廃工場の跡地だったの」

静かな声だった。どこか、記憶の底を手探りするような声だった。

「その日は夏の大会前で、部活が終わったのが遅くなって。ここを通ったのは、二十時を過ぎてたと思う」

愛の目が、少し遠くなった。

「廃工場の方から、声が聞こえたの。女の人の声。怖かったけど……中に入った」

瞬は何も言わなかった。ただ、愛の横顔を見ていた。

「工場の脇から——」

愛の言葉が、一度途切れた。

「血まみれの女の人が走ってきた。助けて、って叫びながら。その人の後ろに、ナイフを持った男がいて——」

「辛かったら、言わなくていい」

瞬は咄嗟に言った。

愛は首を振った。「大丈夫」

でも声は、さっきより少し低くなっていた。

「その女の人が、私とすれ違って……」

そこで、愛の言葉が止まった。

今度は、すぐに続かなかった。

「……そこまでしか、覚えてないの」

静かに言った。

「気がついたら、この電柱の前に立ってた」

その一文だけが、夜の空気に溶けた。

愛の目から、涙が一筋こぼれた。拭おうとしなかった。ただ、まっすぐ前を向いたまま、静かに流れるのに任せていた。

「……辛いことを思い出させてごめん」

瞬が言うと、愛は小さく首を振った。

「男の顔は覚えてる?」

愛はもう一度、首を振った。

二人の間に、夜風が通り過ぎた。街灯がじっと光っていた。


翌日の昼休みも、当たり前のように黒田主任と山本先輩が向かいに座った。

佐々木は黒田の顔を見るなり、隠しきれない表情をした。怪訝というより、値踏みするような目だった。

黒田はそれに気づいた。箸を置いて、静かに言った。

「昨日のこと、疑ってるのか」

「そんなこと思ってないです」

佐々木はそっけなく答えて、横を向いた。

山本先輩がくすりと笑った。

「この人がそんなこと出来るわけないじゃん。こう見えて結構ビビりなのよ」

「おい」

黒田が少し赤くなって睨んだ。山本先輩はいたずらっぽく笑ったまま、知らん顔をした。

その時だった。

食堂のテレビから、チャイム音が鳴った。

全員が画面に目を向けた。緊急速報のテロップが流れ、アナウンサーが神妙な顔で読み上げていた。数年前からこの地域で続いていた連続殺人事件——容疑者が特定されたという。だが容疑者はすでに自室で首を吊って死亡しており、部屋からは被害者のものとみられる指がホルマリン漬けの状態で複数発見された、と。

そして、容疑者の名前が読み上げられた。

食堂がざわついた。

ざわめきが、どんどん大きくなった。瞬は周囲を見回した。顔見知りの上司たちが顔を見合わせ、何人かが慌ただしく席を立ち始めた。幹部クラスの何人かは、スマホを耳に当てながら足早に食堂を出ていった。

「……取引先の専務じゃないか」

誰かが、呆然としたように呟いた。

やがて食堂から人が引いていき、静寂が落ちた。さっきまでの喧騒が嘘のように、空気だけが残った。

佐々木はゆっくりと黒田の方を向いた。それから、静かに頭を下げた。

「……すみませんでした」

黒田は何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。

瞬は静まり返ったテレビ画面を見たまま、ぼんやりと思っていた。

——愛に、教えてあげなければ。

早く夜になってほしかった。それだけだった。


その夜、瞬は帰り道を足早に歩いた。

電柱の前に、愛はいた。赤い服。街灯の光。いつもと同じ場所に、いつもと同じように立っていた。

「こんばんは」

「こんばんは」

愛は微笑んで答えた。それだけで、瞬の足が少し軽くなった。

「今日、いいニュースがあるんだ」

愛が首を傾けた。興味ありそうな目で、こちらを見た。

「どんな話なの」

「犯人が見つかった。自殺してたみたいだけど……」

愛の顔が、止まった。

驚きと、それから——何か別のものが、静かに混ざっていた。しばらく黙ってから、愛は小さく呟いた。

「……そうなんだ」

嬉しそうではなかった。悲しそうでもなかった。ただ、少し遠くを見るような、寂しそうな顔だった。

瞬はその顔を見て、少し間を置いてから聞いた。

「神崎さん、やりたいこととかないの。やり残したこととか」

愛は黙った。

上を向いて、夜空を見た。街灯の光の中で、その横顔がじっと考えていた。

答えは、来なかった。

瞬は少し笑って言った。

「明日、休みなんだ。少し付き合ってくれない」

愛がこちらを向いた。

「どこ行くの」

「明日のお楽しみ」

愛は少し眉を寄せた。納得していない顔だった。でも、何も言わなかった。

「明日の朝、またここで」

そう言い残して、瞬は家に向かった。

背中に、愛の視線を感じた気がした。振り返らなかった。


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