第三話
取調室は狭かった。
蛍光灯の白い光が、壁も床も均等に照らしていた。温度のない部屋だった。パイプ椅子に座らされた瞬の向かいに、中年の警官が腰を下ろし、手帳を開いた。
「あそこで何をしてたんだ」
「だから、一緒にいた少女と話してたんです」
警官は顔を上げた。呆れたような、哀れむような目だった。
「お前、変な薬でもやってるのか。お前一人だったろ」
「……」
瞬は黙った。少女の笑顔が頭をよぎった。あれは確かにそこにあった。自分だけに見えていたとしても、確かに笑っていた。
何も言えなかった。
警官はため息をついて、手帳を閉じた。
「まあいい。本題はそっちじゃない」
そう言って立ち上がり、棚から分厚いファイルを取り出した。テーブルの上に数十枚の写真を並べていく。どれも若い女性だった。
「数年前からこの界隈で、大勢の女性の殺人事件が起きてる。まあお前とは関係ないと思うが、現場付近にいた以上、一応聞かないといけないんでね」
瞬は写真に目を落とした。
一枚ずつ、顔を確認していく。知らない顔、知らない顔、知らない顔——
手が止まった。
「この子と話してたんだ」
気づいたら叫んでいた。「あの電柱の前で。この子です」
写真の中の少女が、こちらを見ていた。赤い服ではなく、制服姿だった。でも間違いなかった。あの目、あの顔、あの静かな表情。
警官は写真を一瞥して、低い声で言った。
「何馬鹿なこと言ってるんだ」
「でも——」
「この子は神崎愛。五年前、河原で遺体で発見されている」
部屋が静止した。
蛍光灯がじっと光っていた。
五年前。
遺体。
瞬の顔から、音もなく血の気が引いた。
解放されたのは、それから一時間後だった。
夜道を歩きながら、瞬は一度も顔を上げなかった。
神崎愛。
彼女に名前があった。自分で「わからない」と言っていたのに、名前があった。五年前に死んでいた。そして今も、あの電柱の前に立っていた。
家の鍵を開ける手が、微かに震えていた。
ドアを閉めて、そのまま壁にもたれた。
「……嘘だろ」
暗い部屋の中で、ひとりごとのように呟いた。
今日、初めて会社をサボった。
眠れなかった。それもあったが、それだけじゃなかった。あの蛍光灯の下で見た写真が、目を閉じるたびに浮かんだ。神崎愛。制服姿で、こちらを見ている顔。
起き上がれなかった。
午前九時を過ぎた頃、スマホが鳴った。佐々木からのLINEだった。
お前、大丈夫か?
瞬は少し考えてから、画面を叩いた。
ごめん、熱が上がって寝込んでる
送信してから、天井を見た。嘘をついた、という感覚はあまりなかった。本当のことを話せる気がしなかっただけだ。
すぐに返信が来た。
よかった……
お前、心配したぞ
本格的に取り憑かれたのかと思った
もう、あの電柱には近づくな
今日はゆっくり休め
茶化しているのか心配しているのか、佐々木らしい文面だった。
ありがとう
それだけ返した。
しばらくして、また通知が来た。
山本マリナからだった。
瞬くん大丈夫なの?
ご飯作りに行こっか?
瞬は画面を見たまま、少し眉を寄せた。
またこの人は、と思った。振っておいて、こういうことをする。悪気がないのはわかっている。わかっているから、余計にイラっとした。
ありがとうございます
うつすと大変だから大丈夫です
送信して、スマホを伏せた。
少し罪悪感があった。マリナ先輩は本当に心配してくれているのだろう。それはわかっていた。でも今は、その優しさをうまく受け取れる気がしなかった。
カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいた。
瞬はベッドに入り、目を閉じた。
神崎愛。
十八歳で死んだ。五年前。自分の名前も忘れて、殺した相手も忘れて、それでも毎晩あの電柱の前に立っていた。
何を探していたんだろう。
誰を探していたんだろう。
——わからないの。
あの声が、静かに耳の奥で響いた。
瞬はしばらく天井を見つめてから、目を閉じた。
目が覚めると、部屋が暗かった。
時計を見た。22時を過ぎていた。カーテンの隙間から、夜の空気が滲んでいた。
瞬は起き上がり、冷蔵庫から適当なものを出して腹に入れた。味はよくわからなかった。食べている間も、頭の中には神崎愛の名前があった。
上着を羽織り、部屋を出た。
思い詰めた顔をしているのは自分でもわかっていた。それでも足は、いつもの道を進んでいた。
電柱の前に、少女は立っていた。
赤い服。街灯の下。いつもと同じ場所に、いつもと同じように。
「こんばんは」
瞬はいつものように声をかけた。
少女が振り向いた。
瞬は一度だけ息を吸った。
「愛さん……神崎愛さんだよね」
少女の顔が、ピクリと動いた。
わずかな変化だった。でも確かに、何かが揺れた。
「……どうして知ってるの」
無表情のまま、静かに聞いてきた。
「昨日、警察署で聞いた」
瞬は目を逸らさなかった。
「君は自分を殺した犯人を探してるの?」
少女の顔が、ゆっくりと歪んだ。
恨みなのか、悲しみなのか、判断がつかなかった。その両方が混ざったような、言葉にならない表情だった。
「……そうだったら」
愛は静かに言った。
「どうするの?」
瞬は何も言えなかった。
どうする、と聞かれても、答えを用意していなかった。ただ会いに来た。ただ名前を呼びたかった。それだけだった。
沈黙が落ちた。
愛はしばらく瞬を見ていた。それから、一度だけ目を伏せた。
「もう、来ないで」
声が低くなった。
「これ以上近づくと……あなたを呪い殺すわよ」
次の瞬間、いなかった。
音もなく、煙のように。街灯だけが、変わらず光っていた。
瞬はその場に立ち尽くした。
消える間際の顔が、頭から離れなかった。
恐ろしい言葉を言っていた。でもあの顔は、怒っていなかった。泣きそうなほど、悲しそうだった。
追い払おうとしていたのか。
それとも——巻き込みたくなかったのか。
瞬は電柱を見上げた。街灯が黙って光っていた。




