第二話
本物だった。
瞬は思わず息を飲んだ。先週の記憶は酔いのせいだと思っていた。だが、目の前に確かに立っている。赤い服、白い顔、街灯の光の中で微動だにしない少女。
心霊にしては、あまりに人間っぽかった。
「こんばんは」
気づいたら口から出ていた。
少女は無表情でこちらを覗き込む。先週と同じ目だった。やけに静かな、深い目。
怖い、と思う気持ちより、何故か気になる気持ちの方が勝った。
「探してる人は、見つかったの?」
少女は軽く首を振った。
「家族を探してるの?」
「違う」
短く、はっきりと答えた。声は思ったより低かった。幼い見た目に似合わない、落ち着いた声だった。
「そっか」
瞬はしゃがんで少女と目線を合わせた。
「俺は速水瞬。君は?」
少女は少し黙った。それから、困ったような、悲しいような顔をして言った。
「わからない」
自分の名前がわからない。
普通なら怖い言葉のはずだった。だが、その顔があまりに真剣で、あまりに寂しそうで、瞬は怖いとは思わなかった。
——俺も似たようなもんだな、とまた思った。五年間追いかけて、自分が何を求めていたのかも、結局よくわからなかった。
(お化けじゃないじゃん)
根拠はなかったが、なぜかそう思った。それだけで、ふっと肩の力が抜けた。
「こんな遅くに危ないから送るよ」
そう言って少女の方に目を向けると——いなかった。
さっきまで確かにそこにいたのに、跡形もない。走り去る音もしなかった。ただ、もういなかった。
「……めっちゃ足が早いな」
驚きと呆れが混ざったような声が、静かな住宅街に小さく響いた。
瞬は立ち上がり、電柱を一度だけ見上げた。街灯がじっと光っていた。
家に向かいながら、瞬はなんとなく思った。
——また、ここを通ろう。
「やっぱりお化けじゃなかったよ。普通の女の子だったよ」
昼休み、食堂のテーブルを挟んで、瞬は佐々木に昨夜のことを話した。
佐々木は箸を止めた。
「よく考えろよ」
呆れた声だった。
「普通の女の子は、こんな時間に電柱の前にいないだろ」
「だけど、普通に話してたぞ。ちゃんと返事もしてたし」
「普通の女の子は、そんなに早く走れない」
佐々木は少し声を落として続けた。
「……お前、取り憑かれてるんだよ」
心配しているのが、声ににじんでいた。
瞬は黙った。箸を持ったまま、テーブルの一点を見つめた。
取り憑かれている。その言葉を頭の中で転がしてみたが、どうしてもそんな気がしなかった。あの目が、あの声が、幽霊のものだとは思えなかった。
「それはかなり危ないわねー」
背後から声がこぼれた。
二人が同時に振り返ると、山本マリナが微笑みながら軽く手を挙げた。またこのタイミングか、と瞬は思った。
「瞬君、それ呪われてるんじゃないの?」
からかうような、でも少し心配そうな声だった。
「あの子はそんなんじゃない」
瞬は短く言い切った。それだけ言うと、食べかけのトレーを持って足早に席を立ち、仕事に戻った。
佐々木と山本先輩は顔を見合わせた。
二人とも、同じような呆れ顔をしていた。
その夜も、瞬は遠回りをして電柱の前を通り
街灯の下を見た瞬間、胸の奥がわずかに跳ねた……そこに少女はいた。
「こんばんは」
瞬は当たり前のように声をかけた。三度目になると、もう緊張はなかった。
少女は無表情で振り返った。赤い服。いつもと同じ場所に、いつもと同じように立っていた。
「探してる人は見つかった?」
少女は悲しそうに首を振った。
「そっか」
瞬はため息をついて、少女の隣の電柱にもたれた。
「今日さ、昼休みに友達に話したんだよ。お前のこと」
少女は何も言わない。ただ、不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「佐々木っていう同期なんだけど、取り憑かれてるんじゃないかって心配されてさ。お前のことお化けだって言うんだよ」
しゃべりながら、自分でもおかしくなってきた。
「しかも職場の先輩にまで聞かれて。呪われてるんじゃないのって。散々だろ」
少女は黙ったまま聞いていた。表情は動かない。だが目が、さっきより少し柔らかくなっていた気がした。
「まあ、俺自身もよくわかってないんだけどな。お前が何者なのか」
言いながら、瞬は苦笑いした。
「でも、なんか話したくなるんだよな。不思議と」
その時だった。
少女が、笑った。
声は出ていなかった。でも確かに、口の端が上がって、目が細くなった。瞬が一生懸命に話す様子を見て、堪えきれなくなったような、そういう笑い方だった。
「——なんだ、笑えるじゃん」
思わず呟いた。
その瞬間、強い光が二人を真正面から照らした。
眩しさに目を細める。光の中から、鋭い声が響いた。
「なにしてる」
警察だった。
懐中電灯を向けたまま、制服姿の警官が二人近づいてくる。
「この付近で、深夜に独り言を言っている不審者がいると通報があった」
「一人じゃないですよ」
瞬は反射的に言った。「ここに——」
少女の方を向いた。
いなかった。
電柱だけが、光の中に白く浮かんでいた。
「……」
「署で詳しく話を聞く」
警官は有無を言わさぬ口調で言った。
瞬はもう一度だけ電柱を見た。
少女の姿は、どこにもなかった。




