第一話
今日、振られた。
相手は山本マリナ、二つ年上の先輩だ。同じチームのリーダーで、仕事ができて、声が低くて落ち着いていて、怒った顔を一度も見たことがない。十八歳で入社した日から、気づけばずっとその背中を追いかけていた。
五年間だった。
たまに二人で食事に行く仲だった。思わせぶりだと思っていたのは、自分だけだったらしい。今日、意を決して気持ちを伝えると、マリナ先輩は少し困ったように目を伏せ、静かに言った。
「付き合ってる人がいるの」
それだけだった。
「ふざけるなよ……思わせぶりな態度を取りやがって」
速水瞬はビールジョッキを飲み干し、吐き捨てた。
「もうちょい静かにしろ」
向かいの席で佐々木が苦笑いしながら宥める。同期の中で一番付き合いの長い男だ。何も聞かずに飲み付き合ってくれる、それだけで十分だった。
「飲みすぎだ、今日はもう帰るぞ」
佐々木は会計を済ませ、瞬の背中をそっと押した。外の空気は、思ったより冷たかった。
帰り道の記憶は、ところどころ抜けている。
気づけば見慣れた住宅街に入っていた。街灯の少ない、いつもの道。アスファルトが滲んで見えるのは酒のせいだ、と自分に言い聞かせた。
電柱の前に、少女が立っていた。
赤い服。
時刻を確認しようとして、画面を二度見した。AM2:34。
十八歳前後だろうか。こんな時間に一人でいるはずがない。幻覚だと思った。だが足が止まった。
「こんな遅くに危ないよ。何してるんだ?」
少女はゆっくりとこちらを向いた。無表情だった。その目だけが、やけに静かだった。
背筋を、冷たいものが這い上がった。
「人を探してるの」
「誰を?」
少女は少し間を置いた。
「わからないの」
子どもらしい響きのない声だった。途方に暮れているというより——長い時間をかけて探し続けて、それでも見つけられないまま疲れ果てた、そういう顔をしていた。
瞬の胸の中で、くすぶっていた何かが静かに凪いだ。
わからない、か。
俺も似たようなもんだ、と思った。五年間追いかけて、結局何も掴めなかった。
「遅いから送っていくよ」
少女は軽く首を振った。そして、かすかに微笑んだ。
次の瞬間、いなかった。
走り去ったわけでも、消えたわけでもない。ただ、もういなかった。電柱だけが、街灯の下に黙って立っていた。
瞬はしばらくその場に立ち尽くし、小さく呟いた。
「……やっぱり、飲みすぎたな」
足音を立てて、家に向かった。
翌朝、二日酔いの頭で目を覚ましても、赤い服の少女のことが、なぜか頭から離れなかった。
「お前……大丈夫か?」
休み明けの月曜、昼休みに食堂のトレーを前にして、佐々木がぽつりと呟いた。
「やっぱりそう見えるか」
瞬は苦笑いして、味噌汁を一口すすった。
「飲みすぎて夢でも見たんだよ、きっと」
自分に言い聞かせるように言った。赤い服の少女のことは、まだ頭の隅に引っかかっていた。
「まあ取り憑かれないように気をつけろよ」
佐々木が茶化すように言った、その時だった。
「あら、楽しそうね」
後ろから声が響いた。
振り向くと、山本マリナが笑顔でこちらを見ていた。いつも通りの、穏やかな笑顔だった。
「ああ、山本先輩……」
瞬は何とも言えない顔で呟いた。
先週、俺を振った相手だ。しかも振ったことなど忘れたような顔で、普段通りに話しかけてきた。
「大したことないですよ」
それだけ言うと、瞬は食べ終わった食器を持ち、そそくさと食堂を後にした。
「おい、待てよ」
佐々木も山本先輩に軽く会釈して後を追った。背後で、マリナ先輩のくすくすという笑い声と、軽く手を振る気配がした。
廊下に出ると、佐々木が小声で言った。
「先輩に対してあの態度はやばいんじゃないの」
「さすがに」
瞬は前を向いたまま呟いた。
「振られた相手と普通に話せる気になれない」
佐々木は少し黙ってから、「まあ、辛かったらまた飲みくらいは付き合うよ」と言って、自分の席に座り仕事を始めた。
「……ありがとう」
瞬も小さく呟いて、パソコンの電源を入れた。
気がつくと、終電間際だった。
慌てて荷物を片付け、駅へ向かう。改札を抜け、乗り換えて、最寄り駅で降りた頃には日付が変わっていた。
そして。
家の近くの電柱の前に、あの赤い服の少女が立っていた。




