第9話 胡桃パンの記憶
王都南門の時刻枠を引き直し、一般の荷車が少しずつ動き始めた数日後。魔族領の月白草はなお国境で止まっていたが、王都内の荷を先に流したことで、施療院へ代替薬の材料を回す猶予は作れた。
私は、北峠が完全に雪で封鎖されるまでの残り少ない期間に、現場の補給状況を直接確認するため、北境辺境伯領の入り口に位置する前線の中継拠点へと足を運んでいた。
北境の寒さは、王都のそれとは次元が違った。
灰色の空から舞い落ちる粉雪が、容赦なく頬を刺す。分厚い外套を羽織っていても、骨の芯まで凍りつくような冷気が這い上がってくる。
私は無意識のうちに、昔から寒い時にやってしまう癖――左手を右の袖口に深く差し込み、布の中で両手を握り合わせる仕草――をして、どうにか体温を保とうとしていた。
「おい。あまり外に突っ立っていると凍るぞ」
雪を踏みしめる重い足音とともに、黒い軍服の上に毛皮の外套を羽織ったレオンハルトが近づいてきた。
「レオンハルト様。申し訳ありません、王都の冬とは空気が違うもので、少し」
「謝るな。北の雪は初めての奴には堪える。そら、これでも食って中から温めろ」
彼が無造作に差し出してきたのは、湯気を立てる紙包みだった。
受け取って中を開くと、香ばしい匂いがふわりと鼻をくすぐる。それは、表面が少し硬く焼き上げられ、中に砕いた木の実がたっぷりと練り込まれた素朴なパン――胡桃パンだった。
「あっ……」
それを見た瞬間、私の胸の奥で、カチリと時計の針が五年前へと巻き戻る音がした。
十七歳の冬。私は駅路監督局の若い補佐官として、北境の補給危機を救うために不眠不休で働いていた。
孤立した砦で飢えに苦しむ百人の兵士を救うため、吹雪の中でも進めるように大箱の規格を解体し、小さな箱に分けて中継所を繋ぐ手配に奔走した。
そして、最初の救援物資が砦に届いたという報せを聞いた夜。
何日もまともな食事をとっていなかった私の前に、当時二十五歳だった若き騎士団長が「よくやってくれた。これは俺からの個人的な礼だ」と言って、手渡してくれたのがこの胡桃パンだった。
『甘い菓子なんぞ北境にはねえが、栄養はある。食え』
不器用な労いの言葉とともに渡されたそれを一口かじった時、極度の緊張と疲労が解け、私は十七歳の娘らしく、ようやく安堵の笑みをこぼすことができたのだ。
そして今、雪の中で差し出される、昔と同じ胡桃パン。
(どうして……?)
手の中の温もりに、目頭がじわりと熱くなるのを感じた。
少なくとも、婚約者だった人とその周囲は、私が何を好み、どんな時に笑うのかを尋ねなかった。私自身も、役に立たない話をすることをいつしか諦めていた。
それなのに、彼は。
辺境伯として多忙を極める彼が、なぜ、五年前のたった一度の恩賞で私が食べたパンの種類を、今も正確に覚えているというのだろうか。
「……どうした? 冷めて硬くなっちまったか?」
私の手が止まっているのを見て、レオンハルトが片眉を上げた。
「い、いえ……。ただ、少し……懐かしくて」
「そうか」
彼はそれ以上深く追求することなく、ただ私が食べるのを静かに待ってくれていた。
「なぜ覚えているのですか」と、彼に問うことはできなかった。もし聞いてしまえば、胸の奥で燻っている正体不明の感情の波が、一気に決壊してしまいそうだったからだ。
私は、溢れそうになる涙を必死に飲み込みながら、胡桃パンを小さくちぎって口に運んだ。香ばしい匂いと確かな甘みが、凍えていた身体の隅々にまで染み渡っていく。
短い休息の後、私たちは中継拠点の奥へと視察を進めた。
そこでは、若い兵士たちが次々と運び込まれる物資の仕分け作業に当たっていた。レオンハルトは、軍の司令官として現場の指揮を執る。私は少し離れた場所から、調整官としてその様子を記録していた。
「団長閣下。現在のところ、防寒着と武器の補充要請が同数上がっております。どちらの便を優先して峠に送るべきでしょうか」
兵站担当の将校が、帳簿の数字を示してレオンハルトに判断を仰ぐ。
だが、レオンハルトは帳簿の数字を見る代わりに、傍らで重い木箱を運んでいた若い兵士の前に歩み寄り、ふいにその場にしゃがみ込んだ。
「おい、お前。足を上げて靴底を見せろ」
「は、はいっ!」
若い兵士が慌てて足を上げると、その軍靴の底はすり減り、わずかな雪の冷気さえ直接肌に伝わりそうなほど薄くなっていた。
レオンハルトは立ち上がり、兵站担当者へ鋭い視線を向けた。
「見たか。数字の上では武器の補充が必要かもしれねえが、この雪の中でこの靴底のまま行軍させれば、兵たちは戦う前に凍傷で足を失う。新しい槍より、防寒靴と皮革の補充便を最優先に回せ」
「はっ! 直ちに手配いたします」
その光景に、私は目を奪われていた。
レオンハルトは、報告書の数字の向こう側にいる「人間の顔と生活」をはっきりと見ている。全体を俯瞰する立場にいながら、決して一人ひとりの痛みを切り捨てない。
彼が私に向けてくれたあの胡桃パンの気遣いも、きっとこの深い人間性からきているのだ。
私はいつの間にか、ただの調整官としてではなく、一人の人間として、彼の方を目で追っている自分に気づいた。
「リディア調整官。あちらを見てください」
不意に、同行していたエステルの声に引き戻された。
彼女が指し示したのは、中継所からさらに北へ向かう雪道だった。
そこには、六頭立ての屈強な荷役獣に引かれた巨大な輸送馬車が、道の真ん中で立ち往生していた。分厚く降り積もった新雪に巨大な車輪が深く埋まり、どれだけ獣が嘶いて引こうとも、空回りするばかりで一歩も前に進んでいない。
「どういうことですか。あれでは、後続の物資もすべて止まってしまいます」
私が駆け寄ると、現場の責任者が雪まみれになりながら頭を抱えていた。
「調整官殿! それが、現行の規定通り、最も効率的に運べる『大箱』の規格で満載しているのですが……今年の雪は予想以上に深く、車輪が完全に雪に食われてしまって動かないのです!」
私は、雪の中で完全に止まってしまった巨大な車輪と、その荷台に隙間なく積まれた「現行規格の大箱」を交互に見つめた。
胸の中には、先ほどの胡桃パンの甘く熱い感情が残っている。だが、私の目は冷徹に「詰まり」の正体を捉えていた。
五年前、私が孤立砦を救うために立案したのは、大箱を解体し、小さな箱に分けることだった。軍の規定にも、今なお小箱を中継する手順が残っている。
ならば、目の前の大箱は規定どおりではない。現場が禁じられた形へ戻らざるを得なかった事情があるはずだった。




