第5話 商会長は笑って帳簿を出す
王都施療院の薬師エルマによってもたらされた「月白草を通常どおり処方できるのは、あと三日」という事実は、会議室の空気を一変させた。
その後は代替薬と重症者用の取り置きでしのげるとしても、半月が限界だ。三十日の猶予などない。私は特別調整官として、国境付近で滞留している薬草を運ぶ貨物馬車の緊急手配を、商業連盟へ求めた。
「リディア調整官。お言葉ですが、それは不可能です」
しかし、商業連盟の重鎮は苦虫を噛み潰したような顔で首を横に振った。
「現在、王都の物流は飽和状態にあります。冬支度のための物資輸送が重なり、我々商人から見ても『荷馬車が決定的に足りない』のです。急に薬草を運べと言われても、馬も車も空きがありません」
「足りない、ですか」
私は手元にある全体の輸送統計表に目を落とした。計算上は、王都に登録されている荷馬車の総数で十分な物資が運べるはずだ。
「軽い荷なら、貴族家の早馬と空いている供回りの荷車を借りられる」
声を上げたのは、ヴァルモント公爵家の名代として会議に出席しているオスカーだった。
「今夜中に協力を取り付けよう。公爵家から各家へ頼めば、急ぎの薬包や検体くらいは運べるはずだ」
商業連盟の代表たちは顔を見合わせた。乗用の車に薬草箱は積めないが、彼の人脈で軽量の急送便を確保できるなら無駄ではない。
「重症者用の小分けと、検疫用の見本輸送には使えます。手配をお願いします」
私は全体の輸送統計を開いた。
「ただし、本便を運ぶ貨物馬車まで不足しているかは別に確認します。登録台数だけなら足りているのです。現場で、動けない理由を見ましょう」
*
冷たい風が吹きすさぶ、王都の南門。
視察に訪れた私とオスカー、そして白梟商会のノア会頭とレオンハルト辺境伯がそこで目にしたのは、街道の彼方まで続く、絶望的なほど長い荷馬車の列だった。
車輪には霜が降り、荷馬車はピタリと止まったまま微動だにしない。順番を待つ御者たちは荷台の陰に身を寄せ合い、凍える手を吐息で温めながら、虚ろな目で前を睨んでいた。
「……ひどい有様だな。あれでは列を離れて食事を取ることもできまい」
レオンハルトが眉間を寄せ、門前の惨状を見渡す。
「ええ。少しでも列を離れれば順番を抜かされますからね。彼らは朝から何も食べずに、この寒空の下で待ち続けているのでしょう」
ノアが肩をすくめながら補足した。
オスカーは列を見渡し、「登録数ではなく、使える台数が足りないのではないか」と言った。
その可能性もある。だからこそ、私は門の管理所へ向かった。帳簿上の台数と、実際に動けている台数を分けて確かめる必要があった。
「おい、そこのあんた」
管理所へ向かう途中、レオンハルトがふいに足を止め、列の先頭近くでうずくまっていた若い御者に声をかけた。
「ひっ……騎士様、俺はちゃんと順番を守って……!」
「怒ってるわけじゃねえ。……名前はなんだ?」
「え? あ、ガンツ、ですが……」
「ガンツ。お前、手袋がすり切れて指が凍傷になりかけてるぞ。そのまま手綱を握り続ければ指が腐る。ほら、俺の予備を貸してやる。さっさと着け替えろ」
レオンハルトは腰の袋から分厚い革手袋を取り出し、ぽん、とガンツと呼ばれた青年の膝に投げ落とした。
私はその光景を見て、足を止めていた。
貴族や騎士にとって、彼らはただの「御者」という記号だ。全体の物流を構成する一つの歯車に過ぎない。オスカーならば絶対に声をかけないし、名前など聞こうともしないだろう。
だが、レオンハルトは違った。彼は部下や領民を数字としてではなく、顔と名前を持つ一人の人間として見ている。
(……不思議な人)
胸の奥で、小さく温かいものが跳ねた気がした。私はその感情に名前をつけるのを後回しにして、管理所へと急いだ。
*
管理所の一室を借りた私は、山のように積まれた過去数日分の関所通過記録と、商人たちの提出した運行予定表を広げ、猛烈な勢いで数字を追い始めた。
馬車の台数、積載量、通過時刻、関税の支払い記録。
視界の端のものがすべて消え、頭の中が数字の羅列と論理の構築だけで満たされていく。この過集中に入ると、私はいつも自分の身体の限界を忘れてしまう。かつてオスカーには「取り憑かれたようで気味が悪い」と言われた癖だ。
ふと、私の視界を遮るように、インク瓶の横に木製のボウルが置かれた。
湯気を立てる具沢山の温かいスープと、厚く切られた黒パンだった。
「……え?」
顔を上げると、レオンハルトが私の隣に立っていた。
「レオンハルト様……これは?」
「見ればわかるだろう、昼飯だ。お前、さっきから帳簿を睨んだまま一度も瞬きしてねえぞ」
「ですが、私は今、急いで詰まりの原因を……」
「仕事の邪魔はしねえ。だが、食え。頭を回すにも薪がいるだろうが」
彼はそれだけ言うと、本当に私に会話を強要することなく、壁際に寄りかかって静かに腕を組んだ。
私が食べたかどうかだけを確認し、私の領域を侵さない。
その距離感が、ひどく心地よかった。私は小さく「いただきます」と呟き、温かいスープを口に運んだ。冷え切っていた胃の腑に熱が広がり、強張っていた肩の力がふっと抜けるのを感じた。
「ふふっ。辺境伯殿には先を越されてしまいましたね」
開け放たれた扉から、ノアが笑いながら入ってきた。彼の手には、分厚い革張りの帳簿が抱えられている。
「リディア嬢。あなたが何を探しているのか、おおよそ見当がついていますよ。はい、これ。うちの商会がまとめている、王都周辺の全馬車の『到着予定時刻表』です。お待ちしておりましたよ」
「ノア会頭……ありがとうございます。さすがですね」
私はスープを飲み干し、彼が差し出した帳簿をバサリと開いた。
関所の通過記録と、ノアの商会が把握している各商会の予定表。その二つを照らし合わせた瞬間、点と点が繋がり、明確な一本の線となった。
「見つけました」
私は弾かれたように立ち上がった。
私とノア、レオンハルト、そして退屈そうに待っていたオスカーを伴って、再び門前の凍てつく風の中へ出た。
「リディア。帳簿遊びは終わったのか? 結局、馬車が足りないのだから、早く増便の――」
「オスカー様。問題は馬車の台数ではありません」
私は彼らの前に立ち、街道を埋め尽くして微動だにしない、長蛇の荷馬車の列を指し示した。門前で車輪を凍らせている、惨憺たる景色を。
「馬車は、足りているのです。むしろ、十分にありすぎるほどです」
「なに? ではなぜこれほど渋滞している!」
「御者たちの荷台に掲げられている『到着札』を見てください」
私の言葉に従い、オスカーたちが一番近くに停まっている数台の馬車の札を覗き込む。
そこには、王都の関税局が指定した『関所通過の指定時刻』が刻印されていた。
「これを見れば、詰まりの原因は一目瞭然です」
私は、並んでいる数十台の荷馬車を見渡して言った。
「全車の到着札が、ほぼ同じ一刻へ集中しているのですから」




