第4話 三十日だけ働きます
北境の生命線である北峠が、本格的な大雪で閉ざされ、通行不能になるまで残り三十日。
この期間内に、人間側の穀物、北境の塩、隣国アルセリアの鉄、そして魔族領の薬草を束ねる新たな四境交易協定を成立させなければ、今年の冬は多くの民が飢えと病に苦しむことになる。
迫り来るタイムリミットに王宮全体が焦燥感を募らせる中、私は重厚な扉の向こう――王国宰相ディートリヒ・ハイム閣下の執務室に呼び出されていた。
「単刀直入に言おう、セヴェラン伯爵令嬢」
ディートリヒ宰相は、白髪を撫でつけ、銀縁眼鏡の奥の鋭い眼光を私に向けた。
「昨夜の大夜会での騒ぎは耳に入っている。四人の傑物たちがこぞって君に求婚し、同時に今回の交易危機の調整役として君を推薦してきたこともな」
「……はい」
「だが、勘違いしないでほしい。私は彼らの熱狂的な推薦状をそのまま鵜呑みにして、君をここに呼んだわけではない。彼らの推薦は、あくまで調査のきっかけとなる参考情報に過ぎない」
宰相はそう言うと、机の上に山積みになっていた分厚い公文書の束を叩いた。
「駅路監督局が保管する五年前の王都城門渋滞の運行記録。商業連盟から提出された荷札の統計。北境軍から密かに届けられていた、孤立砦救援に関する部隊長からの謝意。隣国アルセリアとの三年前に交わされた度量衡に関する外交公文書。さらには、ノクス魔族連邦の石板に刻まれていた封印記録の写し」
彼は一つひとつの書類の表紙を指し示していく。
「これらの公的な実績記録をすべて照合した。君の所属する調査班や監督局の成果となっているものも多いが、現場の決裁印と原票の筆跡は、間違いなくすべて君のものだ。君は男たちに選ばれたからここにいるのではない。君自身が残した記録が、君の能力を証明したのだ」
宰相の言葉に、私は少しだけ目を見張った。
彼のような国家の中枢にいる人物が、私の裏方としての数字の羅列を、ここまで丁寧に拾い上げてくれたことなどなかったからだ。
「リディア・セヴェラン。王命により、君を期間限定の『四境交易特別調整官』に任命する。この滞った物流と協定の詰まりを、君の手で直してほしい」
私は小さく息を吸い込み、頭の中で思考を整理した。
婚約破棄されたばかりの令嬢が受けるには、あまりにも大きすぎる役目だ。だが、役に立つことでしか自分の価値を見出せない私にとって、目の前の詰まりを放置することはできなかった。
「……謹んでお受けいたします。ですが、お引き受けするにあたり、三つだけ条件がございます」
「言ってみなさい」
「一つ。私に対する四名からの求婚への返答と、この職務の評価は完全に切り離していただきます。私は仕事の報酬として彼らの誰かを選ぶつもりはありません。
二つ。私の任期は、北峠が閉鎖するまでの『三十日間』に限定していただきます。
三つ。私が会議で行う判断過程と指示は、すべて公的な議事録として残していただきます。後日、不透明な権力行使だと糾弾されないために」
宰相は眼鏡の位置を直し、わずかに口角を上げた。
「私情を交えず、期限を切り、責任の所在を明確にする、か。実に理にかなった要求だ。よかろう、その条件で契約を結ぼう」
その場で、エステルも宰相府の臨時記録補佐として登録された。守秘誓約と入室許可を受け、私の議事録と原票を扱える正式な立場になった。
*
任命を受けたその足で、私は王城内の会議室へと向かった。
今日から本格的に始まる四境交易会議の実務者会合。円卓には、商業連盟の代表たち、軍の兵站担当将校、内務局の役人たちが顔を突き合わせ、すでに険悪な空気を漂わせていた。
「だから、西の穀倉地帯からの輸送量が帳簿と合わないと言っているだろう!」
「こちらの関所の記録では規定量を通している! 途中の駅路での横流しを疑うべきだ!」
私が特別調整官として席に着くや否や、各部署からの責任の押し付け合いが耳に飛び込んでくる。彼らの手元には、それぞれが独自にまとめ上げた二次資料の帳簿が開かれていた。
私は傍らに立つエステルに目配せをした。
「エステル。彼らが持っているまとめの帳簿は一旦下げて。代わりに、西の関所と第三中継所から昨日上がってきたばかりの『原票』を持ってきてちょうだい。それと、各馬車の出発時刻の記録も」
「かしこまりました、お嬢様」
まとめられた数字には、必ず作成者の意図や見落としが混ざる。どこで数字が食い違ったのかを探るには、現場で書かれた生のデータに当たるしかなかった。
「ほう。やはりお前はそう動くか」
ふいに、会議室の片隅から低く心地よい声が響いた。
見れば、特別オブザーバーとして同席していた魔王ザフィルが、腕を組みながら私を見ていた。
「どういう意味でしょうか、ザフィル様」
「なに、二年前の薬草の件を思い出してな。貴様はあの時も、人間側が綺麗にまとめた報告書には目もくれず、真っ先に現場の泥にまみれた出荷記録と我らの石板封印の原票を照合し始めた。人間社会の体面より、現場の事実を信じる。その手腕は健在だということだ」
ザフィルは異質の観察者のように目を細め、短く私を評価して口を閉ざした。
彼の言う通りだ。私は美しい言葉より、数字の不一致が教える事実を信じる。
「原票の確認が終わるまで、穀物の議論は一時凍結します。次は――」
私が議題を進めようとしたその時、会議室の重い扉が乱暴に開かれた。
「お待ちください! 現場は会議の結論など待っていられません!」
衛兵の制止を振り切って入室してきたのは、白衣を着た一人の女性だった。
王都施療院で薬師長を務める、エルマ・フェルトだ。政治家ではない彼女が、この高位の会議に乗り込んでくること自体が異常事態だった。
エルマの顔は疲労で青ざめ、その目には切実な焦燥が浮かんでいる。
「エルマ殿。ここは実務者の会議の場だ、後にして――」
内務局の役人が咎めようとしたが、エルマはそれを無視して円卓に歩み寄り、抱えていた麻の籠をドン、と卓の中心に置いた。
それは、薬草を保管するための籠だった。
だが、中身はほとんど空に近い。籠の底の網目が、無惨なほどはっきりと見えている。
「三十日、とおっしゃいましたね」
エルマは、震える声で私を見た。
「冬を越すための調整期限が三十日。ですが、そんな猶予は現場にはありません」
彼女は底の見える薬草籠を指差し、会議室の全員に突きつけるように言った。
「魔族領から入る特効薬草『月白草』を、通常どおり処方できるのは、あと三日です。その後は代替薬へ切り替え、残りを重症者に回します」
エルマの指が、空の籠の縁へ食い込んだ。
「代替薬が効きにくい七歳のトマも待っています。次の便が半月のうちに来なければ、あの子の熱を下げる薬がなくなります」




