第3話 契約を読まなかった人
建国祭の大夜会から一夜明けた、王城の法務室。
重厚なオーク材の長机を挟んで、私とオスカーは対峙していた。両家の法務代理人を立ち会わせた、婚約解消のための正式な協議の場である。
父は夜明け前に公爵家へ抗議書を送り、私が望むなら交渉をすべて引き取ると言ってくれた。私は礼を告げた上で、自分の契約を自分の言葉で終わらせたいと頼んだ。
オスカーの顔色はひどく悪かった。昨夜、マリアンヌ様に拒絶され、社交界中の冷笑を一身に浴びたのだから無理もない。だが、彼は公爵家の嫡男としてのプライドを守るためか、あるいは長年の習慣からか、持ち前の社交的な笑みをどうにか顔に貼り付けていた。
「リディア。昨夜のことは、少々感情的になりすぎたようだ。大勢の前で君の体面を傷つけたことには謝罪しよう」
オスカーは滑らかな口調で切り出した。
「だが、あれはあくまで酒の席での言葉の綾だ。婚約の再検討については父上からも言われていたことだし、実質的には終わっていた話だろう? こうして法務局の人間まで呼んで大げさな問題にする必要はない。違約金や慰謝料などの細部は、後日家同士でよしなに調整すればいいことだ。君にとっても、穏便に済ませた方が今後の瑕疵にならないはずだ」
彼の言葉には、社交界で物事を円滑に進めるための「暗黙の了解」を押し付けようとする意図が透けて見えた。
本気でそう思っているのだ。彼は、書類上の決まり事よりも、自分の一言や社交的な調整の方が上位にあると信じて疑っていない。
私は静かに息を吐き、手元の鞄から一綴りの羊皮紙を取り出した。
「穏便に、ですか。オスカー様、あなたは何か勘違いをなさっているようです。これは『これからどう調整するか』という話し合いではありません」
私は分厚い書類を机の中央へと滑らせた。
十二歳で婚約が内定し、十五歳で正式な婚約書を交わしてから七年。その契約は、家同士の事情に合わせて改定されてきた。
「これは、三年前に両家で内容を更新し、締結し直した婚約契約書です。オスカー様、第五項および第八項をご確認ください」
オスカーはいぶかしげに眉を寄せ、法務代理人が指し示す箇所へ目を落とした。
「第五項……『両家による正式な協議と合意なき状態での、公的な場における一方的な破棄の宣言を禁ずる。これに違反した場合、宣言者は有責となり、規定の違約金および両家を通じた公式な謝罪を義務付ける』……?」
「続きもどうぞ」
「第八項。『婚約期間中、第三者に対して両家の合意状況について事実と異なる虚偽の説明を行い、著しく名誉を損なった場合、ただちに本契約は破綻したものとみなし、有責者に対して損害賠償を請求する』……なんだこれは。こんな細部までいちいち……」
「ええ、細部です。ですが、あなたが実質的に終わっていたと勘違いしていただけで、私たちはまだ何の正式な合意も結んでいませんでした。その状態で、あなたは建国祭という公の場で一方的に破棄を宣言し、さらにマリアンヌ様に対して『すでに合意済みである』という虚偽の説明を行いました」
私は淡々と事実だけを並べた。
「これらはすべて、この契約における明確な違反行為です」
「馬鹿なことを言うな! こんなものはただの定型文だろう。実態の伴わない書類の文面だけで、私を有責にできると思っているのか!」
オスカーが声を荒らげ、机を叩く。
私は感情を全く交えずに、契約書の末尾、一番下の署名欄を指し示した。
「私があなたを有責としているのではありません。あなたが『ただの定型文だ』『細部だ』と読み飛ばしたこの条項を、法的拘束力のある絶対のルールだと定めているのは、他でもないあなたご自身です」
そこに記されているのは、流麗なインクの跡。
オスカー・ヴァルモント本人による、まぎれもない自筆の署名だった。
オスカーは自分の筆跡を見た瞬間、雷に打たれたように固まった。
彼は書類仕事など「裏方のやることだ」と見下していた。だから、自分が何に署名しているのか、その条項がいざという時にどのような牙を剥くのか、一度も真剣に読もうとしなかったのだ。
「私からの要求は、過大な慰謝料でも、公爵家の名誉を不当に貶めることでもありません」
私は法務代理人に向けて頷き、結論を口にした。
「契約の規定通り、ヴァルモント公爵家からの公式な謝罪文の提出、これまでに交わした贈答品の全品返還、そして第五項に基づく違約金のお支払い。以上です」
オスカーは青ざめた顔で自分の署名を見つめたまま、二の句を継げなかった。
読まなかった契約書の末尾で、彼自身の名だけが黒々と残っていた。
*
「お疲れ様でございました、リディア様」
王城を出て、セヴェラン伯爵邸へと向かう帰りの馬車。向かいの席に座るエステルが、労うように声をかけてくれた。
「ええ。これで、有責と履行すべき条件は確定したわ。謝罪文と返還、支払いの完了までは法務に追ってもらいます」
「立派な立ち回りでした。お嬢様は、少しも泣き寝入りなどなさいませんでしたね」
「当然よ。感情論で争っても泥沼になるだけだもの。事実と記録だけが、私を守ってくれる」
私は自分に言い聞かせるように「大丈夫よ」と口にし、膝の上に置いた自分の両手を見た。
ふと、視線が左手の薬指で止まる。
今朝、家を出る前に外した婚約指輪。七年間、ずっとそこにあった重みが消え、日焼けを免れた白い跡だけがくっきりと残っていた。
彼が私の仕事に少しも関心を向けてくれなかったことは知っている。それでも、七年という時間は、確実に私の指に痕跡を刻み込んでいたのだ。
「……お嬢様?」
エステルがいぶかしげに私を覗き込んだ。
「次は、どちらへ向かいますか? このままお屋敷に戻られますか、それとも駅路監督局の執務室へ……」
「…………」
一瞬、思考が真っ白になった。
自分がどこへ帰るべきなのか。これから何をすればいいのか。今日という日をどうやって終わらせればいいのか、わからなくなった。
「リディア様」
エステルはそれ以上何も聞かず、ただ痛ましげに私の白い指輪の跡を見つめていた。私は小さく息を吸い込み、どうにか「……お屋敷へお願い」とだけ答えた。
*
セヴェラン伯爵邸に帰り着いた私は、馬車の中での感傷を振り払うように、自室の机に向かおうとした。
婚約は終わった。ならば、いつものように自分の持ち場である実務に戻らなければならない。役に立つ私でいなければ。
だが、邸宅の玄関ホールを通り抜けようとしたところで、慌ただしい足音とともにエステルが駆け寄ってきた。
「お嬢様! 王宮から急使が参りました」
「急使? 法務の手続きなら今終わらせてきたばかりだけれど……もしかして、昨夜の四人の方々から、また何か無茶な申し入れでもあったの?」
「いえ、違います。これは……」
エステルが差し出した封筒には、王家の紋章とともに、宰相府の厳格な封蠟が押されていた。
受け取って中を改めると、そこには昨夜の四人からの求婚や推薦状とは無関係な、行政の最高機関からの公文書が入っていた。
『リディア・セヴェラン伯爵令嬢。貴女の過去五系統にわたる公務実績記録を当方にて照合した。至急、宰相府へ出頭されたし』
それは、私の裏方としての記録すべてを調べ上げた上での、宰相府からの直接の召喚状だった。




