第2話 私は賞品ではありません
魔王ザフィルによる求婚の言葉が響き渡った直後、王城の大広間は一瞬、時が止まったかのような恐ろしいほどの静寂に包まれた。
誰も息をするのも忘れたかのように固まっている。だが次の瞬間、堰を切ったように爆発的などよめきが巻き起こった。
「ま、魔王が伯爵令嬢に……!?」
「それにあの顔ぶれを見ろ。白梟商会のノア会頭に、北の防人レオンハルト辺境伯、さらにはアルセリアの第三王子殿下まで……っ!」
「オスカー様が『無価値』と捨てた令嬢を、あの方々がこぞって欲しがっているというのか!?」
渦巻く喧騒の中心で、私は扇子の柄を握りしめたまま立ち尽くしていた。
彼らが、オスカーの身勝手な非難から私を守るように声を上げてくれたことは理解している。私が裏方として積み上げてきた書類の束、地味だと切り捨てられた数字の調整を、彼らは間違いなく「価値がある」と公証してくれた。
だが、安堵よりも先に、私の胸を冷たい恐怖が這い上がっていた。
私は今、別の男たちの手によって競り落とされようとしているのではないか。
オスカーという枠から外された途端、有能な実務者として、あるいは国家間の交渉のカードとして、新しい値札を貼られて見世物にされている。その構図は、婚約破棄を突きつけられた瞬間と同じくらい、私の足元をぐらつかせた。
ふと視線を泳がせると、広間の壁際で控えていた侍女のエステルと目が合った。彼女だけは、会場の熱狂に当てられることなく、私の白く震える指先をじっと見つめ、痛ましげに眉をひそめている。彼女だけが、私が少しも無傷ではないことに気づいていた。
「――皆の者、そこまでだ。静まれ!」
熱狂に包まれた会場を制したのは、一段高い貴賓席から立ち上がった国王陛下だった。
その傍らには、厳しい顔つきをした宰相ディートリヒ・ハイムの姿もある。
「建国祭の夜会において、誠に情熱的な申し出の数々である。だが、我が国の重鎮のみならず、隣国アルセリアの王子、さらにはノクスの統治者までもが絡むとなれば、これは単なる色恋の沙汰では済まされぬ。外交問題にも発展しかねない重大事である」
国王の威厳ある声に、会場の貴族たちは慌てて口を閉ざし、深く頭を下げた。
「ゆえに、余はこの場でのいかなる婚約の成立も認めぬ。セヴェラン伯爵令嬢リディアよ。そなたには、今の求婚のいずれに対しても即答する義務はない。国家間の配慮などに縛られず、己の意思で考えるがよい」
国王の公的な宣言によって、張り詰めていた空気が少しだけ緩和された。即答を免除されたことで、私を押し潰そうとしていた重圧が一つ消える。
「……すまなかった」
真っ先に口を開いたのは、黒い軍服姿のレオンハルトだった。
彼は一歩進み出ると、私に向かって真摯に頭を下げた。
「俺は、彼奴がお前の歩んできた七年間をあまりにも理不尽に踏みにじったことに腹を立て、つい口を挟んでしまった。だが、大勢の前でお前を追い詰めるような真似をしたのは俺も同じだ。公衆の面前での求婚が、どれほどお前に負担をかけるか……配慮が足りなかった。すぐに返答などしなくていい」
「私も同罪ですね」
ノアが苦笑交じりに肩をすくめる。
「リディア嬢の頭脳を誰かに奪われるかと思ったら、つい商人の強欲さが出てしまいました。ですが、あなたの意思を無視して商談を進めるつもりはありません。ゆっくり考えてください」
「ええ。僕も本国からの使命感より、私情が勝ってしまいました。あなたを無理に縛り付けるつもりはありません」
ジュリアン殿下も優雅に微笑み、一歩引く姿勢を見せる。
そして、魔王ザフィルは深い夜のような瞳で私を見据えた。
「我ら魔族の法においても、本人の明確な同意なき婚姻は無効だ。人間どものように、家や体面で娘を縛り付ける悪習は我らにはない。お前が望まぬ限り、無理に連れ去るような真似はせぬ」
四人の実力者たちが、こぞって私の意思を最優先すると明言してくれた。
私は深く息を吸い込んだ。震える指先に力を込め、姿勢を正す。
「皆様。私の過去の仕事を覚えていてくださり、また、あのような過分なお言葉をかけていただいたことには、心より感謝申し上げます」
私の声は、思いのほか澄んで広間に響いた。
「ですが……私は、誰かの業績に対する賞品ではありません。誰の利益に叶うか、誰の役に立つかを競うための見世物でもありません」
はっきりと、私は彼らの目を見て告げた。
「結婚は、仕事の契約ではありません。私の人生を、誰かの都合やこの場の熱狂で決めたくはありません。ですから……大変申し訳ありませんが、皆様の求婚には、今はどなたにもお返事することはできません」
生意気だと思われるかもしれない。だが、七年間「公爵夫人にふさわしい役に立つ存在」になろうと自己を殺してきた結果が、今日の婚約破棄なのだ。もう、誰かの評価軸に自分の人生を委ねるのはごめんだった。
四人は表情を引き締めた。私の拒絶を、試すような言葉も、翻意を促す言葉も返さない。
「分かった。今夜は、これ以上言わない」
レオンハルトが最初に下がり、他の三人も距離を戻した。
結果として、広間の中央に取り残されたのは――私に婚約破棄を突きつけたオスカーと、その傍らに立つマリアンヌ様だけになった。
「な、なんだというのだ、お前たちは……っ」
オスカーの顔には、もはや先ほどの余裕は欠片も残っていなかった。
地味な婚約者を切り捨て、華やかな新しい恋人と並んで祝福を受ける。彼はそのつもりだったのだろう。
けれど、祝福の拍手は一つも起きなかった。広間の中央で、オスカーだけが次の言葉を探していた。
「ま、マリアンヌ!」
焦燥に駆られたオスカーは、自らの正当性を証明する最後の綱にすがるように、隣に立つ彼女の手を取ろうとした。
「見ての通り、あの女はああして他の男たちに媚びを売るような浅ましい令嬢だったのだ! だが私には君がいる。我々が真実の愛で結ばれれば、誰もが――」
「触れないでくださいませっ!」
鋭い声が響いた。
マリアンヌ様は、オスカーが伸ばした手を弾き飛ばすように身をよじった。
彼女の顔は血の気を失い、真っ青になっている。その大きな瞳には、オスカーに対する明らかな不信と軽蔑が浮かんでいた。
「マ、マリアンヌ……?」
「オスカー様。あなたは私に、セヴェラン伯爵家との婚約解消は、すでに両家間で正式に合意が済んでいるとご説明なさいましたね?」
震える声で、しかしはっきりと彼女は言った。
「建国祭の夜会で、両家から円満な解消の報告がなされるはずだから、その後で私との新たな関係を発表しようと……私は、あなたのその言葉を信じておりました。ですが、今のこの状況は一体何ですの!?」
「そ、それは……後で家同士が整えるはずの細部であって、実質的には――」
「虚偽の説明で私を騙し、あまつさえこのような公の場で、同意も得ていない婚約破棄を一方的に突きつけるような殿方だとは思わなかったわ!」
マリアンヌ様はオスカーから決定的な一歩を引き、ドレスの裾を翻した。
「両家の合意を確認できるまで、私とのお話も白紙に戻してくださいませ」
マリアンヌ様はオスカーからさらに一歩離れ、自家の夫人たちが立つ側へ移った。今夜ここで関係の結論を出すのではなく、まず彼の説明が事実だったかを確かめる。その意思が、青ざめた横顔に現れていた。
「マリアンヌ、待て。実質的には決まっていたんだ」
オスカーが追おうとしても、彼女は戻らない。
新しい恋人を披露するはずだった華やかな構図は、説明の真偽を問われる場へ変わっていた。
広間に集った貴族たちの視線が、変わる。
先ほどまで私に向けられていた嘲笑と冷ややかな目は、今や一斉に反転し、真ん中で滑稽に手を伸ばしたまま固まっているオスカーへと、無数の氷の刃となって突き刺さっていた。




