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婚約破棄された実務令嬢ですが、私の価値を知らなかったのは元婚約者だけでした~四人に求婚されても、私は賞品ではありません~  作者: 他力本願寺


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第33話 役に立たなくても

宰相府から戻った私に、エステルは温かい紅茶を差し出した。


「仕事の条件をご自分で決めたのなら、恋のお返事も、ご自分のお心で」


 私が何かを返す前に、彼女は「少し外の空気を吸ってまいります」と一礼し、気の利いた口実で静かに退室していった。


 一人残された執務室で、私はティーカップの温もりを両手で包んだ。机には、急いで片づける書類が一枚もない。


 コン、コン。


 不意に、控えめなノックの音が部屋の静寂を破った。


「……入るぞ、リディア」


 声と共に扉を開けたのは、黒い軍服を着崩したレオンハルトだった。


 彼は部屋に入るなり、ふっと少し驚いたような表情を見せた。彼の視線は、私の目の前にある執務机に向けられていた。


 この三十日間、私の机の上には常に山のような書類が積まれていた。関税の報告書、各中継所からの伝令書、未決裁の帳簿、インク瓶。


 しかし今、四分割案が現場で回り始め、私が緊急に決裁すべきものは何一つ残っていない。机の上には仕事の書類が一枚もなく、ただ木目の美しい天板が広がっているだけだった。


「ついに、綺麗に片付いたみたいだな」


 レオンハルトは柔らかく笑い、私が座る机の正面へと歩み寄った。


「ええ。内務局も商業連盟も、私の手を離れて見事に実務を回してくれています。もう、私が夜を徹して数字を合わせる必要はありません」


「そうか。……オスカーの件も、宰相府で決着がついたと聞いた」


「はい。報告書が彼のもとへ届いていたことが、受領欄と送付票で確認されました」


 私が淡々と事実だけを告げると、彼は満足げに頷いた。


「三十日の交易危機は終わり、元婚約者との因縁も片付いた。これでようやく、お前を縛るものは何もなくなったわけだ」


 レオンハルトは、私の目を真っ直ぐに見据えた。


「以前、俺は言ったな。危機がすべて終わった後、俺が『お前を欲しい』と言う前に、お前自身がどうしたいかを先に聞かせてくれ、と」


 彼の深い色の瞳に、私が映っている。


 私はティーカップを置き、居住まいを正した。


「……私は、七年間ずっと『選ばれる側』でした」


 静かな部屋に、私の声が落ちる。


「公爵夫人に選ばれ続けるため、仕事で空白を埋めました。だから、何もしない時間が怖かったんです」


 私は、袖の中で無意識に強く握りしめていた両手を、ゆっくりと膝の上に広げた。


「でも、レオンハルト様と胡桃パンを食べた午後、私は初めて、沈黙を埋めなくても席がなくならないと知りました」


 私は彼を見上げた。胸にあるものへ、ここで名前をつけることはしなかった。


 私の言葉を、レオンハルトはじっと聞いていた。


 やがて彼は、ゆっくりと息を吸い込み、私の目の前で膝をつき、私の広げた両手の上に、彼の大きくて温かい手を重ねた。


「……五年前、北境の雪の中で初めてお前を見た時。俺はお前のその頭脳に救われ、恩人としての敬意を抱いた」


 彼の低い声が、私の心の一番深いところへ響いてくる。


「だが、建国祭でお前と再会し、お前が誰かの顔を見て仕事をする姿や、無理をして倒れそうになる不器用な姿を見て……俺が惹かれたのは、お前の能力じゃないと気づいた」


 彼は、重ねた私の手をぎゅっと握りしめた。


「俺は、お前の仕事を尊敬している。だが、それを俺に差し出すことを、隣にいる条件にはしない。問題を一つも解かない休日も、失敗して落ち込む日も、お前と暮らしたい」


 仕事の書類が一枚もない部屋で、彼は続けた。


「胡桃パンを食べて笑う顔も、寒い時に袖へ手を入れる癖も、これから先に俺の知らないお前も、隣で知っていきたい。……俺と生きてくれないか、リディア」


 涙が出そうだった。今すぐ「はい」と頷き、彼の胸に飛び込みたい。


 けれど。


「……レオンハルト様」


 私は、彼の手に包まれた自分の手を、わずかに握り返した。


「私に、一夜だけ……考える時間をください」


 レオンハルトは少しだけ驚いたように目を見開いた。


「今、この場の温かい空気に流されて、縋るように頷くことはしたくありません。私はもう、誰かに人生を決めてもらう『選ばれる側』の令嬢ではありませんから」


「私自身の、ただ一人の人間としての確かな意思として。明日、必ずお返事をします」


 私の言葉の真意を理解したのだろう。


 レオンハルトは、急かすことも、落胆することもなく、ひどく愛おしいものを見るような目で微笑んだ。


「ああ。わかった。……お前らしいな」


 彼は私の手を見下ろし、触れていいかを問うように一瞬だけ目を上げた。私が小さく頷くと、指先に短く口付けて立ち上がった。


「待ってる。明日、また来る」


 彼が部屋を後にし、扉が静かに閉められる。


 誰もいなくなった、仕事の書類が一枚もない真っ白な机の前で。


 私は、彼が残した手の温もりを反芻しながら、自分の意思で未来の扉を開くための、静かで大切な最後の夜を迎えていた。

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