第32話 私の仕事を、私が決める
適格審査でオスカーの申立てが退けられてから、数日が経った。
北峠が本格的な大雪で封鎖されるまでの三十日という期限は満了を迎え、私が立案した『機能別四協定』は関係各部署と隣国、そして魔族領からの最終承認を得て、無事に仮成立を果たした。
国境の検疫列は動き、王都の関税倉庫も処理能力を取り戻した。施療院の月白草棚には、平常量が戻り始めている。
少なくとも、この冬の飢えと薬不足が目前に迫る危険は退いた。試行中の検疫と新しい協定には、これからも監査が必要だった。
「見事な手腕だった。リディア・セヴェラン特別調整官」
ディートリヒ宰相は、執務机越しに私を見据え、深く重々しい声で告げた。
「三十日で、レグナ、アルセリア、ノクス、そして北境の利害を調整した。国王陛下も、君の働きに感謝しておられる」
「もったいないお言葉です。私はただ、数字が合うように本来の道筋を整えたに過ぎません」
私が頭を下げると、宰相は国璽をまだ押していない任命条件の草案を、私の前に広げた。
「陛下から、正式提示の前に君の意思を確認するよう預かっている」
表題には、『王国四境交易調整顧問・任命条件案』とあった。
「三十日限定の特別調整官ではなく、我が国の物流と交易を恒久的に監視し、調整するための新設の常設高位職だ。君の能力を最大限に評価し、それに相応しい破格の報酬と権限を用意した。ぜひ、このまま王宮に残り、国家のためにその力を振るい続けてもらいたい」
実務貴族の娘には破格の役職だった。以前の私なら、条件を読む前に署名していただろう。
だが、私はペンを取らなかった。
倒れかけた夜の暗い寝室と、川辺で過ごした白い午後を思い出した。
「……宰相閣下。大変名誉なお話であり、身に余る光栄です」
私はゆっくりと鞄を開け、自分専用の万年筆を取り出した。
「ですが、このままの条件では、お受けすることはできません」
私は任命条件案の隣に新しい紙を置き、受諾のための修正条件を書き始めた。
「お引き受けするなら、次の条件が必要です」
私は五つの条項を読み上げた。
「第一に、任期は自動更新ではなく『二年』とします。期限が来た時点で、双方の合意があった場合のみ再契約を結ぶこと。
第二に、私と同等の署名権限と決裁権を持つ補佐官を、直ちに『二名』配属すること。私が不在であっても、日常の案件が滞りなく回る組織構造を作ります。
第三に、夜間や休日における私への緊急招集は、『人命に関わる事態』または『国王陛下の直筆の非常命令』が発出された場合にのみ限定します。
第四に、実務を伴わない儀礼的な名誉職や、本筋と関係のない追加の委員会への出席要請については、私個人の判断で拒否する権限を認めます」
私はそこで一度言葉を切り、まっすぐに宰相の目を見返した。
「第五に。今後、婚姻によって別家の家政や社交を担う立場になったとしても、その役割と公務顧問契約は分けること。婚姻を理由に、専門職の仕事を無償で追加しないでください」
五つの条項は、私の生活と仕事を分けるための境界だった。
宰相は読み終えると、書記官へ新しい任命条件案を起こすよう命じた。任期、補佐官の決裁範囲、招集条件、拒否権、婚姻後の役割分離が、王命本文の付則として書き直されていく。
「断る権利まで契約にするか」
「曖昧な善意に任せるより、互いのためになります」
宰相は出来上がった文案に承認印を押した。
「陛下へ、この条件で上奏する。君が署名するのは、国璽が押された正式文書が戻ってからだ」
数日後、同じ条項を備えた任命書が届いた。私は一行ずつ読み、最後に自分の名を書いた。
誰かに必要とされ続けるためではない。私が続けたい条件を選んだ仕事だった。
*
緊張の糸が解け、自室の執務室に戻った私を、エステルが温かい紅茶で出迎えてくれた。
「お疲れ様でございました、お嬢様。……素晴らしい交渉でしたね。これで、お嬢様がもう倒れるまで働かされることはありません」
「ええ。補佐官の二名には、優秀な人材を引っ張ってこないとね。私の休日のためにも」
私が冗談めかして笑うと、エステルは空になったティーカップを盆に載せ、部屋を退出する前に、ふと足を止めた。
「お嬢様」
「ん? 何かしら」
「仕事の条件を、ご自身で誰に遠慮することなく決められたのなら」
エステルは、いつもは感情を見せない涼やかな顔に、微かな笑みを浮かべた。
「あとは……ご自身の『恋愛の条件』も、誰の顔色をうかがうことなく、ご自身のお心だけで決めるべきではないですか」
エステルの一言は、私の胸の奥に隠していた最後の扉を、静かにノックした。
彼女が一礼して部屋を出て行った後、私は一人、静まり返った部屋の中で自分の左手をそっと右の袖口に入れた。
彼が教えてくれた、私の知らない、私の癖。
危機は終わった。
私の中に、もう迷いはなかった。




