第29話 王子と魔王の選択
その日の午後、アルセリア使節団の帰国前に、ジュリアン殿下が私の執務室を訪れた。
「リディア嬢。少しよろしいでしょうか」
彼はいつも通りの柔らかな、けれどどこか寂しげな微笑を浮かべていた。その手には、先日の祝宴で私に見せた分厚い封筒が握られている。
「……はい、ジュリアン殿下。どのようなご用件でしょうか」
私が席を立つと、彼はゆっくりと首を横に振った。
「単刀直入に申し上げます。私は、あなたのその類まれなる知性と誠実さを、我が国の妃として迎えたいと本気で願っていました。建国祭での求婚は、決してその場の勢いだけではありません」
ジュリアン殿下は、手にしていた分厚い封書から数枚の書類を取り出し、私の机の上に置いた。
先日、彼が見せてくれた『王子妃公務予定表』だった。
「祝宴でこれをお見せした時、私は誠実なつもりでした。王族の生活を隠さず、王冠に近い席を差し出したつもりでいた」
ジュリアン殿下は、閉じた予定表を持ち上げた。分厚い封筒の王家の紋章が、重石のように見えた。
「ですが、私は席と一緒に、その重さをあなた一人へ渡そうとしていた。王家にいる限り、この頁の大半を削ることはできません」
彼は苦しげに笑った。
「豪華に飾れば、檻でないことになるわけではない。私は、自分が差し出したものを贈り物とは呼べません。……求婚を取り下げます」
ジュリアン殿下は王子妃公務予定表を封筒へ戻した。王家の紋章は、彼の手の中へ消えた。
私は深く頭を下げた。
*
ジュリアン殿下が去り、私が小さくため息をついた直後。
今度は、部屋の重厚な扉がノックの音もなく開かれた。
「……ずいぶんと、あっさり引き下がったようだな、アルセリアの青二才は」
入ってきたのは、魔王ザフィルだった。彼はすれ違ったジュリアン殿下の気配を感じ取っていたのだろう。
「ザフィル様……」
「安心しろ。私も、彼と同じ用件で来た」
ザフィルは腕を組み、私を見下ろした。
国境の魔族領の倉庫で、彼の臣下たちが私を「対人間の有能な窓口」としてどれほど熱烈に欲していたか、私はこの耳で聞いている。
「私の臣下どもが、お前をどう扱おうとしているかは、お前も聞いただろう」
ザフィルは、一切の誤魔化しを捨てて切り出した。
「建国祭で公衆の前に立った時点で、私はお前を国益の盤上に載せた。その非は認める」
「私は一人の男として、お前を好ましく思っている。だが、王である私の婚姻は、寝台の中まで国事になる」
ザフィルは苦々しく口元を歪めた。
「私がただの男でいられたなら、退く気などなかった。だが、私は王の名を捨てられぬ」
彼は、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
それは、魔族の重鎮たちから提出された、私を妃として迎え入れるための『魔族側の要望書』だった。そこには、私がいかに人間との交渉において利用価値が高いかが切々と綴られている。
「この要望書を伴う求婚では、お前を国益の道具に変える」
ザフィルは、ジュリアン殿下の『王子妃公務予定表』が置かれていた場所へ、自らの要望書を重ねた。
だが次の瞬間。
ザフィルは自らの手で魔族側の要望書をパタンと二つに折りたたみ、懐へとしまった。
二つの国の役割書は、どちらも持ち主の手へ戻った。
「求婚は取り下げる。だが、交易の記録まで終わるわけではない。次に会う時は、互いの国の窓口として遠慮なく争おう」
「はい。証拠を揃えてお待ちします」
ザフィルはわずかに笑い、外套を翻した。
*
静寂が戻った執務室で、私は一人、大きく息を吐き出した。
閉じた二通の書類がなくなると、机の木目が戻ってきた。
残る求婚書は、あと一通だった。
私の頭の中に、川辺で一緒に胡桃パンをかじった時の、あの全く苦しくない沈黙の時間が鮮やかに蘇ってくる。
残されたのは、北境辺境伯、レオンハルト・グレンだけだった。




