第28話 商会長の降参
川辺で「何もしない半日」を過ごした翌朝。
胸には、胡桃パンでむせて耳を赤くしたレオンハルトの顔が残っていた。思い出すたび、仕事上の信頼とは違う熱が戻ってくる。
自室の執務机で、残る四分割案の細部を整えていた時のことだ。
「やあ、リディア嬢。おはようございます」
軽やかなノックと共に、白梟商会の会頭ノア・ベルクが部屋に入ってきた。
いつも通り仕立ての良い外套を翻した彼の手には、王室御用達の羊皮紙で作られた、見事な装丁の分厚い封筒が握られている。誰の目から見ても、それが正式な『求婚書』であることは明らかだった。
「ノア会頭。……その封筒は」
「ああ、いや。まずは仕事の話をさせてください。素晴らしい四分割案でしたよ。内務局の監査を逆手に取るとは、さすがに私も思いつきませんでした。これで今年の冬の物流は完璧です」
ノアは封筒を脇に抱えたまま、私の机の上の書類を押し除け、巨大な羊皮紙の地図を広げ始めた。
「実は、この協定が発効した後の事業計画を練っていたのです。見てください。魔族領の薬草ルートが安定すれば、来春には東の海路と北の陸路を直接繋ぐ、新しい巨大な交易ルートが開拓できる。その調整のトップに、私はぜひとも君を置きたい」
ノアの目は、新しい商機を見つけた少年のようにキラキラと輝いていた。
彼が語る計画はどれも魅力的で、私の能力を最大限に発揮できる緻密なものだった。彼と話をしていれば、次から次へと新しいアイデアが湧き、思考の回転速度がどこまでも上がっていくような心地よさがある。
最高の仕事相棒。それが、私とノアの関係だった。
「……とても、素晴らしい計画ですね」
私は地図の上の路線をなぞりながら、相槌を打った。
だが、その声は自分でも驚くほど、どこか平坦で、疲れた響きを帯びていた。
ふと、ノアが言葉を区切った。
彼は広げていた地図の上でペンを走らせていた手を止め、じっと私の横顔を見つめた。
「……リディア嬢」
「はい?」
「今の私の話を聞いていて。あなたは今、どんなことを考えていましたか」
突然の問いに、私は少し戸惑った。
「ええと……東の海路の関税処理をどうするか、それと、新しい中継所をどこに置けば一番効率が良いかを……」
「そうじゃない」
ノアはふっと、自嘲するような、ひどく寂しげな笑みを浮かべた。
「……やはり、こうなる」
ノアは地図を畳んだ。
「どういう意味ですか」
「あなたが倒れた夜から考えていました。昨日、あなたが何も予定のない午後を守ったと聞いて、二通の書類を持ってきたんです。それでも顔を見たら、私は最初に次の仕事を広げてしまった」
彼の言葉に、私は息を呑んだ。
「私と一緒にいれば、あなたはきっと、一生『有能な相棒』として走り続けることになる。私の仕事と愛情の境界が近すぎるせいです。私が、あなたが立ち止まりたい日にも、休息を必要としている時にも……こうして次の商機や新しい地図を広げて、あなたに『役に立つ役割』を与え続けてしまう人間だからです」
彼となら、仕事は面白い。だからこそ私たちは、互いに止まる時刻を忘れる。その相性は仕事の強みであり、生活の危うさでもあった。
ノアは、脇に抱えていた分厚い装丁の封筒――正式求婚書を、そっと持ち上げた。
そして、机の上に出すことなく、そのまま自分の上着の内ポケットへと深くしまい込んだ。
提出されないまま閉じられる正式求婚書。
彼の私に対する評価も、好意も、決して嘘ではなかったはずだ。それでも彼は、私の人生を再び「仕事で埋め尽くす」ことを避けるため、自らの恋心を封印し、身を引くという決断を下したのだ。
「提出はしません」
ノアは内ポケットに求婚書をしまい、短く息を吐いた。
「あなたへの好意は本物です。だから、私となら休めるなどと、できもしない約束で求婚したくない。……言ってみると、なかなか痛いものですね」
私は彼の決断を軽く扱わないよう、立って頭を下げた。
「ありがとうございます。申し訳ない、とは言いません。けれど、そのお気持ちは忘れません」
「謝らないでください。あなたが悪いわけではない」
ノアはいつもの軽妙な笑みを取り戻し、鞄の中から、もう一つの薄い書類を取り出して机に置いた。
「もう一通は、白梟商会との顧問契約の草案です。労働時間の上限と、依頼を断る条項を入れました」
彼は薄い書類を机の端へ置いた。
「今日は署名しないでください。法務に見せて、気に入らない条件は全部直すこと。恋を取り下げた日に仕事を押しつけた、と後で言われるのは困りますから」
最後に戻った軽口へ、私はようやく笑うことができた。
「では、遠慮なく赤字を入れます。仕事では、これからも」
「ええ。良い相棒でいましょう」




