第27話 何もしなくていい日
内務局との折衝を終え、四分割案が本格的に稼働し始めた翌日の午後。
私の予定表は、昨夜エステルが予言した通りに見事なまでの『真っ白』だった。
各部署の実務担当者たちが優秀に立ち回り、私が特別調整官として判を押すべき重大案件は午前中のうちにすべて片付いてしまったのだ。
「……落ち着かないわね」
私は執務室の机の前で、所在なく立ち尽くしていた。
十二歳で婚約内定を受けて以来、私はずっと「役に立つ自分」であろうと、予定を実務で埋め尽くしてきた。空白の時間は、私が公爵家にとって不要な人間だと突きつけられているようで、恐ろしかったのだ。
だから、こうして本当に「何もしなくていい時間」を与えられると、呼吸の仕方さえ忘れてしまったような居心地の悪さを覚える。
控えめなノックの後、軍服ではなく私服姿のレオンハルトが顔を出した。
「予定表が空だと聞いた。市場を抜けて、川まで歩かないか」
「仕事の視察ではなく?」
「嫌ならここで茶でもいい。決めるのはお前だ」
私は白い予定表をもう一度見てから、自分で外套を取った。
「川へ行きたいです」
私たちは王都の賑やかな市場を抜け、少し外れた川辺の散歩道へと向かって歩いた。
行き交う商人や町人たちの活気ある声が耳に届く。だが、私の目はどうしても、街の風景の中から『詰まり』を探し出そうとしてしまっていた。
「あの青果屋の荷車、重心が偏っています。崩れれば道を塞ぐわ。それに、屋台の列も人の流れを――」
私は途中で言葉を止めた。青果屋の主人はすでに荷車へ支え棒を入れ、二人の店員へ積み直しを指示している。
「今すぐ誰かが怪我をするか」
レオンハルトに問われ、私はもう一度見た。
「いいえ。店の方が気づいています」
「なら、今日は任せてもいいんじゃないか」
見えてしまった問題を無視するのではない。緊急か、自分が担うべきかを分ける。私は青果屋から目を離し、川へ続く道を自分で選んだ。
市場を抜け、私たちは川辺の木陰にあるベンチに腰を下ろした。
会議室の怒号も、国を揺るがす危機の切迫感もない。ただ、穏やかな川のせせらぎと、遠くで子供たちが遊ぶ声だけが聞こえてくる。
レオンハルトは何も話そうとはしなかった。
彼はただ、市場で買ってきたばかりの香ばしい胡桃パンを二つにちぎり、無言で片方を私に差し出した。
私も無言でそれを受け取り、ゆっくりとかじる。
川辺で、二人とも何も話さず、ただ胡桃パンを食べるだけの時間。
しばらくそうしていると、川面から少し冷たい風が吹き抜けた。
私はブルッと身震いし、無意識のうちに左手を右の袖口に深く差し込み、布の中で両手を握り合わせた。
「……お前、昔から寒いと必ずそれやるよな」
ふいに、レオンハルトがぽつりとこぼした。
私は驚いて彼を見た。
「昔から、ですか?」
「ああ。五年前の北境でも、お前は吹雪の中でいつもそうやって両手を袖に突っ込んで震えてた。さっきの市場でも、日陰に入った途端にやってただろ」
彼は可笑しそうに、けれどとても優しい目で私を見た。
「帳簿を睨む目は鋭いくせに、そういう変な癖だけは十七の頃から全く変わってねえ」
私の、能力とは何の関係もない、ただの小さな癖。
それを彼が五年前から変わらず見つめ、今も覚えていてくれたという事実。
胸の奥が、熱いもので一杯になった。
そして私は、この沈黙が、今のこの何もしない時間が、全く苦しくないことに気づいた。
かつての婚約者であるオスカーといる時は、常に「有能な公爵夫人候補」としての自分を演出するための、気の利いた会話や有益な話題を探さなければならなかった。沈黙は、私が彼を退屈させている証拠であり、恐怖でしかなかった。
けれど、レオンハルトとの間にはそれがいらない。
彼は私の沈黙を埋めようとしないし、気の利いた会話も求めてこない。ただ隣に座って、胡桃パンを食べている。何も話さない時間にも、彼は席を立たなかった。
陽が傾き始め、川面がオレンジ色に染まり始めた頃。
私は、自分の中に芽生えた明確な感情を、はっきりと自覚した。
役に立つためでも、国を救うためでもない。ただ純粋に、私の心が彼を求めているのだと。
「……レオンハルト様」
私は、袖の中から手を出して、自分の膝の上でぎゅっと握りしめた。
「なんだ?」
「明日も……もし、私の予定が今日のように空いたら。またこうして、何もしない時間を一緒に過ごしていただけませんか」
返事を待つ間、帳簿を差し出した時よりも胸が騒いだ。
レオンハルトは目を丸くし、ちょうど口に入れた胡桃パンでむせた。
「……悪い。そんな誘いをもらえるとは思ってなかった」
彼は耳を赤くしたまま、今度はゆっくり笑った。
「ああ。何もしない約束なら、俺にも守れそうだ」




