第24話 私の返事は娯楽ではありません
積み上げられた交易協定の上で、エステルが粗悪な賭け札を、端が潰れるほど強く掴んだ。
『白梟商会会頭ノア・ベルク 二倍』
『北境辺境伯レオンハルト・グレン 三倍』
『アルセリア第三王子ジュリアン 五倍』
『ノクス魔王ザフィル 十倍』
『大穴:元婚約者オスカー卿との復縁 五十倍』
「……悪趣味ですね」
エステルの声は低かった。
「地味で無価値だと言われていたお嬢様が、いきなり四人の傑物に求婚されたという事実を、彼らは面白おかしく消費しているのです。王宮のサロンでは今、この話題で持ちきりだとか」
建国祭では賞品にされ、今度は決断そのものを見世物にされた。どちらにも、私の意思だけがなかった。
私は無言のまま賭け札を掴み、立ち上がった。
「お嬢様? どちらへ」
「少し、サロンへ行ってきます。……このまま放置しておけば、彼らの見世物としての熱狂が、今後の交易会議の進行にまで悪影響を及ぼしかねませんから」
足早に廊下を進み、王宮南棟の談話室へと向かう。
分厚い扉の向こうからは、耳障りな笑い声が漏れ聞こえていた。
「いやあ、あの地味な令嬢もずいぶんと強かだよな。四人の傑物を待たせたまま、わざと返事を引き延ばして自分の価値を吊り上げているんだから」
「全くだ。俺なら間違いなく商会長に賭けるね。やはり今の世の中、金と頭の回る男が一番強いさ」
「いや、大穴でオスカー卿との復縁もあるんじゃないか? 女ってのは、結局初恋の男のところに泣きつくものだろう?」
「はははっ、違いねえ!」
下世話な憶測と嘲笑が飛び交う中、私は静かに談話室の扉を開け、彼らが囲んでいるテーブルへと真っ直ぐに歩み寄った。
私の姿に気づいた若い貴族たちが、ぎょっとして笑い声を止める。
私は、手にしていた粗悪な羊皮紙の切れ端を、彼らのテーブルの中央へ、パチンと音を立てて置いた。
「これは、あなたたちの落とし物でしょうか」
私の静かな声に、賭けを主催していたらしい若い騎士が、気まずそうに目を泳がせた。
「あ、いや……これは、その……」
「私の人生の選択を、あなたたちの暇つぶしの賭けの対象にすることは許可いたしません」
私は逃げようとする彼らの目を見据え、はっきりと宣告した。
「私が返事を保留しているのは、もったいぶって価値を吊り上げるためでも、あなたたちに競争という見世物を提供するためでもありません。婚約とは、生涯の生活を共にする相手を選ぶということです。それを、外野から無責任な娯楽として消費されるいわれはありません。……私の返事は、あなたたちの娯楽ではありません」
毅然と拒絶した私に対し、若い貴族の一人が鼻を鳴らして反発しようとした。
「なんだ、少しちやほやされたからって偉そうに。俺たちはただ、国の重鎮たちが一人の女を巡って争っているから、どちらが勝つのかと――」
「争ってなどいない」
背後から響いた、氷のように冷たく低い声。
反発しようとした貴族たちは、その声を聞いた瞬間、カエルのように口をパクパクとさせて硬直した。
振り返ると、談話室の入り口に、黒い軍服姿のレオンハルトが立っていた。鋭い目を向けられた若い貴族たちは、そろって口を閉じた。
「他人の人生を賭けの札にして遊ぶとは、王都の貴族はずいぶんと暇らしいな」
レオンハルトはゆっくりと歩み寄り、テーブルの上に置かれた賭け札を一瞥した。
「……俺が一番人気か。くだらねえ。俺たちは、お前たち観客のために競争をしているわけじゃない」
彼は賭け札を掴み取ると、躊躇なく真っ二つに引き裂いた。
「まず、集めた金を全員へ返せ。名簿も札も、ここで処分する」
レオンハルトは主催者へ言い、破いた札を卓へ戻した。
「白梟商会が出資する市中の両替窓口で、一係が無断で賭け金を預かっていました。担当者を外し、こちらでは返金を始めています」
扉口にいたノアが帳面を掲げた。隣のジュリアン殿下も、自分の名を使う許可は一度も与えていないと告げる。
最後にエステルが、黒い石蝋で封じられた短い文書を私へ渡した。ザフィルからだった。魔王名を賭け札へ用いることを拒み、ノクス側の関係者には即時返金を命じる――簡潔な文面の末尾で、封印の文字が青く光っている。
私は主催者を見た。
「今日中に中止と返金を公示してください。誰かの脅しではなく、私からの要求として記録に残します」
若い騎士は唇を噛み、深く頭を下げた。
「……ごめんなさい、レオンハルト様。お手を煩わせました」
私が小さく頭を下げると、レオンハルトは引き裂いた賭け札の屑を近くのゴミ箱へ放り捨て、ふっと息を吐いた。
「気にするな。あんな下世話な雑音、お前がまともに相手にしてやる必要はねえよ」
彼は、自分が私を助けた勝者であるかのような顔は一切しなかった。
「くだらねえ見世物は終わった。お前はただ、お前のやりたい仕事に集中しろ」
私は「はい」と頷き、自室の執務机へと戻った。
*
雑音が完全に消え去り、静寂を取り戻した自室。
私は再び、机の上に広げた『四境交易協定』の最新草案に向き合った。
馬車の到着時刻の偏りは解消した。
雪道で止まっていた大箱は、中箱への規格変更で動いた。
隣国との樽の容量の違いも共有され、検疫の滞留も移動燻蒸によって道筋がついた。
個別の問題は動き始めたのに、協定全体には誰も判を押さない。
私の指先が、草案の最後尾にある特記事項のページをなぞり、ある一文でピタリと止まった。
「……これだわ」
私は目を見張り、その条項を凝視した。
『第十二条:本協定に定める四機能(食料・鉄・薬草・通行検疫)のいずれか一つでも規定の条件を満たさない場合、協定全体の効力を一時停止し、すべての交易を保留するものとする』
役割の違う四機能が、一つの失敗で全停止するよう縛られている。雪で食料便が一日遅れただけでも、薬草と鉄まで止まる条項だった。




