第23話 魔王が知る「信用」
深い暗闇の底から浮上するように、私はゆっくりと目を開けた。
視界の端で揺れていた不快な歪みは消え去り、鉛のように重かった身体には確かに血の巡りが戻っていた。
「お目覚めですか、お嬢様。ちょうど五時間になります」
傍らの椅子で書類の整理をしていたエステルが、ほっとしたような笑顔を向けてくれた。彼女の手には、王都の関税局や各中継所への指示書が綺麗に分類されている。ノアやジュリアン殿下たちも、私が寝ている間に滞りなく連絡業務を回してくれていたようだ。
「……ありがとう、エステル。それに、レオンハルト様たちにも」
「温かいお茶が入っております。少しお腹に入れてから、お戻りください」
差し出されたお茶で乾いた喉を潤すと、頭の芯がすっきりとクリアになるのを感じた。
『お前が休んでいる時間も、お前の価値は減らねえよ』
眠りに落ちる直前にかけられたレオンハルトの言葉が、今も胸の奥で温かく燻っている。目覚めても机は逃げず、誰も私の椅子を片づけてはいなかった。
私は身だしなみを整え、特別調整官としての職務に復帰するため、再び王城の会議室へと向かった。
会議室の重厚な扉の前に差し掛かった時。
中から、魔王ザフィルのよく通る、冷徹な声が響いてきた。私は扉の隙間から、そっと中の様子を窺った。
円卓にはレグナ王国の役人たちが並んでいた。オスカーの席は空で、社交折衝補佐宛ての議事要約だけが端に置かれている。
「……魔王閣下。我が国の検疫基準が滞留の原因であったことは認めます。ですが、なぜ貴国は、あの一介の令嬢の言葉だけをそこまで信じるのですか」
内務局の役人の一人が、苦々しい顔でザフィルに問いかけていた。
「彼女が魔族領へ赴いたのは事実ですが、彼女もレグナの人間です。人間側に有利なように記録を改ざんする可能性もあったはず。それを無条件で受け入れるなど、一国の王として無用心ではありませんか」
その問いに、ザフィルは鼻で笑った。
「貴様ら人間は、本当に救いようがないな。己の保身ばかりを考えるから、他者もそうすると思い込む」
ザフィルは腕を組み、円卓の役人たちを睥睨した。
「我ら魔族があの娘を信用する理由は、魔族にとって都合のいい記録をするからではない。自国にとって不利益となる事実であっても、決して目を逸らさず、全く同じ基準で記録するからだ。二年前の薬草横流しも、今回の検疫の詰まりも、彼女はただ事実のみを両国の前に提示した」
「片方の証言ではなく、二つの時刻印と封印を同じ紙へ並べる。だから我らは、あの娘が差し出す紙を読む」
書記官の筆が走り、ザフィルの発言が議事要約へ記されていく。空席の前に置かれた宛名は、オスカー・ヴァルモント。彼はこの評価を、その場のざわめきではなく、職務文書として受け取ることになる。
「書記。その理由だけで終えるな。我が臣下があの娘を国の窓口として欲していることも、私がそれを承知で求婚したことも記せ」
書記官は一瞬だけ目を上げ、すぐ筆を走らせた。
ザフィルが言葉を切ったところで、私は会議室の扉を開けた。
「……お目覚めか、記録者殿」
ザフィルが僅かに口角を上げる。私は一礼し、「お待たせいたしました。各所への通達は完了しています」と告げて、自分の席へ戻った。
会議の終わりに、書記官は社交折衝補佐宛ての写しを封筒へ入れた。
魔族側との危機が一つ収まる一方で、私の名は別の形で王宮に広がっていた。
数時間後。小休止を挟むため、一旦自分の執務室へと戻った時のことだ。
「……何、これ」
机の上には、私が離席する前にはなかった、見慣れない粗悪な羊皮紙の切れ端が置かれていた。
手に取ってみると、そこには四人の名前が乱雑な字で並べられていた。
『白梟商会会頭・ノア』
『辺境伯・レオンハルト』
『第三王子・ジュリアン』
『魔王・ザフィル』
それぞれの名前の横には、倍率を示すような数字が書き込まれており、一番下には「大穴・元婚約者との復縁」というふざけた項目まである。
「お嬢様、それは……」
後から入ってきたエステルが、その紙片を見て顔をしかめた。
「……王宮の若い貴族や騎士たちの間で出回っている、賭け札です。地味な令嬢がいきなり四人の傑物に求婚されたというので、皆様面白がって……誰が選ばれるかの、勝者予想の賭けをしているのです」
私の指の間で、賭け札の端が折れた。四人の思いも私の迷いも、彼らには倍率に変えられる程度のものらしい。




