第22話 役に立つから休めない
施療院の前で視界が歪み、私はエステルの腕の中に倒れ込んだ。
「お嬢様、もう限界です……。手が、氷のように冷たいではありませんか」
泣きそうなエステルの悲痛な声が、夜気の中で震えている。彼女の言う通り、私の身体は鉛のように重く、指先からは体温が失われていた。
だが、私の中にはその疲労を遥かに凌駕するほどの、強迫観念のような焦燥があった。
「大丈夫よ、エステル。少し、貧血を起こしただけだから」
私は彼女の腕からどうにか抜け出し、自力で立ち上がった。
「薬草の第一陣が王都に着くまでに、関税倉庫の保管スペースを確保しておくように連絡を入れなければ。それに、穀物と鉄の交換比率の書類も、明日までに最新版を仕上げないと……」
「なりません! 今夜は宿舎に戻って、すぐにお休みください!」
「ダメよ。私が止まったら、またどこかで物流が詰まるわ。……私が、やらなきゃ」
机を離れた途端、自分の席まで消える気がした。
私の指は、身体より先にペンを探していた。
宿舎の執務室に戻り、私は再び山積みの書類に向かい合おうとした。三日連続の徹夜になろうとしている。インク瓶にペンを浸そうとした時、背後の扉が乱暴に開かれた。
「いい加減にしろ」
低い、怒りを孕んだ声。
振り返ると、厳しい顔つきをしたレオンハルトが立っていた。彼は足早に私に近づき、私の手からペンを奪い取って机に置いた。
「お前はもう限界だ。顔色を見ろ、死人みたいになってるぞ。今すぐ寝ろ!」
北境軍を率いる将軍としての、絶対的な『命令』の口調だった。
普段なら、彼が私を案じて言ってくれているのだと理解できたはずだ。だが、極限状態だった私の心は、その「命令形」に過剰に反応してしまった。
『リディア、君はただ私の言う通りに大人しくしていればいいんだ』
かつて、私の意見をすべて封じ込め、ただ従うことだけを求めたオスカーの顔が、脳裏に重なった。
自分の意思を奪われ、支配されることへの恐怖。
「……私の身体のことは、私が決めます」
私はバンッ、と机を叩き、レオンハルトをキッと睨みつけた。
「休めと、命令しないでください! 私が今休めば、困る人がいるんです。私には、私の仕事があるの!」
激しい拒絶を受け、レオンハルトは息を呑んだ。私を案じる言葉が、軍の部下へ向ける命令と同じ形になっていたことに気づいたのだろう。
彼は顔をしかめ、大きく息を吐き出した。
そして、一切の言い訳をせず、真っ直ぐに私の目を見て言った。
「……すまなかった。俺が間違っていた」
レオンハルトは、威圧感を消すようにゆっくりと腰を下ろし、私の目線と同じ高さになった。
「俺は、お前を心配するあまり、上の立場からお前の意思を奪うような言い方をした。お前が一番嫌がることをした。本当にすまん」
彼は素直に自分の非を認め、先ほどの命令を完全に撤回した。
その上で、彼は静かに言葉を継ぐ。
「休んでいる間の仕事が不安なら、先に引き継ぎを決めよう。第一便の連絡が来るまで五時間眠るか、今夜の確認をエステルたちへ渡して朝まで眠るか。どちらなら、お前が選べる」
どちらも、仕事を放り出す案ではない。私が戻る時刻と、代わりに判断する人を先に決める案だった。
「……第一便の連絡が来るまで。五時間、休みます」
自分の口で時刻を決めると、レオンハルトは「分かった」と頷いた。
それからの動きは早かった。
エステルが素早く書類の優先順位を整理し、「明日の朝まで手をつけなくていい束」と「私が今夜中に整理しておく束」に分けてくれた。
さらに、扉の向こうでやり取りを聞いていたらしいノアとジュリアン殿下が顔を出し、「君が寝ている間の各所への連絡業務は、我々が分担して引き受けよう」と笑って請け負ってくれたのだ。
彼らは、口先だけで「休め」と言うのではない。
私が休んでも物流が止まらないよう、私が安心して『休める環境』を実際に作り上げてくれたのだ。
別室に用意された簡素なベッドに横たわり、温かい毛布にくるまる。
エステルが寝台の脇に座り、レオンハルトは扉のそばで足を止めた。
「……休むのが、怖かったんです」
私は毛布の端を握った。
「役に立たない時間は、ここにいてはいけない時間のようで」
レオンハルトは灯りの覆いを少し下ろし、部屋を暗くした。
「五時間、仕事をしなくても、お前の価値は減らねえよ」
彼はそれ以上近づかず、エステルへ後を頼んで部屋を出た。閉じた瞼の裏に、決めた時刻までの暗闇が降りてきた。




