第18話 戦争を止めたのは誰か
長大な王子妃公務予定表を前にして言葉を失った私から、ジュリアン殿下は書類を回収した。代わりに、まだ温かい花茶を私の方へ寄せる。
「……脅かしてしまったなら、申し訳ありません。これはあくまで『予定』であり、絶対にあなた一人に背負わせるというものではありませんから」
私は一度、祝宴の熱から逃れるように廊下へ出た。警備の打ち合わせを終えたレオンハルトが、私の顔を見るなり眉を寄せる。
「顔が白い。帰りたいなら送る」
「大丈夫です」
「大丈夫かどうかを俺が決める気はねえ。戻るか、休むか、お前が選べ」
私は扉の向こうと、手の中の温かな杯を見比べた。
「もう一つだけ、確かめたいことがあります」
「分かった。終わったら何か食え」
彼は通路を塞がず、私を会場へ戻した。
予定表をしまったジュリアン殿下は、別の封筒を取り出した。
「実は、本国から届いたものがもう一つあります。こちらをご覧いただけますか」
彼が差し出したのは、アルセリア王国の国璽が押された、厳格な外交公文書の公式な写しだった。
「これは、三年前……両国が戦争寸前まで対立した、あの交易交渉に関する我が国の公式記録です」
ジュリアン殿下がそう言うと、レグナ側の役人たちも一斉に注目した。
「我が国では、あの危機的状況を平和裏に解決した最大の要因について、このように記録しています」
私は、彼が指し示した公文書の一節に目を落とした。
そこには、見慣れたアルセリアの文字で、はっきりとこう記されていた。
『……本交渉における決裂を回避し、両国の真の合意をもたらした最大の貢献者は、レグナ王国の記録補佐官、リディア・セヴェラン嬢の極めて公平で精緻な書類照合の手腕によるものである。我が国は、彼女の知性に深く敬意を表する』
(私の、名前……)
王都の公文書では「セヴェラン伯爵家調査班」としか記載されない私の仕事が、隣国の公式な歴史記録には、個人の実名としてしっかりと刻まれていたのだ。
「ジュリアン殿下。この写しは……」
「ええ。正式な外交ルートを通じて、レグナ王宮の記録庫にも収められています」
ジュリアン殿下は写しを私の前へ置いた。アルセリアの使節たちは、王都社交折衝補佐であるオスカーではなく、私へ直接、三年前の礼を告げた。
オスカーは祝杯を勧めようとグラスを上げたが、誰も気づかなかった。人の視線を集めることに長けた彼が、その輪の外でグラスを下ろした。
「……人間の公文書だけではないぞ」
壁際にいた魔王ザフィルが口を開いた。
「我らノクス魔族連邦の石板封印にも、二年前の薬草事件を解決した人間として、同じリディア・セヴェランの名が刻まれている」
「お前の記録は、我らの間でも知れ渡っている。……少々、知れ渡りすぎたほどにな」
「どういう意味でしょうか、ザフィル様」
「国境へ来れば分かる」
ザフィルはそれ以上を語らず、意味ありげに目を細めた。
私は、隣国公文書の貢献者欄にある自分の名を指でなぞった。
王都で家名や部署名に埋もれていた仕事が、国境の外では私の名と結びついて残っている。紙の上の文字が、胸の奥へ小さな熱を灯した。
バンッ!!
だが、その感慨に浸る間もなく、祝宴の会場の扉がけたたましい音を立てて開け放たれた。
飛び込んできたのは、王都の検疫局の制服を着た伝令だった。彼は肩で息をしながら、血相を変えて叫んだ。
「緊急事態です!! 魔族領からの薬草輸出が、国境の関所で完全に停止されました!」
「なんだと!?」
会場の空気が一瞬で凍りつく。
通常量の月白草はすでに尽きかけ、施療院は代替薬と重症者用の取り置きでつないでいる。次の便を半月以内に通さなければならないのに、その大元の輸出が止まったというのだ。




