第17話 あなたの得意と、私の得意
西ルートの通行拒否という予期せぬトラブルが、オスカーの手紙によって解決した日の夜。
王城の一室で、レグナとアルセリア両国の代表団の親睦を深めるための、小規模な祝宴が開かれていた。
柔らかな弦楽器の調べが流れる中、会場の中心で最も華やかに立ち回っているのは、オスカーだった。
「いやはや、閣下の領地で採れるブドウは格別だと父からも聞いておりましてね。今年の収穫はいかがですかな?」
「おお、公爵閣下もご存知でしたか! ええ、今年は近年稀に見る豊作でして――」
昼間の会議では互いに青筋を立てて罵り合っていたアルセリアの使節たちと、レグナの貴族たちが、オスカーの巧みな話術と極上のワインによって、すっかり態度を軟化させ、笑顔でグラスを交わし合っている。
私は会場の隅で果実水を口にしながら、その光景を静かに見つめていた。
「お見事ですね……。あれほど険悪だった空気が、すっかり和んでいます」
背後に控えていたエステルが、感心したように呟いた。
「ええ。オスカー様のあの社交力は本物よ。相手の誇りをくすぐり、緊張を解きほぐし、いつの間にか話し合える空気を作ってしまう。私とは違う才能だわ」
私は、心からの本音を口にした。
彼が馬鹿なのでも、無能なのでもない。ただ、彼は自分のいる社交という世界のルールがすべてにおいて優先されると、過信しすぎているだけなのだ。
「どうだい、リディア」
ふいに、ワイングラスを片手に持ったオスカーが私の元へ歩み寄ってきた。彼の顔は、自らの手腕で場の空気を掌握したことによる、誇り高い高揚感に満ちていた。
「私のやり方も、少しは見直してくれたかな? 君が昼間に言った通り、最終的には精緻な契約書が必要になるのだろう。だが、そもそもこうして席に着き、相手を頷かせるための土台を作るのは、私の得意とするこの『社交』の力だ」
「はい。オスカー様のおっしゃる通りです」
私が素直に頷くと、彼は少し驚いたように目を瞬かせた。私が「そんなものは無価値だ」と反論してくると思っていたのだろう。
「今日の西ルートの確保も、今のこの和やかな雰囲気も、オスカー様の手腕があってこそです。あなたのその能力は、間違いなくこの交易危機を一つ救ってくれました。深く感謝いたします」
私が深く頭を下げると、オスカーの表情に安堵と、昔のような優越感が戻ってきた。
「ふっ……分かればいいのだ。君は数字には強いが、人間相手の機微には疎いからな。だが、お互いに無いものを補い合えば、完璧な形になる。……なあ、リディア。やはり私には君の実務が、君には私の社交が必要だ。今からでも遅くはない、あの婚約破棄は――」
「オスカー様」
私は顔を上げ、彼の言葉を静かに遮った。
「あなたの得意と、私の得意は違いました。それはおっしゃる通りです。ですが、私たちはそれを補い合うことはできなかった」
「……なぜだ。君も今、私の能力を認めたではないか」
「私は認めました。ですが、あなたは認めなかった」
私は、グラスを持つ彼の手を真っ直ぐに見つめた。
「あなたは、自分の得意な世界以外を『地味だ』『無価値だ』と切り捨てました。私の仕事を、一度も真正面から見ようとはしなかった。自分の基準だけで相手の価値を測り、それを公の場で踏みにじったのです」
価値軸が違うこと自体は、別れる理由ではない。けれど、片方だけが相手の仕事を認め続ける関係では、共に歩めない。
「私たちは、互いの違いを尊重できませんでした。どうか、ご自身の得意な分野で、公爵家を支えていってください」
オスカーは顔を強張らせた。
私が彼の能力を認めれば、以前の関係へ戻れると思っていたのだろう。けれど、評価と復縁は別の話だ。
彼は何かを言いかけたが、やがてギリッと奥歯を噛み締めると、何も言わずに踵を返し、足早に会場から去っていった。
「……やはり、あなたは恐ろしいほどに公平な方だ」
オスカーと入れ替わるようにして近づいてきたのは、隣国の第三王子ジュリアン殿下だった。
彼は手にしたシャンパングラスを軽く掲げ、私に微笑みかけた。
「憎い相手の成果まで認めるのですね。あなたのそういうところに、私は惹かれています」
「ジュリアン殿下……過分なお言葉です」
「いいえ、本心です。リディア嬢。私はあなたを、ただ着飾って微笑むだけの妃として迎えたいわけではありません。私の隣で、対等に意見を交わせる相手になっていただきたいのです」
ジュリアン殿下は、私の冷えた果実水に気づき、給仕へ温かい花茶を頼んだ。大げさな手つきもなく、湯気の立つ杯を私の手元へ置く。
「……私の言葉が、単なる口先だけではないと証明させてください。実は今日、本国からこれが届きましてね」
ジュリアン殿下は、懐から折り畳まれた数枚の書類を取り出し、私に手渡した。
「我が国の王子妃が担う役割をまとめた最新版です。もしあなたが来てくだされば、私はこれほどまでに頼ってしまうでしょう」
求婚の先にある王子妃の役割を、彼は隠さず見せた。
私は「拝見します」と受け取り、書類に目を通した。
そこに並ぶのは、貴族派閥の調整、連日の外交晩餐会、慈善事業の運営、無数の決裁。どれも重い公務だった。
文字を追うごとに、私の身体からすっと体温が引いていくような感覚があった。
もし隣国の王子妃になれば、私はこの公務を一つもこぼすまいとするだろう。白い余白が、頁のどこにもなかった。
「…………」
書類を持ったまま、私は言葉を失った。
立派な仕事だ。それなのに、花茶の湯気まで遠くなる。私は、雪の中で胡桃パンをかじった時の、あの短い静けさを思い出していた。
「……リディア嬢?」
ジュリアン殿下の声が、私の思考を現実へと引き戻した。
ハッとして顔を上げると、彼は私の表情を、刺すような鋭い視線で見つめていた。
王子妃公務予定表を前にした私の沈黙を、人の機微に敏いジュリアン殿下が見逃すはずはなかった。




