第16話 曖昧な善意は契約にしない
「『適正な量の鉄』は、『第三純度の鉄鉱石を毎月五百樽』へ。価格にも上限と変動幅を入れてください」
私が新しい契約草案に次々と赤字を入れていくと、レグナ王国の役人たちは頭を抱え、アルセリア王国の書記官たちも必死でペンを走らせた。
善意を疑うためではない。同じ言葉を、同じ条件で読めるようにするためだ。
「……リディア。君は少し、頭が堅すぎるのではないか」
ふいに、呆れたようなため息が会議室に響いた。
王都社交折衝補佐として同席しているオスカーだった。彼は優雅に腕を組み、私の手元にある赤字だらけの草案を指差した。
「外交というのは、商人の帳簿合わせとは違うのだよ。数字や規格で相手をガチガチに縛り付けようとすれば、かえって疑念を生み、相手の誇りを傷つけることになりかねない。国家間の取引に必要なのは、細かな条件よりも、互いを思いやる『感情』であり、親睦を深める『人脈』の力だ」
オスカーは本気でそう信じている。彼が生きる王都の社交界では、実際にそれで物事が回るからだ。
折しもその時、会議の進行を妨げる一つの急報が飛び込んできた。
「調整官殿! 国境付近の西ルートを通るアルセリア側の輸送ギルドが、中継都市の利用を拒否しています!」
「どういうことですか?」
「その都市を治めるレグナ側の辺境領主と、ギルドの長との間に、過去の些細な取引での遺恨があるらしく……領主側も『アルセリアの馬車など入れたくない』と意固地になっておりまして」
法や条約の問題ではなく、完全に個人的な感情のもつれだった。役人たちが「これだから田舎の領主は」と頭を抱える中、オスカーがふっと余裕の笑みを浮かべて立ち上がった。
「やれやれ。ならば、ここは私に任せてくれないか」
彼は従者を呼び寄せると、すらすらと見事な筆記体で手紙をしたため始めた。
「あの領主は、ワインの収集家でね。数年前、私の父が主催した夜会で彼に極上の品を贈って以来、ヴァルモント公爵家には頭が上がらないのさ。私の名で丁重な挨拶と、王都の流行りの品を添えて使いを出そう。ギルドの長にも、公爵家から直々に『両国の友好の懸け橋となってほしい』と名誉をくすぐる手紙を書く。それで丸く収まるはずだ」
オスカーの動きは迅速で、見事だった。
数時間後、早馬で飛んだ使者からの返事が会議室に届く。領主もギルド長もオスカーの手紙に機嫌を良くし、過去の遺恨を水に流して速やかに西ルートを使用することに合意したというのだ。
「見事なお手前です、オスカー卿」
隣国の第三王子ジュリアン殿下が、感心したように拍手を送る。
オスカーは得意げに胸を張り、私の方を見た。「どうだい、リディア。これぞ社交の力、人脈の力だ。君が帳簿と睨めっこしていても解決しなかった問題を、私は手紙一通の感情で解決してみせた。これでもまだ、私のやり方を否定するのか?」
私はペンを置き、オスカーへ頭を下げた。
「西ルートを開いてくださった手腕は見事でした。今夜の物資は、あなたの人脈に救われます」
その上で、通行保証の欄が空白の草案を彼の前へ置いた。
「この関係を、代替わりの後にも残せますか。今なら領主もギルド長も機嫌が直っている。お二人が合意できる期限付きの確認書を、あなたの言葉で結んでください」
オスカーは空欄を見てから、私を見た。
「私の社交を利用して、その場の善意を契約へ移すというのか」
「はい。あなたの得意と、私の得意を、同じものにする必要はありません」
ジュリアン殿下も頷いた。
「親交がある今こそ、互いの面目を潰さず書面にできます。アルセリア側の保証人は僕が引き受けましょう」
オスカーはしばらく黙った後、確認書の文面を自ら書き始めた。空白だった欄に、暫定通行の期限と更新協議の日が入る。人脈だけでも、文面だけでも届かなかった場所に、初めて道がつながった。
小休止に入ると、アルセリアの急使がジュリアン殿下へ分厚い封書を届けた。封を切った彼の手が、数頁目で止まる。
表題は『王子妃公務予定表および役割規定』。細かな字で埋まった頁は、私の席からでも終わりが見えなかった。
「大変な量ですね」
私が思わず言うと、ジュリアン殿下は書類から私へ視線を移した。
「ええ。僕も、今初めて重さを見ました」
いつもの柔らかな笑みは戻ったが、封書を閉じる指だけがしばらく動かなかった。




