第12話 雇いたいのではない
カン、カン、カン。
雪原の向こう、第三中継所から響いてきた澄んだ鐘の音。
それは、ルカたち若い馭者の提案を採用した「中箱」による試験輸送便が、予定より半日も早く無事に到着したことを知らせる合図だった。
「半日……! あの雪道で、半日も短縮できたというのか!」
「積み替え作業の時間が劇的に減ったからです! これなら、人と獣の消耗を抑えつつ、冬の峠を越えられます!」
中継所の管理室にいた将校たちが、歓喜の声を上げて肩を抱き合う。
彼らの安堵に満ちた顔を見て、私もようやく張り詰めていた息を細く吐き出した。五年前に自分が作った古い成功規格を否定し、現場の知恵で新しい仕組みを形にする。その判断が間違っていなかったことが証明され、肩の荷が下りた思いだった。
今後の新しい荷役手順と、王都への報告事項を手帳に書き留め終えた頃。
「リディア」
傍らから声をかけられ、顔を上げる。レオンハルトが、分厚い外套の襟を立てながら私を見下ろしていた。
「少し、外の空気を吸わないか。頭の芯まで数字で詰まってるだろう」
「……はい。そうさせていただきます」
私は手帳を鞄にしまい、彼に続いて管理室の重い扉を開けた。
雪はいつの間にか止んでいた。
冷たく澄み切った北境の夜空には、王都の煤煙越しには決して見られないような、無数の星々が瞬いている。息を吸い込むと、肺の奥まで凍てつくような冷たい空気が入り込み、確かに煮詰まっていた頭をすっきりとさせてくれた。
私たちは中継所の建物の壁に背を預け、並んで星空を見上げた。
「……先ほどは、驚きました」
私は白い息を吐きながら、ぽつりとこぼした。
「ん? 何がだ」
「ルカさんたち……現場の馭者たちの前で、レオンハルト様がご自身の非を認め、頭を下げられたことです。絶対的な責任者である方が、あのように素直に誤りを認めるなど、王都の貴族社会では考えられないことでしたから」
かつての婚約者だったオスカーは、関税倉庫の出資構造を知らなかった理由を、迷うことなく名代室の書記へ押し戻した。権力を持つ者にとって、自らの見落としを認めることは、己の価値を損なうことと同義なのだと思っていた。
けれど、レオンハルトは違った。
「なんだ、そんなことか」
彼は夜空を見上げたまま、鼻で笑った。
「現場の状況が変わっていたのに気づかず、古いやり方を放置していたのは俺の怠慢だ。間違えたなら、それを認めて直す。それ以外にどうしろって言うんだ」
「ですが、上に立つ者の威厳が……」
「威厳で兵士の凍傷が治るか? 見栄を張って部下を死なせるくらいなら、俺は何度でも頭を下げるさ。それに……」
彼はふと視線を落とし、私を見た。
「あの『自分の成功策を否定する』という一番しんどい役回りを、お前が率先してやってくれたからな。お前が五年前に作ったマニュアルを自ら壊そうとしているのに、俺だけがふんぞり返っているわけにはいかないだろう」
その真っ直ぐな言葉に、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
彼は、私の痛みをわかってくれていたのだ。自分が生み出した正解が、今は誰かを苦しめているという事実を受け入れるのは、決して簡単なことではなかったから。
「……お前、辺境へ来ないか」
沈黙が落ちた後、不意に彼が言った。
その低い声は、冷たい風の音に紛れてしまいそうなほど静かだったが、私の耳にははっきりと届いた。
私はわずかに目を瞬かせ、そして、すぐに「合点がいった」というように頷いた。
「はい。今回の危機の全容が見えてきたことで、軍の補給制度には、根本的な見直しが必要だと理解しました。私でよければ、この三十日の任期が終わった後も、軍の新しい物流マニュアルの作成にご協力いたします」
私は冷えた手で鞄を開け、再び手帳を取り出そうとした。
「辺境伯領の専属補佐官としての契約となるか、あるいは顧問としての業務委託となるか。具体的な職務範囲と、こちらに滞在する期間の条件などを――」
「違う」
鋭く、真剣な響きを持った声。
私が手帳を開こうとしていた手が、空中でピタリと止まった。
顔を上げると、レオンハルトが真顔で私を見つめていた。
彼の深い色の瞳には、仕事上の有用性を計るような光は微塵もなかった。
「違うんだ、リディア。俺はお前を、有能な補佐官として雇いたいわけじゃない」
「え……?」
「五年前のお前は、吹雪の中へ来た十七の補佐官だった。俺が抱いたのは、部下を救ってくれた恩人への敬意だ。胡桃パンを食べて、ようやく笑ったことだけが妙に残った」
彼は一歩近づいたが、私が退くほどには距離を詰めなかった。
「今、改めて会ったお前は、自分の意思で立ち、現場の顔を見て判断する一人の大人だ。俺がもっと知りたいと思ったのは、建国祭で再会してからの、お前だ」
私は息を呑んだ。
彼の言っている意味が、すぐには理解できなかった。
役に立たなければ、価値はない。問題を解決しなければ、居場所は与えられない。七年間、そう信じて自分を殺してきた私にとって、そのどちらでもない理由で私を求めるという彼の言葉は、あまりにも規格外だった。
「お前のその並外れた能力を、軍の仕事で使い潰すために求婚したんじゃない」
私が開きかけた手帳を、レオンハルトは指先でそっと押し戻した。
「契約の話ではない。帳簿を追っていない時のお前が、何を面白がり、何を見て笑うのか。それを知りたい。仕事がない日に、ただ一緒にいられるかを確かめたいんだ」
白い息が、二人の間でほどけた。返事の代わりに条件を書こうとしていた指が、手帳の表紙の上で動かなくなった。
私は何を言えばいいのかわからず、ただ小さく唇を震わせた。
「……すまん。仕事の合間に、こんな寒空の下で聞かせるような話じゃなかったな」
レオンハルトはふっと表情を緩め、いつもの余裕のある顔に戻った。
「今はまだ、三十日の危機の真っ最中だ。王都へ戻って、あのふざけた協定をどうにかするのが先決だろう。返答を急ぐ必要はどこにもない」
彼はそれ以上私に答えを迫ることはなく、ただ「冷える前に戻るぞ」と背中を向けた。
私は立ち尽くしたまま、手帳を戻された自分の手を見つめる。
仕事をしていない時間の、私。
彼が知りたいと言ってくれたその言葉の意味を、私は反芻せずにはいられなかった。




