第9話
――テレジア王国、王都。
ルシアが屋敷を去ってから、七日が過ぎていた。
セシリアの毎日は、相変わらず忙しかった。
朝は神殿で祈りを捧げ、昼には貴族家の訪問を受け、午後には王城へ呼ばれる。夕刻には教会関係者との面会が入り、夜には聖女として覚えるべき儀礼や記録に目を通す。
誰もが、セシリアを丁寧に扱った。
銀の聖眼を持つ、正統な聖女。
傷を癒やし、呪いを祓う、アージェント家の誇り。
そう呼ばれるたび、胸の奥が少しだけ冷えた。
誇り。
その言葉の隣に、本当ならもう一人いるはずだった人の名前を、誰も口にしない。
ルシアの部屋に残されていた手紙は、今もセシリアの懐に入っている。
何度も読み返したせいで、封の折り目は少し柔らかくなっていた。
紙の端には、セシリアの指が無意識に触れた跡が残っている。
短い手紙だった。
けれど、その短さが余計に苦しかった。
姉は、何も責めなかった。
何も求めなかった。
ただ、セシリアを祝福して、去っていった。
それが、ずっと胸に引っかかっている。
「セシリア様」
呼びかけられて、セシリアは顔を上げた。
王城の裏手にある魔獣厩舎。
そこには、貴族や教会関係者の移動に使われる馬型魔獣たちが並んでいる。
今日は、神殿騎士団の移動用魔獣の一頭が体調を崩したと聞き、セシリアが呼ばれていた。
銀の聖眼を持つ者なら、傷や呪いの有無をすぐに見分けられる。
そう言われて。
「この子です」
教会騎士が手綱を引き、栗色の馬型魔獣を示した。
以前、セシリアが乗ったことのある子だった。
ルシアの補食を食べて、朝から走っても元気だった、あの子だ。
けれど今は、耳が伏せ気味で、首も低い。脚に大きな傷はない。だが、どこか覇気がなかった。
「昨日から食が細く、今朝もあまり食べませんでした。歩けはしますが、長く走らせると息が乱れます」
「怪我は?」
「ありません。少なくとも見える範囲では」
セシリアはそっと魔獣の額に触れた。
銀の聖眼が、静かに光を帯びる。
見えるのは、表面の傷。
流れ込む瘴気。
呪いの痕跡。
骨や筋を裂くような損傷。
けれど、どこにもそれはなかった。
傷はない。
呪いもない。
瘴気もない。
なら、聖眼で癒やすべきものは、ここにはない。
セシリアは指先を離した。
「傷も呪いもありません」
騎士たちが安堵した顔をする。
「では、大事ではないのですね」
その言葉に、セシリアはすぐ頷けなかった。
大事ではない。
そう言ってしまうには、目の前の魔獣は確かに弱っている。
「最近、補食は変えましたか」
「いえ。以前と同じものを与えています」
「お姉様の補食ですか」
騎士は少し言いづらそうに目を伏せた。
「正確には、ルシア様が残された調合法をもとに、別の薬剤師が作ったものです。以前の在庫は、ほとんど使い切ってしまいました」
セシリアは胸の奥が小さく鳴るのを感じた。
「同じように作っているのですか」
「そのはずです。薬務室からも、調合法通りだと聞いています」
そのはず。
その言葉が、妙に頼りなく聞こえた。
セシリアは飼い葉桶の傍に置かれていた補食を手に取る。
見た目は似ていた。穀物と薬草を固めた、乾いた菓子のような形。香りも大きく違わない。
けれど、なぜか違う。
セシリアには、その違いを見抜く目はない。
銀の聖眼は、傷と呪いを見つける。けれど、薬草の強さも、魔獣の胃の重さも、食べた後に残る違和感も、映してはくれない。
補食を握る指に、無意識に力が入った。
乾いた表面が、指先で少し崩れる。
その感触が、昔、薬草園で姉が「今日は湿気が多いね」と言いながら葉を確かめていた時の記憶と重なった。
ルシアはいつも、誰も見ていないものを指先で確かめていた。
葉の乾き。
土の匂い。
魔獣が餌を噛む速さ。
水桶の前で迷う時間。
そして、その全部を、当たり前のように記録していた。
「……お姉様は、何を見ていたの」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
銀の聖眼は傷を癒やせる。
けれど、傷がないのに弱っている理由は、何も教えてくれない。
こういう時、姉ならどうしただろう。
葉の乾き具合を見るだろうか。
魔獣の鼻先の動きを見るだろうか。
糞の状態や、水を飲む量を聞くだろうか。
同じ調合法でも、個体や季節に合わせて少し変えただろうか。
「……この子は、いつから調子を崩しましたか」
「三日前です」
「補食が変わったのは?」
騎士は少し考えた。
「四日前、だったかと」
セシリアは、補食を握る指にさらに力を込めた。
偶然かもしれない。
けれど、見過ごしていいものではない気がした。
「この子に与えた補食と、以前の在庫の残りがあれば、両方持ってきてください。それから、食べた量、水を飲んだ量、移動した距離も分かる範囲で」
「そこまで必要でしょうか。聖眼で異常がないのなら」
「必要です」
思ったより強い声が出た。
騎士が驚いたように背筋を伸ばす。
セシリアは自分の声に少し驚きながらも、目を逸らさなかった。
「傷も呪いもないのに弱っているなら、私の聖眼だけでは足りません」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
聖女になったばかりなのに。
誰もが必要としている力なのに。
それでも、足りない。
この子の苦しみには、きっと届いていない。
◇
その日の午後、セシリアは王城の薬務室を訪ねた。
薬務室には、数人の薬剤師がいた。
そのうちの一人が、セシリアの姿を見るなり慌てて頭を下げる。
「聖女様がこのような場所へ、どうされましたか」
「移動用魔獣の補食について確認したいのです」
薬剤師たちは互いに顔を見合わせた。
「ルシアが作っていたものですね」
誰かが、軽い調子で言った。
「調合法なら残っております。今は我々が引き継いでおりますので、ご心配には及びません」
その言い方に、セシリアは唇を結んだ。
引き継いでいる。
本当に、そうなのだろうか。
「同じ材料を、同じ量で?」
「ええ。記録通りです」
「薬草の収穫時期や乾燥具合は?」
薬剤師の一人が眉をひそめた。
「そこまでは……通常、そこまで厳密には」
「お姉様は見ていました」
静かに言うと、薬剤師たちは黙った。
「薬草園の土の状態も、水の量も、葉の色も。魔獣が食べた後の様子も、何日も記録していました」
「ですが、聖女様」
年配の薬剤師が困ったように笑う。
「所詮は魔獣用の補食です。人用の薬ほど厳密でなくとも」
「その“所詮”を、お姉様はずっと見ていたんです」
セシリアの声が、少し震えた。
怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない。
「そして今、その補食を食べた子が弱っています。聖眼で見ても傷も呪いもない。でも確かに、元気がない」
年配の薬剤師は言葉を失った。
セシリアは机の上に置かれた調合記録を見る。
そこには、ルシアの筆跡が残っていた。
材料名。
分量。
乾燥の程度。
使用する魔獣の種類。
与える前後の水分量。
腹を壊しやすい個体には半量。
長距離移動後は蜂蜜を足さない。
気温が高い日は香草を減らす。
細かい。
あまりにも細かい。
けれど、今なら分かる。
これは、ただの調合法ではない。
ルシアが見てきたものの記録だ。
魔獣たちの小さな変化。
食べた後の反応。
腹の具合。
眠りの深さ。
人には気づかれなかった声。
それらを、紙の上に残そうとしていたのだ。
「お姉様がしていたのは、薬を混ぜることだけではありません」
セシリアは、そっと記録に触れた。
「一頭ずつ、見ていたんです」
◇
夕方、セシリアは再び厩舎へ戻った。
栗色の馬型魔獣は、まだ元気が戻っていなかった。
水は飲む。少しは食べる。けれど、食べた後に耳を伏せ、首を低くする。
セシリアは聖眼を使った。
銀の光が魔獣の体を包む。
小さな擦り傷は癒える。脚に残っていた軽い炎症も引いていく。
魔獣は一瞬だけ楽になったように目を細めた。
だが、しばらくすると、また首を下げる。
治っていない。
少なくとも、セシリアが治せるものではない。
教会騎士が心配そうに尋ねた。
「聖女様?」
「傷は癒えました」
「では」
「でも、この子が弱っている理由は、そこではありません」
言いながら、セシリアは悔しさに唇を噛んだ。
銀の聖眼は、確かに力だ。
多くの人を救える。
傷を塞ぎ、呪いを祓い、痛みに苦しむ者を助けられる。
けれど、壊れる前の声は聞こえない。
なぜ弱っていくのか。
なぜ食べられないのか。
なぜ同じ不調が繰り返されるのか。
それは、姉が見ていたものだ。
ルシアがいなくなって初めて、セシリアはその穴の大きさを知った。
「お姉様なら」
声が、かすかに漏れた。
「きっと、分かったのに」
騎士は何も言わなかった。
厩舎の外では、王都の鐘が鳴っている。
祝福の鐘ではない。夕刻を告げる、いつもの鐘。
セシリアは、弱った魔獣の首筋を撫でた。
毛並みは温かい。
生きている。
けれど、何かが確かに崩れ始めている。
聖眼には映らない場所で。
その時、セシリアははっきりと思った。
これは自分の力だけでは届かない。
お姉様が見ていたものを、私は知らなければならない。
そうでなければ、この国はまた、見えないものを失う。
セシリアは顔を上げた。
「お父様に、お話があります」
静かな声だった。
けれど、今度は逃げないと決めていた。
皆様、ここまで読んで頂き、ありがとうございます。
この作品をここまで続けてこられたのは、読んでくださる皆様のおかげです。
本当に励みになっています。
もし少しでも面白い、続きが気になると思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。




