第8話
五日後。
劇的に治った魔獣は、まだ一頭もいなかった。
迎撃部隊の白いペガサスは、まだ長く飛べない。
伝令部隊のリューネも、まだ任務復帰には遠い。
輸送用のヒッポグリフたちも、脚や翼の疲労を完全に抜けたわけではない。
それでも、王立魔獣医療・保護施設の朝は、五日前とは確かに違っていた。
檻を叩く音が減った。
水桶の前で迷う時間が短くなった。
夜間の記録に、「浅い眠り」ではなく「短時間だが深く眠った」という文字が増えた。
奇跡ではない。
快癒でもない。
けれど、悪化の速度は確かに落ち始めていた。
「結論から言うわ」
記録室の中央で、マグダレナが紙束を机に置いた。
「治ってはいない。でも、崩れ続ける流れは止まりかけている」
ノーマンが横から記録板を掲げる。
「水分摂取量、重症三頭のうち二頭で微増。睡眠記録、伝令部隊の軽症個体五頭中三頭で改善傾向。食欲は……まあ、まだ渋いです。魔獣も人間も胃が痛い時は機嫌が悪い」
「余計な一言は?」
「反省中です」
「よろしい」
淡々としたやり取りに、会議室の空気が少しだけ緩んだ。
ルシアは記録を一枚ずつ見比べていた。
水を飲んだ量。
餌に口をつけた回数。
翼の震えが出た時間。
装具を見た時の反応。
夜に体を横たえられたかどうか。
どれも小さな数字だ。
テレジアの宮廷なら、たぶん笑われていた。
そんなものを数えて何になる、と。
けれど今、この小さな数字の積み重ねが、命を処分から一歩遠ざけている。
「白いペガサスは?」
マグダレナが尋ねる。
ルシアは該当する記録を引き寄せた。
「まだ胃の痛みは残っています。ですが、水を飲んだあとに首を振る回数が減りました。餌も、昨日は二口。今朝は四口です」
「四口」
ノーマンが小さく拳を握る。
「地味に嬉しいですね」
「地味ですが、大きいです」
ルシアは真面目に頷いた。
「この子にとっては、食べてもすぐ痛くならないという経験を積み直している段階です。急に量を増やすと、また食べることが痛みと結びついてしまいます」
「なら、四口で勝ちか」
「今日のところは」
「記録します。四口、勝ち」
「ノーマン」
「正式記録には書きません」
マグダレナに睨まれ、ノーマンは素早く言い直した。
会議室の端に立っていた騎士の一人が、ぽつりと言った。
「四口で、勝ちなのか」
声を発したのは、伝令部隊のエリックだった。
以前よりも顔色は少し良い。だが目の下には、まだ疲労が残っている。彼はリューネの記録を書き続けていた。慣れない字で、何度も書き直した跡がある。
「俺たちは、飛べるか飛べないかでしか見ていなかった」
エリックは、手元の記録用紙を見下ろす。
「食べたか。眠れたか。水の前で迷ったか。そんなこと、見ていたつもりで見ていなかった」
ルシアは、言葉を選ぶように少しだけ間を置いた。
「今、見ています」
エリックが顔を上げる。
「それで十分です。最初から全部見える人はいません」
その言葉に、エリックは小さく息を吐いた。
「……リューネは、昨夜眠りました。短い時間ですが、翼を畳んで」
「よかったです」
「俺が近くにいても、起きなかった」
それを言う時だけ、エリックの声が少し震えた。
騎士にとって、戦場で信頼されることは誇りだろう。
けれど、休む時に安心されることも、きっと同じくらい大切なのだ。
ルシアはそう思った。
◇
午前の診回りで、ルシアは隔離棟へ向かった。
白い迎撃ペガサスは、檻の奥ではなく餌桶の前にいた。
まだ痩せて見える。羽の艶も戻りきってはいない。
けれど、最初に見た時のような、世界のすべてを敵にするような鋭さは薄れていた。
水桶の近くに置かれた柔らかい薬餌を、鼻先で慎重に確かめている。
飼育員が、声を潜めて言った。
「今朝は、自分から餌桶の前に立ちました」
「無理に近づけましたか」
「いいえ。こちらは何も」
「なら、良い変化です」
ペガサスが一口、薬餌を食べる。
噛む。
飲み込む。
しばらく動かない。
ルシアは息を詰めて見守った。
痛みがぶり返すか。
首を振るか。
水からも餌からも離れてしまうか。
けれどペガサスは、しばらくして、もう一口食べた。
飼育員の肩が大きく下がる。
力が抜けたのだ。
「食べた……」
彼は小さく呟いた。
「二口目です」
「昨日より、一口多いですね」
ルシアがそう言うと、飼育員は一瞬だけ笑った。
「一口で、こんなに嬉しいとは思いませんでした」
「私もです」
ペガサスが顔を上げた。
黒い瞳が、ルシアを見る。
以前なら、その瞬間に翼を広げて威嚇していた。
だが今は、ただ短く鼻を鳴らしただけだった。
それからまた、餌桶へ顔を戻す。
ルシアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
これは奇跡ではない。
誰の傷も一瞬で塞がっていない。
銀の聖眼のように、光が降り注いだわけでもない。
それでも、届いている。
少しずつ。
一口ずつ。
一晩ずつ。
その小ささが、今はとても尊かった。
◇
昼過ぎ、飼料庫ではベルンが若い職員たちに囲まれていた。
飛翔用標準配合の袋が、壁際に積まれている。
その隣に、仮配合の材料が並んでいた。
「穀類を減らしすぎるな。力が出なくなる」
ベルンは低い声で指示を出す。
「だが刺激草は抜け。今は不要だ。白灯草は細かく砕け。香りが立ちすぎると食わん」
若い職員が首を傾げる。
「主任、昨日まで刺激草は迎撃用には必要だと」
「必要だった時代もある」
ベルンは短く答えた。
「今は違う。それだけだ」
その言い方には、まだ少し硬さが残っていた。
けれど、拒絶ではなかった。
ルシアが近づくと、ベルンは仮配合の皿を一つ差し出した。
「見ていただきたい」
「私が、ですか」
「あなたに見てもらうために作った」
ルシアは一瞬、返事が遅れた。
ベルンは続ける。
「伝統配合を否定されるのは、正直なところ腹が立った」
「否定したかったわけでは」
「分かっています」
ベルンは皿を見下ろした。
「だから余計に腹が立った。感情で否定されたなら怒れば済む。だが、記録を並べられた。症状と数字を突きつけられた。こちらも見直すしかない」
その言葉は不器用だった。
けれど、誠実でもあった。
「昔の配合で守れた命がある。それは事実です」
ルシアは静かに言った。
「なら、今の子たちに合わせて変えれば、その配合はまた命を守れると思います」
ベルンは黙った。
しばらくして、低く言う。
「……残せる部分を、一緒に探してもらいたい」
ルシアはその言葉を、胸の中で何度か確かめた。
一緒に。
命じられるのでもなく、押しつけられるのでもなく、求められた。
「はい」
ルシアは小さく、けれどはっきり頷いた。
「私でよければ」
横からノーマンが顔を出した。
「ちなみに私もいます。試食以外ならやります」
「誰もお前に試食させるとは言っていない」
ベルンが即座に返す。
「念のためです。以前、草食魔獣用の回復食を味見した研究員がいたので」
「お前だろう」
「若気の至りです」
ベルンが深くため息をつく。
ルシアは思わず、少しだけ笑いそうになった。
その小さな笑いを、ノーマンは見逃さなかったらしい。
「ルシア殿、今笑いましたね」
「いえ、その」
「記録しましょう。施設到着後、初笑い」
「しなくていい」
マグダレナの声が背後から飛んだ。
ノーマンはすぐに記録板を下げる。
「はい、心の記録に留めます」
ルシアは慌てて目を伏せた。
けれど、胸の奥は少し軽かった。
◇
その夕方、王立施設の中庭には数頭のペガサスが出されていた。
飛行訓練ではない。
任務でもない。
ただ、夜風に当てるための短い散歩だった。
白い迎撃ペガサスは、まだ職員二人に見守られながら、ゆっくり歩いている。時々、翼を小さく広げるが、暴れる気配はない。
灰色のリューネは、エリックの隣を歩いていた。
エリックは手綱を強く引かず、ただ歩調を合わせている。
リューネが立ち止まると、自分も止まる。
鼻先が水桶の方へ向けば、急かさず待つ。
五日前なら、彼はきっと「まだ行ける」と判断していただろう。
今は違う。
騎士たちの顔つきが変わり始めていた。
焦りだけではない。
命令をこなすための硬さだけでもない。
自分たちが見落としてきたものを、今度こそ見ようとする目になっている。
「少し変わったでしょう」
隣に立ったアルベルトが言った。
ルシアは中庭を見つめたまま頷く。
「はい」
「数字より、顔に出ることもある」
「殿下も、そういうものを見るのですね」
「王族だからね。報告書と同じくらい、人の顔は読む」
アルベルトは小さく笑った。
「もっとも、マグダレナにはよく『読めているなら先に動け』と言われるけれど」
「言うわよ」
いつの間にか背後にいたマグダレナが即答した。
「読めているだけでは仕事にならないもの」
「ほらね」
アルベルトが肩をすくめる。
ルシアは少しだけ目を瞬いたあと、小さく笑った。
今度は、隠しきれなかった。
マグダレナがそれを見て、ほんのわずかに目元を緩めた。
「いい顔をするようになったわね」
「え?」
「到着した時は、食べ物を出しても尋問を受ける前の顔をしていた」
「そ、そんな顔をしていましたか」
「していたわ」
マグダレナは迷いなく答える。
アルベルトが穏やかに付け足した。
「今は少し、仕事の顔になっている」
仕事の顔。
その言葉が、ルシアの胸に静かに残った。
テレジアでは、仕事をしていても雑務の顔だった。
誰もやらないからやっている人間。
聖眼を持たないから、隅へ追いやられた人間。
けれどここでは、違うのかもしれない。
必要だから、見ている。
求められたから、考えている。
記録をつけ、薬餌を変え、眠れる夜を一つ増やしている。
それを、この国では仕事と呼んでくれる。
中庭の向こうで、リューネがエリックの肩へ鼻先を寄せた。
エリックは驚いたように目を見開き、それから不器用に首筋を撫でる。
白いペガサスも、少し離れた場所で水桶へ顔を近づけていた。
水面が揺れる。
それだけで、周囲の騎士たちの表情が明るくなる。
ルシアはその光景を見つめながら、静かに息を吸った。
まだ終わっていない。
国内のすべてが解決したわけではない。
国境の野生魔獣の問題も、伝令網の負担も、これから向き合わなければならない。
けれど、最初の一歩は踏み出せた。
処分予定だった札は、今日も外されたままだった。
皆様、ここまで読んで頂き、ありがとうございます。
この作品をここまで続けてこられたのは、読んでくださる皆様のおかげです。
本当に励みになっています。
もし少しでも面白い、続きが気になると思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。




