第7話
「この国のやり方そのものが、魔獣たちを少しずつ追い詰めています」
ルシアの言葉が落ちたあと、記録室にはしばらく誰の声もなかった。
責めるつもりで言ったわけではない。
けれど、言葉にした瞬間、その重さが部屋の中へ広がっていくのが分かった。
ベルンは固い顔で配合表を見つめていた。
ノーマンは記録板を抱えたまま、珍しく何も言わない。
マグダレナは腕を組み、地図と報告書を交互に見下ろしている。
最初に口を開いたのは、アルベルトだった。
「ルシア殿。確認したい」
その声は穏やかだった。
けれど、王族として何かを決めようとしている声でもあった。
「飛翔用標準配合を止めれば、すぐに魔獣たちは回復するのか」
「いいえ」
ルシアは首を振った。
「すぐには難しいと思います。胃を痛めている子には、まず負担を減らす必要があります。眠れていない子には、休ませ方を変える必要があります。食べ物を変えるだけでは足りません」
「なら、何から変えるべきだ」
問われて、ルシアは一度だけ目を閉じた。
昨日見たペガサスの苦しみが、胸の奥によみがえる。
焼けつく胃の痛み。
空腹のまま張りつめていた待機時間。
装具の音と結びついた恐怖。
水を飲むことすらためらうほどの不快感。
「まず、重症の子には飛翔用標準配合を止めてください。少なくとも、今のまま与え続けるのは危険です」
ルシアは配合表の横に、白紙を引き寄せた。
「胃を守る薬草を混ぜた柔らかい餌に切り替えます。量は少しずつ。水には薄い整腸薬を。香りが強いものは避けてください。興奮を高める香草も、今は抜いた方がいいです」
「飛行任務は?」
アルベルトが問う。
「飛行前の長い絶食は見直すべきです。空腹のまま待機させる時間を減らしてください。任務後はすぐに装具を外し、水分と補助薬を入れて、静かな場所で休ませる必要があります」
ベルンが低く唸った。
「だが、飛行前に腹を満たせば、体が重くなる。事故につながる。昔からそう教えられてきた」
「満たす必要はありません」
ルシアは静かに答えた。
「腹を空にしすぎないだけです。飛ぶために軽くすることと、痛むほど空腹にすることは違います」
ベルンは、返す言葉を探すように唇を結んだ。
マグダレナが机を指で軽く叩く。
「結論から言うわ。施設内の重症個体で試験する」
「施設長」
「いきなり全軍に広げるとは言っていない。けれど、今苦しんでいる子を前に、昔からそうだからと続ける理由もない」
マグダレナの声は冷静だった。
冷静だからこそ、逃げ道がない。
「守りたい伝統なら、現実に耐えられる形にしなさい」
アルベルトも頷いた。
「王立魔獣医療・保護施設および関連部隊に限り、暫定措置を認める。正式な全軍命令はまだ出せないが、試験運用としてなら動かせる」
職員たちが一斉に姿勢を正した。
「責任は私が持つ」
それは、命令だった。
ルシアは思わずアルベルトを見る。
「殿下……」
「君は原因の入口を見つけた。なら、私たちはそれを動かせる形にする」
アルベルトは静かに言った。
「責任者の仕事は、見えている危険から目を逸らすことではない。通れる道を作ることだ」
その言葉に、ルシアは胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
テレジアでは、見えていても言えなかった。
言っても、聞いてはもらえなかった。
けれどここでは、見えたものをもとに、人が動こうとしている。
◇
その日の午後、別棟から一頭のペガサスが運ばれてきた。
最初の迎撃ペガサスとは違い、その子は暴れていなかった。
淡い灰色の毛並みを持つ、古参の伝令ペガサスだった。翼の先には長い飛行で擦れた跡があり、首筋には騎手が丁寧に手入れしてきた艶が残っている。
けれど、その瞳は疲れていた。
荒れているわけではない。
誰かを拒んでいるわけでもない。
それなのに、ルシアは檻の前に立った瞬間、胸を締めつけられるような息苦しさを覚えた。
「この子は、王都と国境砦を結ぶ伝令部隊の主力よ」
マグダレナが説明する。
「数日前、飛行中に高度を落としかけた。騎手が立て直したけれど、危険と判断されてこちらに回されたの」
「餌は?」
「食べているわ。ただ、食べているのに体が戻らない。休ませても疲れが抜けない。夜も浅くしか眠れていない」
ルシアは、ペガサスの目を見た。
その子は、こちらを拒まなかった。
ただ静かに立っている。
命じられれば、今でも飛ぼうとするだろう。
それが分かるからこそ、痛ましかった。
ルシアの碧眼が、ゆっくりと金色へ変わる。
見えたのは、激しい痛みではなかった。
細く、長く、削られていくような疲労。
翼の付け根に溜まった重さ。
脚の奥に沈む鈍い熱。
胃の奥にも濁りはある。けれど、迎撃の子ほど鋭くはない。
代わりに、全身の光が薄かった。
何度も飛んだ。
何度も戻った。
休む前にまた呼ばれた。
食べてはいる。けれど、回復する前にまた力を使っている。
限界を、少しずつ先延ばしにしてきた体だった。
「……この子は、壊れたのではありません」
ルシアは小さく言った。
マグダレナがこちらを見る。
「壊れるまで、働いてしまったんです」
その言葉に、伝令部隊の騎士が息を呑んだ。
年若い騎士だった。二十代前半ほどだろうか。短く切った黒髪に、まだ少年らしさを少し残した顔。けれど目の下には濃い疲労がある。
「そんなはずは……こいつは、まだ飛べます」
騎士の声には、怒りよりも焦りがあった。
「昨日だって、砦から王都まで戻ってきた。途中で高度を落としかけましたが、立て直した。まだ飛べるんです」
「飛べると思います」
ルシアは否定しなかった。
「でも、飛べることと、飛ばせていいことは違います」
騎士の顔が歪む。
「国境砦への連絡が遅れれば、人が死ぬかもしれないんです」
「分かっています」
ルシアは静かに答えた。
完全には分からないかもしれない。
国境で何が起きているのか、ルシアはまだ書類でしか知らない。
けれど、軽く扱っていい話ではないことは分かる。
「でも、この子が倒れれば、次からは飛ぶことさえできません」
騎士は何も言えなくなった。
アルベルトが低く尋ねる。
「名は?」
「エリックです。伝令部隊所属、エリック・ハルト」
「エリック。君のペガサスの名は」
エリックは一瞬だけ迷ったあと、檻の中を見た。
「リューネです」
その名を聞いた途端、灰色のペガサスの耳がかすかに動いた。
ルシアはその小さな反応を見逃さなかった。
「リューネは、あなたの声に反応しています」
「え?」
「怖がってはいません。たぶん、あなたのことは信頼しています」
エリックの表情が揺れた。
「なら、どうして」
「信頼しているから、無理をしたんです」
ルシアは、檻の中のリューネを見つめた。
「命じられれば飛ぶ。呼ばれれば戻る。苦しくても、まだできると思ってしまう。この子は、人の命令を守ろうとしています」
それは、美しい忠誠だった。
そして、とても危ういものだった。
「だから、人間が止めなければいけません」
エリックは唇を噛んだ。
その顔には、反発と後悔が混じっていた。
「……俺は、こいつが強いと思っていました」
「強い子だと思います」
「だから、大丈夫だと」
「強い子ほど、我慢してしまいます」
その言葉に、エリックはうつむいた。
ルシアはリューネの脚元を見る。
淡い金色の視界の中で、疲労の色が翼から脚、腹へと薄く広がっている。
「この子には、胃を守る薬餌だけでは足りません。飛行後の回復食が必要です。水分と塩分、疲労を抜く薬草、それから眠れる環境」
ルシアは記録板を見た。
「あと、一定回数飛んだ個体は、強制的に休ませる仕組みが必要です」
「強制休養?」
エリックが顔を上げる。
「本人が飛びたがっても、です」
「でも、そんなことをすれば」
「今休ませなければ、いずれ飛べる子がいなくなります」
ルシアは、今度ははっきりと言った。
エリックは言葉を失った。
その場にいた騎士たちも、研究員たちも、誰も茶化さなかった。
マグダレナが短く息を吐く。
「数字で見せて」
「はい」
ルシアはすぐに答えた。
「食べた量、眠れた時間、飛行後の翼の震え、装具への反応、糞の状態、水を飲んだ量。最初はそれだけでも、変化が見えると思います」
ノーマンが記録板に書き込む。
「食事、睡眠、震え、装具、糞、水。地味ですね」
「地味です」
「いいですね。嫌いじゃありません」
マグダレナが横目で見る。
「ノーマン」
「分かっています。地味な項目ほど命を拾う、と記録しておきます」
ルシアは少しだけ目を瞬いた。
地味な項目ほど命を拾う。
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
「騎士の方にも、初期の兆候を知ってもらった方がいいです」
「初期の兆候?」
エリックが聞き返す。
「餌桶に口をつけるけれど、最後まで食べない。水を飲む前に何度も鼻先を離す。装具を嫌がるのではなく、見た瞬間に体が硬くなる。眠る時に翼を畳みきれない。そういう小さなことです」
エリックは黙って聞いていた。
その顔に、思い当たるものが浮かぶ。
「……あった」
ぽつりと、彼が言った。
「確かに、少し前から水桶の前で迷っていた。装具を見た時も、一瞬だけ体が硬くなった。でもすぐにいつも通りになったから、俺は」
「責めているわけではありません」
ルシアはすぐに言った。
「知らなければ、見逃してしまうものです」
それは、自分自身にも向けた言葉だった。
見える自分でさえ、知らなければ対処できない。
だから記録がいる。
知識がいる。
そして、現場で見ている人の目がいる。
アルベルトがエリックへ視線を向けた。
「伝令部隊の飛行間隔を見直す。すぐには全てを変えられないが、重症の個体から休養へ回す」
エリックが顔を上げる。
「ですが、そうすれば国境への伝令が」
「代替経路を使う」
アルベルトの声は静かだったが、揺るがなかった。
「魔導通信を併用する。地上伝令も増やす。完璧ではないが、倒れてから穴を埋めるよりはましだ」
「しかし」
「飛べる者にだけ頼る仕組みは、もう限界だ」
その一言に、エリックは口を閉じた。
マグダレナが机もないのに、どこか会議室のような調子で指示を飛ばす。
「今日から観察項目を変える。迎撃、伝令、輸送、それぞれ任務別に分けるわ。ノーマン、書式を作って」
「了解。地味で命を拾う紙ですね」
「その名前では出さないで」
「正式名称はあとで考えます」
アルベルトが小さく笑った。
「その紙、私の決裁に回してくれ。名前がひどくなければ通す」
「殿下まで」
マグダレナが冷ややかに見る。
ほんの少しだけ、空気が和らいだ。
けれど、その場にいる全員が分かっていた。
これは、優しいだけの変更ではない。
国境の守り方そのものに関わる変更だ。
◇
夕方には、施設全体が慌ただしく動き始めていた。
飼料庫では、飛翔用標準配合の一部が停止され、重症個体用の仮配合が作られている。
研究員たちは薬草の量を記録し、飼育員たちは水桶の位置や檻の照明まで見直していた。
廊下では、騎士たちが新しい観察項目の説明を受けている。
すべてが、少しずつ変わり始めていた。
ルシアは記録室の机に向かい、新しい表を作っていた。
任務前の食事。
任務後の水分。
睡眠の深さ。
装具への反応。
翼の震え。
排泄の状態。
騎手の所感。
地味な項目ばかりだ。
けれど、こういう地味な記録が、いつか壊れる前の兆しを拾う。
ふと、マグダレナが隣に立った。
「あなたが来てから、報告書が増えたわ」
「……すみません」
「謝ることじゃない」
マグダレナは口元だけで笑った。
「処分予定の札は、減った」
ルシアは手を止めた。
その一言は、どんな歓迎の言葉よりも深く胸に届いた。
処分予定の札。
それが減った。
救えた、とはまだ言えない。
けれど、待てる命が増えたのだ。
ルシアは、そっと紙の端を押さえた。
「私は、まだ何も」
「始めたのよ」
マグダレナは短く言った。
「この国では、それを仕事と呼ぶの」
ルシアは何も言えなかった。
窓の外では、夕暮れの空を一羽のペガサスがゆっくり横切っていく。
まだ低い飛行だった。訓練でも任務でもなく、ただ体を慣らすための短い飛行。
それでも、昨日より少しだけ穏やかに見えた。
テレジアでは、誰にも見向きもされなかった仕事だった。
けれど今、その地味な仕事が、この国の魔獣たちを支えるものになろうとしている。
怖くないわけではない。
問題は、思っていたよりずっと大きい。
それでもルシアは、机の上の記録から目を逸らさなかった。
見えてしまった以上、もう放ってはおけない。
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