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婚約破棄され売られた欠陥聖女は、隣の大国で『魔獣の聖女』と呼ばれることになった  作者: 一十一
第1章 魔獣番の国

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第7話

「この国のやり方そのものが、魔獣たちを少しずつ追い詰めています」


 ルシアの言葉が落ちたあと、記録室にはしばらく誰の声もなかった。


 責めるつもりで言ったわけではない。

 けれど、言葉にした瞬間、その重さが部屋の中へ広がっていくのが分かった。


 ベルンは固い顔で配合表を見つめていた。

 ノーマンは記録板を抱えたまま、珍しく何も言わない。

 マグダレナは腕を組み、地図と報告書を交互に見下ろしている。


 最初に口を開いたのは、アルベルトだった。


「ルシア殿。確認したい」


 その声は穏やかだった。

 けれど、王族として何かを決めようとしている声でもあった。


「飛翔用標準配合を止めれば、すぐに魔獣たちは回復するのか」


「いいえ」


 ルシアは首を振った。


「すぐには難しいと思います。胃を痛めている子には、まず負担を減らす必要があります。眠れていない子には、休ませ方を変える必要があります。食べ物を変えるだけでは足りません」


「なら、何から変えるべきだ」


 問われて、ルシアは一度だけ目を閉じた。


 昨日見たペガサスの苦しみが、胸の奥によみがえる。


 焼けつく胃の痛み。

 空腹のまま張りつめていた待機時間。

 装具の音と結びついた恐怖。

 水を飲むことすらためらうほどの不快感。


「まず、重症の子には飛翔用標準配合を止めてください。少なくとも、今のまま与え続けるのは危険です」


 ルシアは配合表の横に、白紙を引き寄せた。


「胃を守る薬草を混ぜた柔らかい餌に切り替えます。量は少しずつ。水には薄い整腸薬を。香りが強いものは避けてください。興奮を高める香草も、今は抜いた方がいいです」


「飛行任務は?」


 アルベルトが問う。


「飛行前の長い絶食は見直すべきです。空腹のまま待機させる時間を減らしてください。任務後はすぐに装具を外し、水分と補助薬を入れて、静かな場所で休ませる必要があります」


 ベルンが低く唸った。


「だが、飛行前に腹を満たせば、体が重くなる。事故につながる。昔からそう教えられてきた」


「満たす必要はありません」


 ルシアは静かに答えた。


「腹を空にしすぎないだけです。飛ぶために軽くすることと、痛むほど空腹にすることは違います」


 ベルンは、返す言葉を探すように唇を結んだ。


 マグダレナが机を指で軽く叩く。


「結論から言うわ。施設内の重症個体で試験する」


「施設長」


「いきなり全軍に広げるとは言っていない。けれど、今苦しんでいる子を前に、昔からそうだからと続ける理由もない」


 マグダレナの声は冷静だった。

 冷静だからこそ、逃げ道がない。


「守りたい伝統なら、現実に耐えられる形にしなさい」


 アルベルトも頷いた。


「王立魔獣医療・保護施設および関連部隊に限り、暫定措置を認める。正式な全軍命令はまだ出せないが、試験運用としてなら動かせる」


 職員たちが一斉に姿勢を正した。


「責任は私が持つ」


 それは、命令だった。


 ルシアは思わずアルベルトを見る。


「殿下……」


「君は原因の入口を見つけた。なら、私たちはそれを動かせる形にする」


 アルベルトは静かに言った。


「責任者の仕事は、見えている危険から目を逸らすことではない。通れる道を作ることだ」


 その言葉に、ルシアは胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。


 テレジアでは、見えていても言えなかった。

 言っても、聞いてはもらえなかった。


 けれどここでは、見えたものをもとに、人が動こうとしている。


     ◇


 その日の午後、別棟から一頭のペガサスが運ばれてきた。


 最初の迎撃ペガサスとは違い、その子は暴れていなかった。


 淡い灰色の毛並みを持つ、古参の伝令ペガサスだった。翼の先には長い飛行で擦れた跡があり、首筋には騎手が丁寧に手入れしてきた艶が残っている。


 けれど、その瞳は疲れていた。


 荒れているわけではない。

 誰かを拒んでいるわけでもない。

 それなのに、ルシアは檻の前に立った瞬間、胸を締めつけられるような息苦しさを覚えた。


「この子は、王都と国境砦を結ぶ伝令部隊の主力よ」


 マグダレナが説明する。


「数日前、飛行中に高度を落としかけた。騎手が立て直したけれど、危険と判断されてこちらに回されたの」


「餌は?」


「食べているわ。ただ、食べているのに体が戻らない。休ませても疲れが抜けない。夜も浅くしか眠れていない」


 ルシアは、ペガサスの目を見た。


 その子は、こちらを拒まなかった。

 ただ静かに立っている。


 命じられれば、今でも飛ぼうとするだろう。

 それが分かるからこそ、痛ましかった。


 ルシアの碧眼が、ゆっくりと金色へ変わる。


 見えたのは、激しい痛みではなかった。


 細く、長く、削られていくような疲労。

 翼の付け根に溜まった重さ。

 脚の奥に沈む鈍い熱。

 胃の奥にも濁りはある。けれど、迎撃の子ほど鋭くはない。


 代わりに、全身の光が薄かった。


 何度も飛んだ。

 何度も戻った。

 休む前にまた呼ばれた。

 食べてはいる。けれど、回復する前にまた力を使っている。


 限界を、少しずつ先延ばしにしてきた体だった。


「……この子は、壊れたのではありません」


 ルシアは小さく言った。


 マグダレナがこちらを見る。


「壊れるまで、働いてしまったんです」


 その言葉に、伝令部隊の騎士が息を呑んだ。


 年若い騎士だった。二十代前半ほどだろうか。短く切った黒髪に、まだ少年らしさを少し残した顔。けれど目の下には濃い疲労がある。


「そんなはずは……こいつは、まだ飛べます」


 騎士の声には、怒りよりも焦りがあった。


「昨日だって、砦から王都まで戻ってきた。途中で高度を落としかけましたが、立て直した。まだ飛べるんです」


「飛べると思います」


 ルシアは否定しなかった。


「でも、飛べることと、飛ばせていいことは違います」


 騎士の顔が歪む。


「国境砦への連絡が遅れれば、人が死ぬかもしれないんです」


「分かっています」


 ルシアは静かに答えた。


 完全には分からないかもしれない。

 国境で何が起きているのか、ルシアはまだ書類でしか知らない。


 けれど、軽く扱っていい話ではないことは分かる。


「でも、この子が倒れれば、次からは飛ぶことさえできません」


 騎士は何も言えなくなった。


 アルベルトが低く尋ねる。


「名は?」


「エリックです。伝令部隊所属、エリック・ハルト」


「エリック。君のペガサスの名は」


 エリックは一瞬だけ迷ったあと、檻の中を見た。


「リューネです」


 その名を聞いた途端、灰色のペガサスの耳がかすかに動いた。


 ルシアはその小さな反応を見逃さなかった。


「リューネは、あなたの声に反応しています」


「え?」


「怖がってはいません。たぶん、あなたのことは信頼しています」


 エリックの表情が揺れた。


「なら、どうして」


「信頼しているから、無理をしたんです」


 ルシアは、檻の中のリューネを見つめた。


「命じられれば飛ぶ。呼ばれれば戻る。苦しくても、まだできると思ってしまう。この子は、人の命令を守ろうとしています」


 それは、美しい忠誠だった。

 そして、とても危ういものだった。


「だから、人間が止めなければいけません」


 エリックは唇を噛んだ。


 その顔には、反発と後悔が混じっていた。


「……俺は、こいつが強いと思っていました」


「強い子だと思います」


「だから、大丈夫だと」


「強い子ほど、我慢してしまいます」


 その言葉に、エリックはうつむいた。


 ルシアはリューネの脚元を見る。

 淡い金色の視界の中で、疲労の色が翼から脚、腹へと薄く広がっている。


「この子には、胃を守る薬餌だけでは足りません。飛行後の回復食が必要です。水分と塩分、疲労を抜く薬草、それから眠れる環境」


 ルシアは記録板を見た。


「あと、一定回数飛んだ個体は、強制的に休ませる仕組みが必要です」


「強制休養?」


 エリックが顔を上げる。


「本人が飛びたがっても、です」


「でも、そんなことをすれば」


「今休ませなければ、いずれ飛べる子がいなくなります」


 ルシアは、今度ははっきりと言った。


 エリックは言葉を失った。


 その場にいた騎士たちも、研究員たちも、誰も茶化さなかった。


 マグダレナが短く息を吐く。


「数字で見せて」


「はい」


 ルシアはすぐに答えた。


「食べた量、眠れた時間、飛行後の翼の震え、装具への反応、糞の状態、水を飲んだ量。最初はそれだけでも、変化が見えると思います」


 ノーマンが記録板に書き込む。


「食事、睡眠、震え、装具、糞、水。地味ですね」


「地味です」


「いいですね。嫌いじゃありません」


 マグダレナが横目で見る。


「ノーマン」


「分かっています。地味な項目ほど命を拾う、と記録しておきます」


 ルシアは少しだけ目を瞬いた。


 地味な項目ほど命を拾う。


 そんなふうに言われたのは、初めてだった。


「騎士の方にも、初期の兆候を知ってもらった方がいいです」


「初期の兆候?」


 エリックが聞き返す。


「餌桶に口をつけるけれど、最後まで食べない。水を飲む前に何度も鼻先を離す。装具を嫌がるのではなく、見た瞬間に体が硬くなる。眠る時に翼を畳みきれない。そういう小さなことです」


 エリックは黙って聞いていた。


 その顔に、思い当たるものが浮かぶ。


「……あった」


 ぽつりと、彼が言った。


「確かに、少し前から水桶の前で迷っていた。装具を見た時も、一瞬だけ体が硬くなった。でもすぐにいつも通りになったから、俺は」


「責めているわけではありません」


 ルシアはすぐに言った。


「知らなければ、見逃してしまうものです」


 それは、自分自身にも向けた言葉だった。


 見える自分でさえ、知らなければ対処できない。

 だから記録がいる。

 知識がいる。

 そして、現場で見ている人の目がいる。


 アルベルトがエリックへ視線を向けた。


「伝令部隊の飛行間隔を見直す。すぐには全てを変えられないが、重症の個体から休養へ回す」


 エリックが顔を上げる。


「ですが、そうすれば国境への伝令が」


「代替経路を使う」


 アルベルトの声は静かだったが、揺るがなかった。


「魔導通信を併用する。地上伝令も増やす。完璧ではないが、倒れてから穴を埋めるよりはましだ」


「しかし」


「飛べる者にだけ頼る仕組みは、もう限界だ」


 その一言に、エリックは口を閉じた。


 マグダレナが机もないのに、どこか会議室のような調子で指示を飛ばす。


「今日から観察項目を変える。迎撃、伝令、輸送、それぞれ任務別に分けるわ。ノーマン、書式を作って」


「了解。地味で命を拾う紙ですね」


「その名前では出さないで」


「正式名称はあとで考えます」


 アルベルトが小さく笑った。


「その紙、私の決裁に回してくれ。名前がひどくなければ通す」


「殿下まで」


 マグダレナが冷ややかに見る。


 ほんの少しだけ、空気が和らいだ。


 けれど、その場にいる全員が分かっていた。


 これは、優しいだけの変更ではない。

 国境の守り方そのものに関わる変更だ。


     ◇


 夕方には、施設全体が慌ただしく動き始めていた。


 飼料庫では、飛翔用標準配合の一部が停止され、重症個体用の仮配合が作られている。

 研究員たちは薬草の量を記録し、飼育員たちは水桶の位置や檻の照明まで見直していた。

 廊下では、騎士たちが新しい観察項目の説明を受けている。


 すべてが、少しずつ変わり始めていた。


 ルシアは記録室の机に向かい、新しい表を作っていた。


 任務前の食事。

 任務後の水分。

 睡眠の深さ。

 装具への反応。

 翼の震え。

 排泄の状態。

 騎手の所感。


 地味な項目ばかりだ。

 けれど、こういう地味な記録が、いつか壊れる前の兆しを拾う。


 ふと、マグダレナが隣に立った。


「あなたが来てから、報告書が増えたわ」


「……すみません」


「謝ることじゃない」


 マグダレナは口元だけで笑った。


「処分予定の札は、減った」


 ルシアは手を止めた。


 その一言は、どんな歓迎の言葉よりも深く胸に届いた。


 処分予定の札。

 それが減った。


 救えた、とはまだ言えない。

 けれど、待てる命が増えたのだ。


 ルシアは、そっと紙の端を押さえた。


「私は、まだ何も」


「始めたのよ」


 マグダレナは短く言った。


「この国では、それを仕事と呼ぶの」


 ルシアは何も言えなかった。


 窓の外では、夕暮れの空を一羽のペガサスがゆっくり横切っていく。

 まだ低い飛行だった。訓練でも任務でもなく、ただ体を慣らすための短い飛行。


 それでも、昨日より少しだけ穏やかに見えた。


 テレジアでは、誰にも見向きもされなかった仕事だった。

 けれど今、その地味な仕事が、この国の魔獣たちを支えるものになろうとしている。


 怖くないわけではない。

 問題は、思っていたよりずっと大きい。


 それでもルシアは、机の上の記録から目を逸らさなかった。


 見えてしまった以上、もう放ってはおけない。

皆様、ここまで読んで頂き、ありがとうございます。


この作品をここまで続けてこられたのは、読んでくださる皆様のおかげです。

本当に励みになっています。


もし少しでも面白い、続きが気になると思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。

今後ともよろしくお願いいたします。

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