第6話
翌朝、隔離棟の空気は、ほんの少しだけ変わっていた。
静かになった、というほどではない。
檻の奥では、白いペガサスがまだ立ったまま荒い息をしている。翼の羽は乱れ、耳も伏せ気味だ。床を踏み替える回数も多く、眠れたとは言いがたい。
けれど、昨日とは違う。
水桶の水が、目に見えて減っていた。
「夜明け前に、もう一度だけ飲みました」
飼育員が、声を潜めて報告した。
「ほんの少しです。ですが、自分から鼻先を寄せて」
その声には、驚きと安堵が混じっていた。
ルシアは檻の外からペガサスを見つめる。
碧眼の奥に、かすかな金色が滲む。
腹の奥の濁りはまだ深い。焼けるような痛みは消えていない。喉から胃へ続く流れも、まだぎこちなく乱れている。
けれど、昨日よりほんの少しだけ、こわばりが弱い。
痛みが消えたのではない。
ただ、痛みの輪から一瞬だけ外へ出られた。
それだけだった。
「よくなった、のでしょうか」
ノーマンが記録板を抱えたまま尋ねる。
いつもの軽さは少し控えめだった。
おそらく、昨日の水音がまだ耳に残っているのだろう。
ルシアは首を振った。
「少し楽になっただけです。まだ治ったわけではありません」
「ですよね。ですよね、分かってます。研究員としては喜びたい。記録係としては喜びすぎるなと自分を叱っています」
「結論から言うわ」
マグダレナが横から口を挟んだ。
「喜ぶのは保留。記録は増やす」
「はい、施設長。喜び保留、記録増量」
ノーマンが素早く書き込む。
ルシアは少しだけ目を瞬いた。
張りつめた場所なのに、彼らのやり取りには妙な速さがある。
テレジアの宮廷薬剤室では、こういう会話はなかった。あちらでは誰かが失敗しないように息を潜めていた。けれどここでは、失敗しないために口を動かしている。
それが、少し不思議だった。
マグダレナがルシアを見る。
「次は原因ね」
「はい」
ルシアはペガサスへ視線を戻した。
「この子だけ見ていても足りません。何を食べていたのか、どれくらい飛んでいたのか、いつから崩れ始めたのかを知りたいです」
ペガサスが、檻の奥で小さく鼻を鳴らす。
「それから、似た症状の子たちの記録も。全部、見せてください」
「いいわ」
返事は早かった。
「記録室を開ける。医療記録、飼料記録、飛行記録、搬送記録。出せるものは全部出す」
アルベルトも頷いた。
「航空迎撃部隊と伝令部隊の報告も回そう。軍務局の記録も必要なら見るといい」
ルシアは思わず彼を見た。
「よろしいのですか」
「必要なのだろう?」
「ですが、私は他国から来たばかりで」
「隠して守れるものなら、もう守れていたはずだ」
アルベルトの声は穏やかだったが、言葉の芯は鋭かった。
「それに、これは政務案件でもある。魔獣の不調が国境防衛に響くなら、私は知らないふりをする立場ではない」
マグダレナが腕を組む。
「では、記録で殴りましょう」
ルシアは思わず顔を上げた。
「殴る、のですか」
「比喩よ。たぶん」
アルベルトが小さく笑った。
「マグダレナは、都合の悪い相手には数字を投げる。よく効く」
「効く数字を持っていない相手が悪いの」
マグダレナは平然としていた。
ルシアは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
怖い場所だ。危険な状況だ。けれど、ここには前へ進むための言葉がある。
◇
記録室には、乾いた紙と革表紙の匂いが満ちていた。
長机の上に、次々と書類が積まれていく。
飛行任務記録。
飼料配合表。
治療報告。
部隊別の不調一覧。
搬送記録。
国境警戒報告。
ルシアは椅子に座ることも忘れ、紙束へ目を走らせた。
昨日、ペガサスの体から流れ込んできた感覚を思い出す。
乾いた保存飼料。
長い空腹。
飛行の負担。
装具の音。
眠れない夜。
そして、出撃前の張りつめた空気。
それらに合う記録を探す。
「これです」
最初に指が止まったのは、飼料配合表だった。
航空魔獣用の標準飼料。
欄外には、古い文字でこう記されている。
――飛翔用標準配合。
「この配合は?」
ルシアが尋ねると、近くにいた年配の男性が一歩前へ出た。
「飼料主任のベルンです」
低く、硬い声だった。
「飛翔用標準配合は、航空部隊で昔から使われているものです。持久力を保ち、体を冷やさず、飛行中の気力を落とさないための配合です。迎撃部隊では特に重要視されています」
「昔から、ですか」
「ええ。部隊創設以来、改良を重ねながら使われてきました。我が国の空を守ってきた配合です」
誇りのある声だった。
ルシアは、責める気にはなれなかった。
長く使われてきたものには、それだけの理由がある。
誰かを苦しめるために作られたわけではない。
きっと、何度も魔獣を支え、騎士を帰還させてきた配合なのだ。
けれど、紙面から目を離すことはできなかった。
穀類の比率が高い。
体を温める香草が入っている。
気力を高めるための刺激の強い薬草も、わずかに混ぜられている。
繊維質は少ない。
保存しやすく、軽く、短時間で力を出せるように組まれている。
昔の飛び方には、合っていたのかもしれない。
だが、今は。
「飛行前の食事量が少ないですね」
ルシアは別の記録を指で辿った。
「迎撃任務の前は、体を軽くするために餌を減らすのですか」
「長く飛ぶには腹を軽くした方がいい。昔からそうです」
「でも、待機時間が長いです」
ルシアは飛行記録を引き寄せる。
「この子は出撃前に四時間待機しています。その前の給餌は、さらに三時間前。かなり長い時間、空腹のまま緊張状態に置かれています」
マグダレナが記録を覗き込む。
「……確かに」
「そのあと、重い装具をつけて飛んでいます。しかも最近は、飛行時間が長くなっていますね」
アルベルトの表情が引き締まった。
「国境付近の警戒が増えている」
彼は地図を開き、山岳地帯を指で示した。
「この一帯で、野生魔獣の群れが南へ動いている。人里に降りる前に進路を逸らすため、迎撃部隊を出している」
ルシアはその地図を見つめた。
山岳地帯。
その先に、テレジア側の開拓地域がある。
第1話の朝、宮廷で見た報告書が脳裏をよぎった。
街道拡張。鉱山開発。森林伐採。
その言葉の隣に、魔獣の移動報告が小さく記されていた。
あの時は、まだただの報告だと思っていた。
「テレジア側の開拓の影響ですか」
ルシアが尋ねると、アルベルトは少しだけ目を伏せた。
「断定はまだできない。だが、無関係とも言えない。森の奥を押された魔獣は、別の場所へ移るしかないからね」
ベルンが低く唸る。
「だからといって、迎撃を減らせるわけではありません。人里に被害が出ます」
「はい」
ルシアは頷いた。
「分かっています」
軽く言ってはいけない話だった。
迎撃を止めれば、人が傷つくかもしれない。
けれど、迎撃を続ければ、魔獣たちが壊れていく。
どちらかを簡単に選べる問題ではない。
だからこそ、仕組みごと見直す必要があった。
「装備も、以前より重くなっています」
ルシアは別の紙を指した。
「防護具の強化。通信具の追加。騎士の携行品の増加。飛ぶ時間も、背負うものも変わっているのに、食べるものと休ませ方は昔のままです」
部屋の空気が、少しずつ重くなっていく。
ベルンが言った。
「まさか、それが原因だと」
「原因の一つです」
ルシアは静かに答えた。
「この配合が間違っていたと言いたいわけではありません。昔は、それでよかったのだと思います。短い距離を飛び、十分に休ませ、装備も今ほど重くなかったのなら」
紙の上に並ぶ数字が、ひとつひとつ繋がっていく。
「でも今のこの子たちには、もう重すぎます」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
ルシアはさらに報告書をめくる。
別のペガサス。
飛行後に食が落ちた。
別の個体。
夜間に眠れず、翼を震わせていた。
さらに別の個体。
装具を拒むようになった。
どれも症状の強さは違う。
けれど、根の部分が似ている。
胃腸の不調。
睡眠不足。
神経過敏。
回復の遅れ。
同じ色が、紙の上に滲んで見えるようだった。
「この子だけではありません」
ルシアの声は、自然と低くなった。
マグダレナも、アルベルトも、彼女を見る。
「同じ配合を食べている子たちは、少しずつ同じように崩れています。今はまだ我慢できている子もいるだけです」
「航空迎撃部隊だけか?」
アルベルトが問う。
「いいえ。伝令部隊にも近い症状があります。輸送用の飛行魔獣にも、軽いものなら」
ルシアは一覧表を押し出した。
「症状が違って見えるのは、役割が違うからです。迎撃の子は緊張と装具の負担が強く出る。伝令の子は長距離と休息不足が重なる。けれど、食事と運用の土台は同じです」
ベルンが唇を引き結んだ。
「飛翔用標準配合は、国の空を守るためのものです。簡単に止めるなど」
「止めなければ、守れなくなります」
ルシアは、思ったよりはっきりと言っていた。
自分でも少し驚いた。
けれど、言わなければならないと思った。
「このまま続ければ、次に倒れるのはこの子だけでは済みません」
記録室が静まり返る。
ルシアは続けた。
「すぐに全てを変えるのは難しいと思います。でも、少なくとも重症の子には今の配合を止めてください。飛行前の長い空腹も見直すべきです。任務後すぐに水分と胃を守る補助を入れて、休ませ方も変える必要があります」
マグダレナが、静かに息を吐いた。
「結論から言うわ。試す価値はある」
ベルンが彼女を見る。
「施設長」
「伝統を守るために、魔獣を壊してどうするの」
マグダレナの声は冷たくはなかった。
ただ、逃げ道がなかった。
「本当に守りたいなら、今の現実に耐えられる形に変えなさい」
ベルンは何も言わなかった。
アルベルトは地図の上に視線を落とした。
報告のあった基地や施設に、小さな印がついている。
思っていたより多い。
ルシアはその地図を見て、胸の奥が冷えるのを感じた。
これは一頭の病気ではない。
一施設の失敗でもない。
テレジアの無理な開拓。
押し出される野生魔獣。
増える迎撃と伝令。
変わらない飼料と休養。
いくつものものが重なって、魔獣たちを追い詰めている。
その事実は、ひどく重かった。
けれど、見えてしまった以上、目を逸らすことはできない。
ルシアは地図の上に手を置いた。
「……これは、病気だけではありません」
自分の声が、記録室に静かに落ちる。
「この国のやり方そのものが、魔獣たちを少しずつ追い詰めています」
皆様、ここまで読んで頂き、ありがとうございます。
この作品をここまで続けてこられたのは、読んでくださる皆様のおかげです。
本当に励みになっています。
もし少しでも面白い、続きが気になると思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。




