第5話
――テレジア王国、同じ頃。
セシリアは、移動用の馬型魔獣の背に揺られながら、何度目か分からないため息を飲み込んだ。
朝からずっと移動している。
神殿での祈祷。
貴族家への挨拶。
教会関係者との面会。
正式な聖女となってから、セシリアの予定は隙間なく埋められていた。誰もが丁寧に接し、誰もが祝福の言葉をくれる。
けれど、その中にルシアの名前だけがなかった。
「お父様は、やはり教えてくださいませんでした」
ぽつりと呟くと、横を進んでいた教会騎士がこちらを見た。
「ルシア様のことですか」
「はい。オスカー様にも尋ねました。でも、必要ないことだと」
手綱を握る指に、少しだけ力が入る。
ルシアはどこへ行ったのか。
誰といるのか。
ちゃんと休めているのか。
そればかりが頭から離れない。
セシリアは、自分が乗っている馬型魔獣の首筋をそっと撫でた。栗色の毛並みはよく手入れされていて、朝からずっと走り続けているにもかかわらず、足取りはまだ軽い。
「この子、朝からずっと移動していますのに、とても元気ですね」
「ああ、それはこれのおかげでしょう」
教会騎士は鞍に括りつけた鞄から、小さな紙包みを取り出した。
中には、乾いた菓子のような補食が入っている。穀物と薬草を固めたものらしく、ほんのり甘い匂いと、青い草の香りがした。
「長距離移動用の補食です。最近、教会騎士団でも使われるようになりました。腹を壊しにくく、疲れも残りにくい。移動用魔獣には評判がいいですよ」
セシリアは、その紙包みを見つめた。
胸の奥が、少し痛んだ。
「……それを作ったのは、お姉様です」
「ルシア様が、ですか?」
騎士の声には、素直な驚きがあった。
「ええ。最初は、宮廷の魔獣舎で使うための試作品でした。移動用の魔獣が長く歩いても胃を痛めにくいように。食べやすく、でも薬が強すぎないように、と。何度も配合を変えていました」
セシリアは、馬型魔獣のたてがみを指で梳いた。
「難しい薬草の栽培方法を見つけたのも、お姉様です。人に使うには弱すぎる薬草でも、魔獣の餌に混ぜるにはちょうどいいものがある、と言って。水の量も、日当たりも、土の混ぜ方も、毎日細かく記録していました」
騎士は、手元の補食へ視線を落とす。
「ですが……失礼ながら、なぜそこまで気にかけるのです」
セシリアは顔を上げた。
騎士は、悪意があって言ったわけではないのだろう。
ただ、本当に分からないという顔をしていた。
「聖眼を持たぬ欠陥聖女だと、伺っています。セシリア様とは、役割が違うのではありませんか」
その言葉を聞いた瞬間、セシリアの中で何かが弾けた。
「違います」
静かな声だった。
けれど、騎士はすぐに背筋を正した。
「お姉様を、そんなふうに呼ばないでください」
「……申し訳ありません」
「私の聖眼は、傷を癒やせます。呪いも祓えます」
セシリアは、自分の銀色の瞳にそっと触れた。
聖女の証。
誰もが褒め、誰もが求める眼。
でも、それだけだ。
「けれど私には、壊れてしまう前の痛みは見えません。声にできない苦しみも、どこから悪くなっていくのかも、分からない」
思い出す。
薬草園で、葉の色を見て水の量を変えていたルシア。
魔獣舎で、誰も気づかなかった食欲の落ち方に気づいていたルシア。
ただの気まぐれだと笑われた魔獣の変化を、何日もかけて記録していたルシア。
「お姉様の目は、もっと早く、もっと深いところを見ていました」
騎士は黙って聞いていた。
「壊れてしまう前に。取り返しがつかなくなる前に。誰より先に苦しみを見つけていたのは、お姉様です」
セシリアは、手の中の手綱を握り直した。
「だから、放っておいていいはずがないでしょう」
騎士は、もう何も言わなかった。
ただ、手にした補食をもう一度見下ろしている。
セシリアは前を向いた。
姉がどこにいるのか、まだ分からない。
けれど、姉が残していったものは、確かにここにある。
この子が元気に歩いていること。
騎士たちが当たり前のように使っている補食。
それらは全部、ルシアが誰にも見向きもされない場所で積み上げてきた仕事だった。
◇
――フランキス王国、王立魔獣医療・保護施設。
「その眼は……普通の眼ではないね?」
アルベルトの問いに、ルシアはすぐに答えられなかった。
隔離棟の空気は冷えている。
檻の向こうでは、ペガサスが荒い息を漏らしていた。白い翼がわずかに震えるたび、金具が小さく鳴る。
ルシアの目は、まだ金色のままだった。
普通の眼ではない。
その言葉に、昔の記憶が胸の奥で静かに揺れた。
父と母が、まだ生きていた頃。
幼いルシアは、自分だけが見ているものをうまく言葉にできなかった。
葉の奥に沈む黒ずみ。
魔獣の腹の中に溜まった重い色。
熱の流れが乱れている場所。
誰にも見えないものが、自分には見えていた。
ルシアは、少しだけ目を伏せる。
「昔から、人には見えないものが見えていました」
声は小さかった。
けれど、逃げるようには言わなかった。
「見えないもの?」
アルベルトが静かに聞き返す。
責める声ではない。
確かめる声だった。
「はい。どこが悪いのかが、色みたいに見えるんです。重いところ、濁っているところ、痛みが溜まっているところが」
ルシアは、檻の向こうにいるペガサスを見た。
「時々、その子が何を食べて、どこを歩いて、どんなふうに苦しんだのかまで、断片みたいに流れ込むことがあります」
「過去まで見るのか」
「全部ではありません。はっきりした記憶ではなくて、匂いや痛みや、体に残った跡のようなものです」
ペガサスの腹の奥には、まだ濁った色が沈んでいる。
水を飲むことすら痛みと結びついてしまった、こわばった色。
「でも、それだけです。見えたからって、治るわけじゃありません。見えたあと、どうすればいいのかは、自分で考えるしかないんです」
アルベルトは少し黙ったあと、さらに問いを重ねた。
「家族は、その眼のことを?」
ルシアは、ほんのわずかに指先を握った。
「父と母は、知っていました」
「ご両親が」
「はい。これは聖眼ではない。人に知られれば、魔眼と呼ばれるかもしれないから、むやみに使ってはいけないと教えられました」
声に怒りはなかった。
父と母は、恐れていたのではない。
おそらく、守ろうとしてくれていた。
聖眼ではない、正体の分からない力。
それを人前で使えば、幼いルシアがどんな目で見られるか分からない。だから隠せと言ったのだろう。
「伯父たちは?」
「知りません。たぶん、知ろうともしませんでした」
ルシアは静かに続けた。
「あの家で必要だったのは、聖眼かどうかだけでしたから」
アルベルトの表情が、わずかに変わった。
「では、今その眼のことを知っているのは」
「妹だけは、少し」
ルシアの声が、少しだけ柔らかくなる。
「セシリアは、私が何かを見ていることに気づいていました。何が見えているのかまでは、きっと分かっていません。でも……私が何かを見つけようとしていることだけは、いつも見ていてくれました」
そこで、薬材庫へ向かおうとしていたマグダレナが足を止めた。
「十分よ」
きっぱりした声だった。
「治せるかどうかは、ここから考えればいい。見えなければ、そこへ辿り着けないんだから」
ルシアは思わずマグダレナを見た。
白衣を着た金髪の施設長は、少しも気味悪がっていなかった。
恐れる様子もない。
ただ、現場で必要な情報を得た人間の顔をしている。
アルベルトもまた、静かに頷いた。
「少なくとも、この国ではその眼を不吉とは呼ばない」
その言葉が、ルシアの胸にゆっくり沈んだ。
「苦しみを見抜けるなら、それは価値だ」
価値。
その言葉を、自分の眼に向けられたのは初めてだった。
ルシアはすぐには何も言えなかった。
嬉しいのか、戸惑っているのか、自分でも分からない。ただ、胸の奥に置きっぱなしだった小さな石が、少しだけ温度を持ったような気がした。
「……ありがとうございます」
ようやく、それだけを言った。
ノーマンが薬材庫から戻ってきたのは、その直後だった。
「白灯草、月露草、甘樹脂、全部あります。胃の調整薬も二種。あと、在庫表に誤字が三つありました」
マグダレナが眉を上げる。
「最後の報告は今いらない」
「了解。愚痴なし、誤字も後回しです」
ノーマンは紙束を抱え直した。
緊張しきっていた空気が、ほんの少しだけ動いた。
けれど、立ち止まっている時間はなかった。
金色が深まるほど、目の奥がじくじくと熱を持つ。
見えすぎる時ほど、この眼は持ち主にも容赦がない。
ルシアは短く息を吸い、ペガサスへ向き直った。
「まず、今の飼料はやめてください」
マグダレナが即座に頷く。
「聞こえたわね。今の餌桶は下げて」
「はい!」
職員が動く。
ペガサスがびくりと翼を震わせた。
「金具の音を立てないでください。あと、檻の前に立つ人数を減らしてください。この子、音と視線で余計に張りつめています」
「三人下がって」
マグダレナの指示で、職員たちがすぐに距離を取る。
それだけで、隔離室の空気が少し変わった。
張り詰めた糸が、ほんのわずかに緩む。
「白灯草を多めに、月露草は少しだけ。甘樹脂は香りが強いので、本当に薄くしてください」
ルシアは手早く指示を出した。
「飲み水に混ぜます。薬の匂いが強いと嫌がると思うので、最初はほとんど分からないくらいに。無理に飲ませないでください。鼻先を近づけられれば、それで十分です」
ノーマンが少し戸惑ったように瞬く。
「それだけでよいのですか」
「最初はそれだけです」
ルシアは頷いた。
「この子は、食べることも飲むことも、痛みと結びついています。無理に入れたら、余計に嫌がります」
「なるほど。無理に入れない。研究員としては地味で不安ですが、胃には優しい」
「ノーマン」
「はい、黙って煎じます」
ノーマンはすぐに作業台へ向かった。
ペガサスは檻の奥で、荒く息をしている。
美しい白い首が上下するたび、腹の奥の濁りも微かに揺れた。
「装具は近づけないでください。布も、革帯も、金具のついたものは今は避けてください」
「飛行前の記憶と結びついているからか」
アルベルトが言う。
「はい。装具を見るだけで、痛みを思い出しています」
アルベルトの表情が少しだけ険しくなった。
騎士にとって装具は任務の準備だ。
けれど今のペガサスにとっては、痛みの前触れなのだ。
ほどなくして、薄く煎じた薬草水が運ばれてきた。
透明に近い淡い琥珀色。
匂いはほとんどない。けれどルシアには、白灯草の柔らかな苦みと、月露草の冷たさがわずかに分かった。
職員が水桶を入れ替えようとした瞬間、ペガサスが首を大きく振った。
翼が広がる。
空気が鳴る。
職員が思わず身を引いた。
「下がってください」
ルシアは言った。
その声が自分のものとは思えないほど、静かだった。
「私が置きます」
「ルシア」
マグダレナの声には制止の響きがあった。
「危険よ」
「近づきすぎません」
「その返答、危険な人間がよく言うやつよ」
思わず、ルシアは少しだけ目を瞬いた。
アルベルトが横で小さく笑う。
「マグダレナ、心配しているならそう言えばいい」
「心配しているから危険と言っているの」
マグダレナはきっぱり言った。
ルシアは水桶を受け取り、小さく頭を下げた。
「大丈夫です。無理はしません」
怖い。
怖くないわけがない。
ペガサスは美しいが、大きい。翼を一度打ちつけるだけで、人間など簡単に弾き飛ばされるだろう。
それでも、ルシアの足は止まらなかった。
檻の入口ぎりぎりで膝をつき、音を立てないように水桶を置く。
ペガサスが睨む。
ルシアは目を合わせすぎないように、少しだけ視線を下げた。
「大丈夫」
自分に言っているのか、ペガサスに言っているのか分からなかった。
「無理に飲まなくていいです。匂いだけでいいから」
ペガサスはしばらく動かなかった。
隔離室の中で、誰も声を出さない。
アルベルトも、マグダレナも、ノーマンも、飼育員も、ただ見守っていた。
やがて、ペガサスの鼻先がほんの少し動いた。
水桶へ近づく。
すぐに離れる。
また、近づく。
ルシアは息を止めた。
水面がかすかに揺れる。
ペガサスは長く鼻先を迷わせたあと、ようやく口を寄せた。
ほんの一口。
小さな、水の音がした。
その場にいた誰もが、聞き逃さなかった。
ノーマンが、信じられないものを見るように呟く。
「……三日ぶりです」
その声は、いつもの軽さを失っていた。
ルシアは胸の奥で、何かがほどけていくのを感じた。
治ったわけではない。
まだ始まったばかりだ。
それでも確かに、届いた。
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