第4話
案内された先は、施設のさらに奥だった。
歓迎のために整えられていた応接室を出ると、空気はがらりと変わった。石造りの廊下はひんやりとしていて、壁には魔導灯が等間隔に灯っている。
薬草を煎じたような匂い。
消毒液の鋭い匂い。
その奥に、獣の体温を含んだ重い気配が混じっていた。
遠くで、金属が軋む音がする。
ルシアの胸の奥が、小さく震えた。
怖くないわけではない。
けれど、足は止まらなかった。
「ここから先は、危険個体を収容する隔離棟よ」
前を歩くマグダレナ・オフィウスが、振り返らずに言った。
「治療と保護のための施設だけれど、ここにいる子たちは傷つき、病み、追いつめられている。だから、近づく者を敵と見ることもあるわ」
「……はい」
「結論から言うわ。噛まれたら痛いじゃ済まない」
ルシアは思わず喉を鳴らした。
隣を歩いていたアルベルトが、少しだけ苦笑する。
「マグダレナは脅しているわけではないよ」
「脅しているわ」
「……正直で助かるね」
「怖いと知った上で近づく方が、結果的に生き残るの」
マグダレナは淡々と言い切った。
その言葉は物騒だったが、不思議と信頼できた。
この人は危険を隠さない。だからこそ、必要なところまでは案内する。
扉を二つ抜けると、広い収容区画に出た。
天井は高く、壁面には厚い魔導硝子が嵌め込まれている。その向こうに、白い影が見えた。
ルシアは息を呑む。
ペガサスだった。
絵物語や図鑑でしか見たことがない。
白銀に近い毛並み。背から伸びる大きな翼。長い首と、しなやかな脚。神殿の壁画に描かれるような、清らかで美しい魔獣。
けれど今、その姿は痛々しかった。
翼の羽は乱れ、ところどころ艶を失っている。床に置かれた餌桶にはほとんど手がつけられていない。水桶も減りが浅い。ペガサスは立ったまま、何度も前脚を踏み替えていた。
眠れず、横にもなれず、ただそこに立ち尽くしているように見える。
金具が鳴ると、白い翼がびくりと震えた。
ペガサスは首を上げ、こちらを睨むように耳を伏せる。澄んでいるはずの瞳は濁り、荒い息が白く漏れていた。
「航空迎撃部隊所属のペガサスよ」
マグダレナが静かに説明を始める。
「本来は非常に優秀な子だった。反応が速く、騎手との意思疎通も安定していて、国境付近の迎撃任務で何度も成果を上げている」
「迎撃任務……」
「野生魔獣の群れを、人里へ近づく前に散らす任務だ。討伐より誘導と威嚇が中心になる」
アルベルトが補足した。
「最近、その出動回数が増えている。山岳地帯から押し出された魔獣が、低地へ流れてきているんだ」
テレジア側の開拓政策。
その言葉が、ルシアの中で重く沈んだ。
森を切り開き、街道を広げ、鉱山を増やす。
その陰で、棲み処を失った魔獣たちが移動する。
その移動先で、フランキスの魔獣たちが迎撃に出る。
ルシアは、檻の向こうのペガサスを見つめた。
この子も、その余波を受けているのだ。
「それが、今は」
マグダレナの声が少し低くなる。
「三日前から食欲が落ちた。昨夜はほとんど眠れていない。装具や金具の音に過敏に反応して、近づく者を拒む。外傷はない。翼も脚も折れていない。治癒術師にも見てもらったけれど、傷も呪いも瘴気も確認されなかった」
彼女は短く息を吐く。
「それでも、よくならない」
近くにいた研究員の青年が、記録板を抱えたまま口を挟んだ。
「治癒術で異常なし、鎮静も一時的。食べない、寝ない、暴れる。正直、現場はお手上げです」
言い方は少しぶっきらぼうだったが、疲れが滲んでいた。
マグダレナが彼を見る。
「ノーマン。愚痴は短く、記録は長く」
「はい、施設長。愚痴は以上です」
研究員ノーマンはすぐに口を閉じた。
ルシアは一瞬だけ目を瞬いた。
緊張した場面のはずなのに、少しだけ空気が動いた。
アルベルトが続ける。
「差はあるが、似たような不調を起こしている個体は他にもいる。飛行後に極端に食が細るもの。眠れず荒れるもの。装具を拒むもの。だが、この子がもっとも重い」
ルシアは黙ってペガサスを見つめた。
美しい。
けれど、その美しさの奥で、何かが崩れかけている。
ペガサスがまた低く唸った。
威嚇の形をしている。けれど、その声の底にあるものは怒りではなかった。
苦しいのだ。
そう思った瞬間、ルシアの碧い瞳が、静かに金色へ変わった。
世界の輪郭が、一段深く沈む。
ペガサスの白い体の奥に、淡い光の筋が浮かび上がった。血の流れではない。骨の形でもない。生き物の中を巡る熱と、疲労と、痛みの流れ。
それらが、細い糸のように重なり合って見える。
健康な場所は、澄んだ光を帯びていた。
けれど腹の奥だけが、濁っている。
胃のあたりに、黒ずんだ琥珀色の滲みが沈んでいた。そこから焼けつくような痛みがじくじくと広がり、喉から腹へ降りる流れが途中で乱れている。
胸の奥には、眠れない焦燥が細い棘のように刺さっていた。
ルシアは無意識に息を浅くした。
見えすぎる。
乾いた保存飼料の匂い。
空腹のまま待たされた長い時間。
飛行のたび、腹の奥が締めつけられる感覚。
硬い石床の上で眠れない夜。
背に乗った騎士の緊張。
革帯と金具が擦れる音。
出撃前の張りつめた空気。
戻っても、すぐには楽にならない体。
断片が、光と匂いと痛みになって流れ込んでくる。
ルシアは思わず片手で胸元を押さえた。
「ルシア?」
マグダレナの声が近くで聞こえる。
ルシアは目を逸らさなかった。
逸らせば、この子の苦しみまで見失ってしまう気がした。
「……この子は、怒っているんじゃありません」
声は小さかった。
けれど、隔離棟の空気の中ではっきり響いた。
「ずっと、内側が痛いんです。食べたくても食べられないくらいに。眠れないのも、そのせいだと思います」
ノーマンが眉をひそめる。
「内側? 治癒術師は異常なしと判断しました。外傷も呪いもない」
「傷ではありません」
ルシアは静かに首を振った。
「たぶん、腹の奥です。胃が荒れています。空腹の時間が長くて、その上に刺激の強い餌と飛行の負担が重なっている。装具を嫌がっているのも、装具そのものが嫌いなのではなく、飛ぶ前後の痛みと結びついているからだと思います」
「……その眼で、そこまで?」
ノーマンの声には、疑いより驚きが混じっていた。
ルシアは答えず、ペガサスの腹の奥に見える濁りを追った。
この子は、命令を拒みたいのではない。
飛びたくないのでもない。
ただ、飛ぶたびに痛むのだ。
食べようとしても痛み、眠ろうとしても痛む。だから、世界の全部が敵のように見えている。
「そんなことまで分かるのか」
アルベルトが低く呟いた。
その声に責める響きはない。
驚きと、抑えた興味が混じっていた。
ルシアは、ペガサスから目を離さないまま答える。
「全部ではありません。けれど、目星はつきました」
マグダレナの表情がわずかに変わる。
「治療できる?」
「すぐに治るとは言えません。ただ、今すぐ悪化させているものは減らせます」
ルシアは一歩、檻に近づいた。
ペガサスが警戒して翼を揺らす。
金具が小さく鳴った瞬間、また腹の奥の濁りが強く震えた。
「強い保存飼料は、今はやめた方がいいです。あと、鎮静を重ねるのも少し待ってください。体が重くなって、余計に苦しくなっています」
「では何を使うの?」
「胃を守る薬草と、刺激を抑える煎じ薬。それから、水に混ぜられるくらい薄い整腸薬が必要です。いきなり食べさせようとしないで、まず水を飲めるようにしたいです」
言葉にするほど、頭の中で処置の順番が組み上がっていく。
これは奇跡ではない。
見えたものを、薬と食事と環境に置き換えるだけだ。
ルシアは振り返った。
「この施設に、白灯草と月露草、それから甘樹脂はありますか。胃の痛みを和らげる調整薬があれば、それも少量だけ使いたいです」
空気が止まった。
こんなに早く。
その驚きが、誰かの口から出るより先に、室内へ広がっていく。
マグダレナが最初に動いた。
「ノーマン」
「薬材庫ですね」
「白灯草、月露草、甘樹脂。胃の調整薬も。数字で在庫を持ってきて」
「了解。愚痴なし、全力です」
ノーマンは記録板を抱え直し、足早に駆け出した。
別の職員も、必要なものを書きつけていく。
ルシアはようやく、少しだけ息を吐いた。
金色に染まった視界の端が、じわりと白く滲む。
見続けるほど、目の奥が熱を持つ。
けれど今はまだ、閉じるわけにはいかなかった。
ペガサスは相変わらず警戒している。
それでも、先ほどよりほんの少しだけ、耳の伏せ方が弱まったように見えた。
その時、アルベルトが静かに歩み寄ってきた。
マグダレナたちが薬材の確認に動いている分、周囲の音がわずかに遠のく。聞こえるのは、ペガサスの荒い息と、ルシア自身の鼓動だけだった。
アルベルトは、ルシアの顔をまっすぐに見た。
「不躾で申し訳ない」
穏やかな声だった。
けれど、そこには王族らしい鋭さがあった。
「その眼は……普通の眼ではないね?」
皆様、ここまで読んで頂き、ありがとうございます。
この作品をここまで続けてこられたのは、読んでくださる皆様のおかげです。
本当に励みになっています。
もし少しでも面白い、続きが気になると思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。




