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婚約破棄され売られた欠陥聖女は、隣の大国で『魔獣の聖女』と呼ばれることになった  作者: 一十一
第1章 魔獣番の国

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第4話

 案内された先は、施設のさらに奥だった。


 歓迎のために整えられていた応接室を出ると、空気はがらりと変わった。石造りの廊下はひんやりとしていて、壁には魔導灯が等間隔に灯っている。


 薬草を煎じたような匂い。

 消毒液の鋭い匂い。

 その奥に、獣の体温を含んだ重い気配が混じっていた。


 遠くで、金属が軋む音がする。


 ルシアの胸の奥が、小さく震えた。


 怖くないわけではない。

 けれど、足は止まらなかった。


「ここから先は、危険個体を収容する隔離棟よ」


 前を歩くマグダレナ・オフィウスが、振り返らずに言った。


「治療と保護のための施設だけれど、ここにいる子たちは傷つき、病み、追いつめられている。だから、近づく者を敵と見ることもあるわ」


「……はい」


「結論から言うわ。噛まれたら痛いじゃ済まない」


 ルシアは思わず喉を鳴らした。


 隣を歩いていたアルベルトが、少しだけ苦笑する。


「マグダレナは脅しているわけではないよ」


「脅しているわ」


「……正直で助かるね」


「怖いと知った上で近づく方が、結果的に生き残るの」


 マグダレナは淡々と言い切った。


 その言葉は物騒だったが、不思議と信頼できた。

 この人は危険を隠さない。だからこそ、必要なところまでは案内する。


 扉を二つ抜けると、広い収容区画に出た。


 天井は高く、壁面には厚い魔導硝子が嵌め込まれている。その向こうに、白い影が見えた。


 ルシアは息を呑む。


 ペガサスだった。


 絵物語や図鑑でしか見たことがない。

 白銀に近い毛並み。背から伸びる大きな翼。長い首と、しなやかな脚。神殿の壁画に描かれるような、清らかで美しい魔獣。


 けれど今、その姿は痛々しかった。


 翼の羽は乱れ、ところどころ艶を失っている。床に置かれた餌桶にはほとんど手がつけられていない。水桶も減りが浅い。ペガサスは立ったまま、何度も前脚を踏み替えていた。


 眠れず、横にもなれず、ただそこに立ち尽くしているように見える。


 金具が鳴ると、白い翼がびくりと震えた。


 ペガサスは首を上げ、こちらを睨むように耳を伏せる。澄んでいるはずの瞳は濁り、荒い息が白く漏れていた。


「航空迎撃部隊所属のペガサスよ」


 マグダレナが静かに説明を始める。


「本来は非常に優秀な子だった。反応が速く、騎手との意思疎通も安定していて、国境付近の迎撃任務で何度も成果を上げている」


「迎撃任務……」


「野生魔獣の群れを、人里へ近づく前に散らす任務だ。討伐より誘導と威嚇が中心になる」


 アルベルトが補足した。


「最近、その出動回数が増えている。山岳地帯から押し出された魔獣が、低地へ流れてきているんだ」


 テレジア側の開拓政策。


 その言葉が、ルシアの中で重く沈んだ。


 森を切り開き、街道を広げ、鉱山を増やす。

 その陰で、棲み処を失った魔獣たちが移動する。

 その移動先で、フランキスの魔獣たちが迎撃に出る。


 ルシアは、檻の向こうのペガサスを見つめた。


 この子も、その余波を受けているのだ。


「それが、今は」


 マグダレナの声が少し低くなる。


「三日前から食欲が落ちた。昨夜はほとんど眠れていない。装具や金具の音に過敏に反応して、近づく者を拒む。外傷はない。翼も脚も折れていない。治癒術師にも見てもらったけれど、傷も呪いも瘴気も確認されなかった」


 彼女は短く息を吐く。


「それでも、よくならない」


 近くにいた研究員の青年が、記録板を抱えたまま口を挟んだ。


「治癒術で異常なし、鎮静も一時的。食べない、寝ない、暴れる。正直、現場はお手上げです」


 言い方は少しぶっきらぼうだったが、疲れが滲んでいた。


 マグダレナが彼を見る。


「ノーマン。愚痴は短く、記録は長く」


「はい、施設長。愚痴は以上です」


 研究員ノーマンはすぐに口を閉じた。


 ルシアは一瞬だけ目を瞬いた。

 緊張した場面のはずなのに、少しだけ空気が動いた。


 アルベルトが続ける。


「差はあるが、似たような不調を起こしている個体は他にもいる。飛行後に極端に食が細るもの。眠れず荒れるもの。装具を拒むもの。だが、この子がもっとも重い」


 ルシアは黙ってペガサスを見つめた。


 美しい。

 けれど、その美しさの奥で、何かが崩れかけている。


 ペガサスがまた低く唸った。

 威嚇の形をしている。けれど、その声の底にあるものは怒りではなかった。


 苦しいのだ。


 そう思った瞬間、ルシアの碧い瞳が、静かに金色へ変わった。


 世界の輪郭が、一段深く沈む。


 ペガサスの白い体の奥に、淡い光の筋が浮かび上がった。血の流れではない。骨の形でもない。生き物の中を巡る熱と、疲労と、痛みの流れ。


 それらが、細い糸のように重なり合って見える。


 健康な場所は、澄んだ光を帯びていた。

 けれど腹の奥だけが、濁っている。


 胃のあたりに、黒ずんだ琥珀色の滲みが沈んでいた。そこから焼けつくような痛みがじくじくと広がり、喉から腹へ降りる流れが途中で乱れている。


 胸の奥には、眠れない焦燥が細い棘のように刺さっていた。


 ルシアは無意識に息を浅くした。


 見えすぎる。


 乾いた保存飼料の匂い。

 空腹のまま待たされた長い時間。

 飛行のたび、腹の奥が締めつけられる感覚。

 硬い石床の上で眠れない夜。

 背に乗った騎士の緊張。

 革帯と金具が擦れる音。

 出撃前の張りつめた空気。

 戻っても、すぐには楽にならない体。


 断片が、光と匂いと痛みになって流れ込んでくる。


 ルシアは思わず片手で胸元を押さえた。


「ルシア?」


 マグダレナの声が近くで聞こえる。


 ルシアは目を逸らさなかった。

 逸らせば、この子の苦しみまで見失ってしまう気がした。


「……この子は、怒っているんじゃありません」


 声は小さかった。

 けれど、隔離棟の空気の中ではっきり響いた。


「ずっと、内側が痛いんです。食べたくても食べられないくらいに。眠れないのも、そのせいだと思います」


 ノーマンが眉をひそめる。


「内側? 治癒術師は異常なしと判断しました。外傷も呪いもない」


「傷ではありません」


 ルシアは静かに首を振った。


「たぶん、腹の奥です。胃が荒れています。空腹の時間が長くて、その上に刺激の強い餌と飛行の負担が重なっている。装具を嫌がっているのも、装具そのものが嫌いなのではなく、飛ぶ前後の痛みと結びついているからだと思います」


「……その眼で、そこまで?」


 ノーマンの声には、疑いより驚きが混じっていた。


 ルシアは答えず、ペガサスの腹の奥に見える濁りを追った。


 この子は、命令を拒みたいのではない。

 飛びたくないのでもない。


 ただ、飛ぶたびに痛むのだ。

 食べようとしても痛み、眠ろうとしても痛む。だから、世界の全部が敵のように見えている。


「そんなことまで分かるのか」


 アルベルトが低く呟いた。


 その声に責める響きはない。

 驚きと、抑えた興味が混じっていた。


 ルシアは、ペガサスから目を離さないまま答える。


「全部ではありません。けれど、目星はつきました」


 マグダレナの表情がわずかに変わる。


「治療できる?」


「すぐに治るとは言えません。ただ、今すぐ悪化させているものは減らせます」


 ルシアは一歩、檻に近づいた。


 ペガサスが警戒して翼を揺らす。

 金具が小さく鳴った瞬間、また腹の奥の濁りが強く震えた。


「強い保存飼料は、今はやめた方がいいです。あと、鎮静を重ねるのも少し待ってください。体が重くなって、余計に苦しくなっています」


「では何を使うの?」


「胃を守る薬草と、刺激を抑える煎じ薬。それから、水に混ぜられるくらい薄い整腸薬が必要です。いきなり食べさせようとしないで、まず水を飲めるようにしたいです」


 言葉にするほど、頭の中で処置の順番が組み上がっていく。


 これは奇跡ではない。

 見えたものを、薬と食事と環境に置き換えるだけだ。


 ルシアは振り返った。


「この施設に、白灯草と月露草、それから甘樹脂はありますか。胃の痛みを和らげる調整薬があれば、それも少量だけ使いたいです」


 空気が止まった。


 こんなに早く。


 その驚きが、誰かの口から出るより先に、室内へ広がっていく。


 マグダレナが最初に動いた。


「ノーマン」


「薬材庫ですね」


「白灯草、月露草、甘樹脂。胃の調整薬も。数字で在庫を持ってきて」


「了解。愚痴なし、全力です」


 ノーマンは記録板を抱え直し、足早に駆け出した。


 別の職員も、必要なものを書きつけていく。


 ルシアはようやく、少しだけ息を吐いた。


 金色に染まった視界の端が、じわりと白く滲む。

 見続けるほど、目の奥が熱を持つ。


 けれど今はまだ、閉じるわけにはいかなかった。


 ペガサスは相変わらず警戒している。

 それでも、先ほどよりほんの少しだけ、耳の伏せ方が弱まったように見えた。


 その時、アルベルトが静かに歩み寄ってきた。


 マグダレナたちが薬材の確認に動いている分、周囲の音がわずかに遠のく。聞こえるのは、ペガサスの荒い息と、ルシア自身の鼓動だけだった。


 アルベルトは、ルシアの顔をまっすぐに見た。


「不躾で申し訳ない」


 穏やかな声だった。

 けれど、そこには王族らしい鋭さがあった。


「その眼は……普通の眼ではないね?」

皆様、ここまで読んで頂き、ありがとうございます。


この作品をここまで続けてこられたのは、読んでくださる皆様のおかげです。

本当に励みになっています。


もし少しでも面白い、続きが気になると思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。

今後ともよろしくお願いいたします。

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