第3話
――魔獣の聖女ルシア様、ようこそフランキス王国へ。
馬車の扉が開いた瞬間、それが目に入った。
正門の上には、白地に濃紺の文字で大きく書かれた横断幕が掲げられている。
けれど、王家の式典で使われるような整いきったものではなかった。
布の端は少し歪み、文字の大きさもところどころ揃っていない。急いで縫い合わせたのか、端にはまだ新しい糸の跡が残っている。
それでも、その横断幕には、不思議な熱があった。
まるで、誰かが一生懸命に用意したもののように。
ルシアは馬車の踏み台に足をかけたまま、しばらく動けなかった。
魔獣の聖女。
その言葉が、自分に向けられているとは思えなかった。
息を呑む間もなく、正門の下に整列した騎士たちの姿が視界へ飛び込んでくる。
黒曜石のような鱗を持つドレイク型の魔獣。
風をはらんだ翼を静かに震わせるヒッポグリフ型の魔獣。
豪奢でありながら実戦用と一目で分かる装備を身につけた騎士たちは、テレジアの宮廷で見慣れた儀礼兵とはまるで違った。
飾りではない。
この国の魔獣と共に働く者たちの顔だった。
一人の騎士が、胸に拳を当てて頭を下げる。
それを合図にするように、列の左右が一斉に礼を取った。
「ようこそ、ルシア殿!」
歓迎の声が重なる。
軽い賛辞ではなかった。
張りつめた敬意と、抑えきれない安堵が混じった声だった。
ルシアは、どう反応すればいいのか分からなかった。
これは、自分のような者に向けられるものではないはずだった。
売られてきた薬剤師に。
欠陥聖女と呼ばれてきた自分に。
それでも、馬車の外へ出ないわけにはいかない。
差し出された手を借りて地面へ降り立つと、冷たい朝の空気が頬を打った。
視線の先に、灰白色の石で築かれた大きな施設がある。
華やかな宮殿ではない。
堅牢で、清潔で、いかにも実務のために造られた建物だった。
王立魔獣医療・保護施設。
国が管理する危険な魔獣や軍用魔獣の治療と保養を担い、傷や病で荒れた個体を他施設から分けて収容する隔離施設。
迎えの馬車の中で何度か聞いた名を、ルシアは心の中でそっとなぞった。
着いたら、すぐ働かされるのだろう。
そう思っていた。
けれど、施設の扉をくぐった先に待っていたのは、もっと信じがたい光景だった。
◇
通されたのは、施設長室に隣接した広い応接室だった。
長机には温かな料理が並べられている。旅人向けの粗末な食事ではない。
胃に優しそうなスープ、香草を利かせた魚料理、焼きたてのパン、果実を煮た甘い温製。
壁際には湯を満たした手桶と清潔な布が置かれ、窓辺には薬草を乾かす棚、記録用の机、調合台まで整っていた。
歓迎の宴。
そう呼ぶしかない場が、施設長室の隣で開かれている。
生まれてから、こんな空気を向けられたことはなかった。
「立ったまま固まられても困るわ。まず座って、食べて」
はっきりした声に顔を上げると、白衣の女性が立っていた。
年の頃は二十代後半ほどだろうか。長身で、金色の髪は肩の位置で切り揃えられている。
白衣の下には、軍服に近い仕立ての濃紺の服を着ていた。
オスカーや宮廷で見かけたことのある高位貴族に近い雰囲気を感じる。
けれど、華やかさより先に、軍人のような張りつめた空気が目を引く人だった。
「ようこそ、王立魔獣医療・保護施設へ。私はここの施設長、マグダレナ・オフィウスよ」
歓迎の言葉は簡潔で、余計な飾りがない。
けれど、その眼差しだけは驚くほどまっすぐだった。
「長旅だったでしょう。まずは食べて、温まってちょうだい」
ルシアは戸惑いながら椅子に腰を下ろした。
勧められるままスープに口をつけると、優しい塩気と温かさが、冷えていた喉から胸の奥へゆっくり落ちていく。
疲れていたのだと、その時初めて気づいた。
けれど同時に、どうしても気になることがある。
ルシアは匙を置き、小さく息を整えた。
「あの……ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「正門の横断幕ですが……何かの手違いではありませんか」
マグダレナが片眉を上げる。
「手違い?」
「聖女、というなら……その、妹のことではないかと」
言いながら、ひどくみじめな問いだと思った。
だが、そうとしか考えられなかった。
祝われる聖女といえばセシリアだ。銀に輝く聖眼を持つ、誰もが認める本物の聖女。
少なくとも、ルシアであるはずがない。
マグダレナは数秒、黙ってルシアを見つめた。
それから、はっきりと首を振る。
「違うわ。私たちが待っていたのは、君よ、ルシア」
その言い方には、一片のためらいもなかった。
「ここにいる誰一人、別の誰かと見間違えてなんていない」
ルシアは言葉を失った。
「横断幕は、騎士団と飼育員たちの有志が用意したものよ。少し不格好でしょう?」
「い、いえ」
「不格好なの。本人たちにも言ったわ。文字は大きければいいものじゃないって」
マグダレナは淡々と言ったあと、少しだけ目元を緩めた。
「でも、気持ちは本物よ」
ルシアは、もう一度言葉を失った。
「少し前まで、フランキスでは国中で魔獣の不調が相次いでいたの」
マグダレナは、長机の向こうへゆっくり歩いた。
「食欲不振、胃腸障害、気性の悪化、任務後の回復遅延。致命傷ではないけれど、放っておけば戦力も輸送も牧場も崩れる」
その声が、部屋の空気を少しずつ変えていく。
「治癒術師たちは傷や呪いには強い。でも、体調そのものの立て直しには手が回らなかった」
ルシアは無意識に、スープの器を見つめた。
「そんな時、交易でテレジアへ渡った魔獣たちだけが、帰ってからも妙に状態が安定していたの。なぜかを追っていくうちに、テレジア滞在中に与えられていた薬餌へたどり着いた」
薬餌。
ルシアが、誰にも見向きもされないと思っていたもの。
「試験的に取り寄せてみたら、長く苦しんでいた子たちの体調が持ち直し始めた。大量処分寸前だった個体群まで、ね」
大量処分。
その言葉に、ルシアの指先がわずかに震えた。
「だから私たちは、作り手本人を迎えたかったの」
「でも、私は……そんな、大したことは」
「少なくとも、この国ではそうだった」
マグダレナは、力強く言い切った。
「魔獣は私たちの生活になくてはならない存在であり、同じ仕事をする大事な友だ」
そう言って、部屋の中を一度見渡し、ルシアへ向き直る。
「だから騎士たちも飼育員たちも、大事な魔獣を救った貴方に敬意を込めて、“魔獣の聖女”と呼んでいるの」
魔獣の聖女。
その言葉は、聖眼を持たないルシアにはあまりにも遠かった。
母国で向けられていた欠陥聖女という蔑みと、あまりに正反対すぎて、すぐには受け止められない。
ルシアが何も言えずにいると、応接室の扉が軽くノックされた。
「入って」
マグダレナの声に続いて現れたのは、明るい金の髪を持つ青年だった。年の頃は二十代後半。
軍装に近い正装をきちんと着こなしているが、その立ち姿には宮廷人特有の硬さがない。
彼はルシアを認めると、穏やかに笑った。
「君がルシア殿か。私も一度会ってみたかった」
ルシアは思わず立ち上がりかけた。
マグダレナが手で制し、青年は苦笑する。
「そんなに構えなくていい。私はフランキス第一王子、アルベルトだ」
第一王子。
その肩書きの重さに、ルシアはかえって言葉を失った。
「殿下は、この施設の王家側の監督責任者でもあるの」
マグダレナが短く補足する。
「それに、私の婚約者よ。頼んでいないのに見に来たのは事実だけれど」
「手厳しいな、マグダレナ」
「事実だから」
アルベルトは困ったように笑った。
けれど、その目はすぐにルシアへ戻る。
「礼を言いたかったのは本当だ。君の薬餌で救われた魔獣がいる。加えて、基本的に魔獣以外には興味を示さないマグダレナが、珍しく君の話ばかりしていてね」
「殿下」
「少しばかり羨ましく思ったのも本当だ」
「その情報は不要です」
マグダレナが即座に切り捨てる。
アルベルトは小さく笑ったあと、表情を改めた。
その切り替えの速さに、軽い人ではないと分かる。
「……改めて礼を言わせてほしい、ルシア殿。君の薬餌で救われた命がある。この国の騎士も、民も、その恩を忘れてはいない」
ルシアは戸惑ったまま、深く頭を下げることもできずにいた。
嬉しい、とはまだ思えない。
むしろ現実味がなさすぎて、夢を見せられているような気さえした。
「ただ」
アルベルトは、そこで言葉を切った。
「問題はまだ終わっていない」
その一言で、部屋の空気が変わる。
「君の薬餌で持ち直した個体は確かにいた。だが、同じように対処しても改善しきれない不調が、今も各地で続いている」
マグダレナが引き継ぐように口を開いた。
「ここにいる子たちの中にも、そういう個体がいるわ。食欲も睡眠も戻らない。治癒術でも傷や呪いは診られるのに、どうしても立て直せない子が」
歓迎と礼だけでは終わらないのだと、そこでようやくルシアは知る。
自分に何ができるのかは、まだ分からない。
けれど、それは何もしない理由にはならなかった。
ここまで来たのだ。
求められたのなら、せめてできるだけのことはしたい。
その思いが形になるより先に、遠く施設の奥から低く重い唸り声が響いた。
金属の軋む音。
押し殺した悲鳴のような鳴き声。
室内の空気が、一気に張りつめる。
マグダレナが小さく息を吐いた。
「歓迎はここまでね」
その目は、試すようでいて、どこか期待を隠していなかった。
「実は、つい先日ここへ運び込まれた子がいるの。昨日からうちの研究員を総動員しているけれど、原因がまるで分からないわ」
アルベルトが低く付け足す。
「国境付近では、野生魔獣の動きも増えている。特に山岳地帯の群れが南へ押し出されているらしい」
「押し出されている?」
ルシアが思わず聞き返すと、アルベルトはわずかに目を伏せた。
「テレジア側の開拓政策が、森の奥まで進んでいる。棲み処を失った魔獣が、国境を越えて流れてきている可能性がある」
ルシアの胸が、ぎゅっと縮んだ。
テレジアでも、魔獣たちは疲れていた。
巡回も護衛も増えていた。
あれは、ただの人手不足ではなかったのかもしれない。
「だから迎撃部隊も伝令部隊も、出動が増えている」
アルベルトの声は静かだった。
「無理をさせている自覚はある。だが、止めれば人里に被害が出る」
それは、医療だけでは終わらない問題だった。
それでも、今は目の前の声が先だ。
ルシアは唸り声の方へ顔を向けた。
怒りではない。
威嚇でもない。
もっと鋭く、眠れず、逃げ場のない苦しみだ。
それを聞いたルシアの目は、普段の碧眼から、静かに金色へと変わる。
「……一度、その子を見せてもらってもいいですか」
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