第2話
厄介払いに、売られるのだと。
そう理解した途端、かえって頭の中は静かになった。
伯父ギルバートの執務室には、紙をめくる音ひとつない。窓の外では、聖女認定を祝う鐘が鳴っているはずだった。だが、この部屋だけは音が遠い。
ルシアは、自分の指先を見た。
朝から薬草を刻んでいたせいで、爪の端にかすかな緑が残っている。
聖女の証ではない。
貴族令嬢らしい宝石でもない。
自分に残っているのは、こういう匂いばかりだった。
「……私の薬餌が、フランキスに?」
ようやく出た声は、自分のものではないように聞こえた。
ギルバートは短く頷いた。
「正確には、お前が魔獣用に調整していた補助薬と薬餌だ。向こうは以前から継続的な輸入を求めていた」
ルシアには、すぐには呑み込めなかった。
薬餌。
そう呼んではいても、彼女にとっては大げさなものではない。
胃腸が弱った個体に、少しだけ煎じ薬を混ぜる。
肉食魔獣の回復食に、滋養の強い粉末を足す。
気が立って眠れていない個体に、香りの穏やかな薬草をほんの少し加える。
食べているものに、ほんの少し調味料を足すような感覚だった。
傷を塞ぐわけでもない。
呪いを祓うわけでもない。
せいぜい腹を壊しにくくするとか、食欲を落としにくくするとか、その程度。
宮廷では、そういう扱いだった。
人に使う薬こそが本物で、魔獣の餌に混ぜるようなものは気休めにもならない。
他の薬剤師たちは、半ば本気でそう考えていた。だからこそ、その仕事はいつもルシアのもとへ回された。
「……あれは、そんなに価値のあるものではありません」
思わずそう言うと、オスカーが薄く目を細めた。
「既に薬餌の調合法は発表されているでしょう。それでもなお欲しがるほど、貴方自身に価値があるとは思えませんけど」
その声音に、労わりはない。
「フランキスは魔獣の運用規模が大きい。些細な不調でも損失になる。だからこそ、貴方の作る薬餌のような地味なものにまで重要性を見いだしているのでしょう」
ルシアは黙った。
分からなかった。
本当に、分からなかった。
腹を壊しやすい個体には、冷やしすぎない。
肉ばかり食べて胃がもたれる個体には、消化を助ける草を混ぜる。
眠れていない時は、匂いの強すぎるものを避ける。
その程度のことだ。
しかも調合法の一部は、王宮の薬務記録にも、簡単な文献にも残してある。
ならばそれで十分ではないのか。わざわざ自分まで欲しがる意味が、どうしても分からない。
「私は……迎えられるのではなく、売られるのですね」
確認するように呟いた声に、誰もすぐには答えなかった。
沈黙が、答えだった。
ルシアは視線を落とさなかった。
ここで目を伏せたら、自分まで値札の付いた荷物のように思えてしまいそうだった。
ギルバートが告げる。
「私物はもうまとめさせてある。明日の朝、迎えが到着する。向こうでの住まいと職は用意され、お前の雇用契約は本日付で終了だ」
もうまとめさせてある。
その言葉に、ルシアはほんの一瞬だけ息を忘れた。
知らされる前から、片づけは始まっていたのだ。
「……そう、ですか」
かすれそうになる声を、なんとか整える。
婚約も。
職も。
居場所も。
すべて、彼女の知らないところで、静かに畳まれていた。
「承知しました」
それしか、言えなかった。
◇
執務室を出ると、廊下の空気は妙に明るかった。
遠くから、使用人たちの弾んだ声が聞こえる。
セシリアの聖女認定を祝う準備だろう。花を運ぶ者。銀器を磨く者。祝いの客を迎えるために走る者。
その華やかさの中で、ルシアだけが別の場所へ歩いているようだった。
部屋へ戻ると、私室はすでに半分ほど片づいていた。
衣装箪笥の扉が開け放たれ、棚の上の箱も下ろされている。使用人たちは必要なことだけを済ませたのか、今は誰もいない。
静かすぎる部屋だった。
まだ陽は高いのに、ここだけ日暮れのように見える。
自分の部屋だったはずなのに、もう誰かの手で“次に明け渡すための部屋”へ変えられ始めている。
ルシアはゆっくりと荷を確かめた。
記録帳。
配合を書き留めた手帳。
使い慣れた筆記具。
乾燥薬草を小分けにした包み。
着替えは最低限でいい。向こうへ行けば、今までと同じ暮らしではなくなるのだから。
棚の奥から古い木箱を下ろすと、中には試作に使った小瓶が並んでいた。
整腸用。
滋養補助。
鎮静補助。
どれも、たいしたものではない。
少なくともルシアは、そう思ってきた。
人を癒やす薬のように劇的な効果はない。セシリアの聖眼のように、誰の目にも奇跡だと分かるわけでもない。
それでも、魔獣が数日腹を壊さずにいられること。
長距離移動のあとで食を落とさないこと。
任務のあと、きちんと眠れること。
そういう小さなことの積み重ねが、明日の不調を遠ざけるのだと、ルシアは知っていた。
「……本当に、そんなものが欲しかったのかしら」
誰に向けたのでもない呟きは、静かな部屋に吸い込まれていった。
役に立ったのなら、嬉しいはずだった。
けれど、胸は少しも軽くならない。
その仕事が評価されたのは、彼女を手放す理由になった時が初めてだったからだ。
机の端には、朝のままの配合表が置かれていた。
肉食の戦闘魔獣用に油分を落とし、代わりに胃を荒らしにくい粉末薬草を少量加える。
長距離護衛に出る馬型魔獣には、移動前に腹を重くしすぎない補食を使う。
辺境巡回から戻った個体には、塩分と水分を戻しやすい煎じを薄く混ぜる。
細かい文字で、びっしりと書かれている。
こんなものを、そこまで。
そう思う一方で、胸のどこかがわずかに熱を持つ。
自分では価値がないと思っていたものを、遠い国は求めた。
その事実だけが、冷え切った心の底で小さな火種のように残った。
◇
日が傾く頃、ルシアは便箋を一枚取り出した。
セシリアには、会わないことに決めていた。
顔を見れば、きっと声が揺れる。
泣かせたくも、困らせたくもなかった。
書くことは多くない。
おめでとう。
体を大切に。
頑張りすぎないで。
それから――見ていてくれて、ありがとう。
何度も書き直し、最後には短い文だけが残った。
便箋を封じ、妹の名を書く。
それだけで、胸の奥が少し痛んだ。
夜が更けるまでに、荷はまとまった。
すべてを失った、とは思わないようにした。
そう思ってしまえば、たぶん足が止まる。
売られたのだとしても、うつむいて行っても仕方がない。
向こうでどんな環境が待っているのかは分からない。
お金を払ってまで自分を買い取ったのだ。きっと、並大抵の仕事ではないはずだった。
危険な場所かもしれない。
今よりずっと厳しい職場かもしれない。
それでも、自分にできることを探して進むしかない。
ルシアは昔から、そうやってここまで来たのだから。
その思いだけを胸の中で整えてから、ルシアは灯りを落とした。
◇
翌朝、迎えはまだ早い時間に来た。
灰色の外套を羽織った一団は、余計な挨拶をせず、必要なことだけを確かめた。フランキス王国の使者だと名乗ったが、礼儀はあっても愛想はない。
けれどその無骨さは、むしろ仕事として彼女を迎えに来たのだと分かりやすかった。
ルシアは誰にも見送られず、屋敷を出た。
振り返ったのは、門をくぐる前の一度だけだった。
朝霧の向こうにぼんやり浮かぶ屋敷は、幼い頃から知っているはずなのに、もうどこか他人の家のように見えた。
馬車は静かに揺れた。
窓の外を流れていく景色は、テレジア王国の見慣れた道のはずなのに、今日は妙によそよそしい。小さな村を抜け、街道沿いの森を過ぎ、遠くの塔が見えなくなるまで、ルシアは一度も口を開かなかった。
迎えの男たちも、必要以上の言葉をかけてこない。
それがありがたかった。
最初の休憩で馬車が止まった時、随行の男の一人が小さく頭を下げた。
「喉は渇いておりませんか。温かい湯も冷たい水も用意できます」
ルシアは少しだけ目を瞬いた。
「……大丈夫です」
「でしたら結構です。気分が悪くなった場合は、すぐにお申し付けください。休憩を延ばすことも可能です」
事務的で、丁寧だった。
それだけのことなのに、妙に戸惑った。
再び馬車が動き出してからしばらくして、今度は別の者が低い声で尋ねた。
「昼を少し過ぎます。食事をお持ちしますが、胃に負担の少ないものにいたしましょうか」
「……そこまでしていただかなくても」
「長旅で体調を崩されては困りますので」
きっぱりした返答だった。
ルシアはそれ以上何も言えず、用意された薄い粥と温かな茶を受け取った。
優しい、というより、壊れ物を扱うような丁寧さだった。
その夜、宿場町に差しかかったところで、先頭の騎手が馬車の脇へ寄った。
「このまま国境近くまで進むこともできますが、一泊なさいますか。部屋は既に押さえてあります」
「……私のために、ですか」
「はい。必要であれば、今夜は移動を切り上げます」
必要であれば。
まるで、ルシアの意思が優先されるかのような言い方だった。
そんなはずはないのに、とルシアは思う。
少なくない金を払って、自分を買い取ったのだ。
着く前に弱らせては困るのだろう。
そう考えれば、この丁寧さにも説明はついた。
「……では、お言葉に甘えます」
「承知しました」
短いやり取りだけで、また男は引き下がった。
宿では部屋も湯も整えられていた。夕食まで温かいものが出た。
それでも、ルシアの胸に残ったのは感謝より戸惑いだった。
売られた身に、どうしてここまで気を回すのだろう。
けれど考えてみれば、不思議でもない。
高く買った荷物を、道半ばで壊すわけにはいかないだけだ。
そう思えば、少しだけ息がつきやすかった。
翌朝、再び馬車が出る前にも、同じように体調を気づかう声がかかった。
そのたびに、ルシアは「大丈夫です」とだけ答えた。
その丁寧さを、信じることはまだできなかった。
ただ、それでも不快ではなかった。
昼近く、休憩のために止まった宿場で、ルシアはようやく小さく息を吐いた。
自分は本当に、国を出るのだ。
婚約を失った先に、家を失い、ついには故郷そのものまで遠ざかっていく。
胸が痛まないわけではなかった。
けれど、戻りたいと強く思えないことの方が、もっと痛かった。
◇
翌日の夕方、ようやく本邸へ戻ったセシリアは、真っ先にルシアの部屋へ向かった。
聖女認定の翌日も、挨拶や祈祷や顔見せが途切れることはなかった。祝いの言葉を受けるたび、胸のどこかに小さな引っかかりが残っていた。
まだ姉に何も言えていない。
せめて今日こそ、自分の口で伝えたかった。
認定されたこと。
怖かったこと。
それでも頑張れたのは、姉がいてくれたからだということ。
扉の前で、セシリアは一度だけ深呼吸した。
「お姉様?」
返事はない。
もう休んでいるのかと思い、そっと扉を押す。
軽い音を立てて開いた部屋の中は、きれいすぎるほど整っていた。
空気が、違う。
人が生活している部屋の匂いではなくなっている。
机の上に置かれた封書だけが、夕暮れの光の中で白く浮いていた。
セシリアは、その瞬間に悟った。
遅かったのだと。
震える指で封を取り上げる。
表には、見慣れた筆跡で、ただ一言。
――セシリアへ。
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