第1話
「本日をもって、オスカー・ヴァーダンド殿との婚約は解消される」
伯父ギルバートの声は、驚くほど平坦だった。
叱責でもない。
慰めでもない。
ただ、決定済みの書類を読み上げるような声。
ルシア・アージェントは、執務室の中央で静かに立っていた。
窓の外では、春の光が庭木を明るく照らしている。けれど室内の空気だけは、別の季節に取り残されたように冷えていた。重厚な机の向こうにギルバートが座り、その斜め後ろにはオスカーが立っている。
婚約者だった人。
いいえ、今まさに、元婚約者になった人。
オスカーは少しも動揺していなかった。公爵家の子息らしい整った身なり。乱れのない姿勢。感情を読み取らせない瞳。
その態度を見て、ルシアは理解した。
これは今、思いつきで告げられたことではない。
ずっと前から決まっていたのだ。
「……はい」
返事をした声は、自分でも意外なほど静かだった。
今日がセシリアの聖女認定の日であること。
こんな日に限って、宮廷の仕事を終えた直後に本邸へ呼び戻されたこと。
廊下で使用人たちが目を合わせようとしなかったこと。
すべて、今の言葉につながっていた。
だから、驚きは遅れてこなかった。
胸の奥に、ただ冷たいものが沈んでいくだけだった。
「本日の認定によって、セシリアは正式な聖女となる」
ギルバートは続けた。
「アージェント家は、代々聖女を輩出してきた家だ。公爵家との縁は今後も必要となる。だが、聖女となったのがセシリアである以上、婚約相手としてふさわしいのは、もはやお前ではない」
もはや。
その一言が、妙にはっきり耳に残った。
ルシアは、聖眼を持たなかった。
聖女の家に生まれながら、傷を癒やし、呪いを祓う銀の聖眼を持たなかった。だから幼い頃から、欠陥聖女と呼ばれてきた。
事故で両親を失い、伯父の家に引き取られてからは、迷惑をかけないよう必死に学んだ。聖女になれないなら、せめて役に立つ人間になろうと思った。
薬草の性質を覚え、調合を学び、狭き門をくぐって王室付薬剤師になった。
けれど、宮廷で与えられた仕事の多くは、人のための薬ではなかった。
魔獣の餌。
魔獣の腹具合。
魔獣舎の薬草。
騎士たちが乗る戦闘魔獣や移動用魔獣の、地味な補食と体調管理。
誰もやりたがらない仕事だった。
徹夜で調合した薬餌によって魔獣の体調が戻っても、記録にルシアの名が残ることはほとんどなかった。
「誰でもできる雑務」と呼ばれた仕事だけが、いつの間にか彼女の机に積まれていった。
それでも、ルシアは続けた。
このところ、テレジア王国では辺境の開拓政策が急がれていた。森を切り開き、街道を広げ、鉱山を増やす。その影響で棲み処を追われた野生魔獣が街道近くへ現れ、宮廷の魔獣たちは護衛や巡回に駆り出される回数が増えていた。
疲れやすくなった個体。
腹を壊す個体。
眠れず、気が立つ個体。
ルシアはそういう変化を、ひとつずつ記録してきた。
誰かが気づく前に、少しでも崩れを止めたかった。
それでも、聖女の価値には届かない。
その事実だけは、ルシア自身が誰よりよく知っていた。
「ルシア」
オスカーが口を開いた。
「これは家と国のための判断だ。君も理解してくれるだろう」
理解。
その言葉に、ルシアは心の中だけで小さく息を吐いた。
理解はできる。
セシリアが選ばれることも。
セシリアがこの国に必要な聖女であることも。
たぶん、誰よりルシア自身が知っている。
妹は、姉を踏みつけて聖女になったのではない。
セシリアは昔から、不器用なくらい真っ直ぐだった。薬草園で泥だらけになっているルシアを見つけては、こっそり手伝ってくれた。魔獣用の補食がうまくいった時には、自分のことのように喜んでくれた。
――お姉様は、ちゃんとすごいのよ。
幼いセシリアが、誰もいない廊下でそう言ってくれた日のことを、ルシアは今でも覚えている。
だから、責められない。
セシリアは奪ったのではない。
ただ、選ばれただけだ。
「……セシリアに」
ルシアは、喉の奥に引っかかるものを飲み込んだ。
「おめでとうございます、と。そう、お伝えください」
一瞬だけ、ギルバートの眉が動いた。
オスカーは何も言わなかった。
執務室に、短い沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、ギルバートだった。
「それから、もうひとつある」
もうひとつ。
婚約破棄だけでは終わらないのだと、その言葉で分かった。
ルシアは知らず、重ねた指先に力を込めていた。
「お前は、フランキス王国へ行くことが決まった」
意味を理解するまで、一拍かかった。
フランキス王国。
大陸中央に広がる大国。
魔獣と共に生き、魔獣によって国境を守る国。
他国からは、魔獣番の国とも呼ばれている。
どうして、その国の名が今ここで出るのか。
「……フランキスへ、ですか」
「そうだ」
ギルバートは書類へ視線を落とす。
「向こうは以前から、お前が調製していた魔獣用の薬餌と補助薬に関心を示していた。継続的な輸入の打診もあった」
ルシアは黙って聞いていた。
薬餌。
そう呼ぶほど、大げさなものではない。
胃腸の弱い個体に、少しだけ薬草を混ぜる。
肉食魔獣の回復食に、滋養の強い粉末を足す。
長距離移動の前後に、腹を壊しにくい補食を与える。
食べているものに、ほんの少し調味料を足すような感覚だった。
傷を塞ぐわけでもない。
呪いを祓うわけでもない。
誰の目にも奇跡だと分かるものではない。
「先方は、お前ごと引き取ることを望んでいる」
ギルバートの声は変わらない。
「すでに話はまとまっている。向こうでの住まいと職も用意される」
「私の意思は」
聞き返してから、ルシアはその問いが無意味だと悟った。
ギルバートは答えなかった。
オスカーが代わりに口を開く。
「悪い話ではないだろう。君の薬餌の調合法はすでに文献にも記録にも残っている。それでもなお欲しがるほど、フランキスは魔獣運用に困っているということだ」
その声音に、労わりはない。
ただ、損得を説明する冷たさだけがあった。
「君にとっても、役に立てる場所へ行けるのなら悪くないはずだ」
役に立てる場所。
その言葉が、不思議なほど遠く聞こえた。
もし本当にそうなら、少しは喜べたのかもしれない。
けれど、この場で交わされているのは雇用の相談ではない。
婚約を破棄したあと、不要になった娘を他国へ渡すための取り決めだ。
ルシアは、その時ようやく理解した。
自分は隣国へ迎えられるのではない。
家にも、婚約にも、宮廷にも残す価値のないものとして。
厄介払いに、売られるのだと。
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