第10話
――フランキス王国、王立魔獣医療・保護施設。
その日の午後、ルシアは飼料庫にいた。
机の上には、乾燥薬草、砕いた穀類、甘樹脂、塩分を含む鉱石粉、水に溶けやすい整腸薬が並んでいる。
白い迎撃ペガサス用。
灰色の伝令ペガサス、リューネ用。
輸送用ヒッポグリフ用。
同じ飛行魔獣でも、必要なものは違う。
ルシアは小さな匙で薬草を量りながら、記録板に数字を書き込んでいた。
「白灯草、二匙。月露草、半匙。甘樹脂は……少しだけ」
「少しだけ、という単位は正式記録に向きません」
隣でノーマンが即座に言った。
ルシアは手を止める。
「では、四分の一匙で」
「よろしいです。記録係が泣かずに済みます」
「ノーマン様は、記録係なのですか?」
「研究員です。ですが最近、紙に埋もれる係になりました」
ノーマンは真顔で言った。
「魔獣の命と引き換えなら、紙の山くらい受け入れます。ただし、誤字は許しません」
ルシアは少しだけ笑いそうになった。
その時、飼料庫の扉が勢いよく開いた。
「ルシア」
入ってきたのはマグダレナだった。
いつもの白衣。肩で切り揃えた金髪。
表情は落ち着いている。けれど、目の奥が少し鋭い。
何かあったのだと、ルシアはすぐに察した。
「はい」
「結論から言うわ。会議室へ来て。ヴァルミアから報告が届いた」
「ヴァルミア……」
聞き慣れない国名に、ルシアは瞬きをする。
ノーマンが記録板を抱え直した。
「同盟国ですね。南西の山岳国家。ワイバーン運用が多い」
「ノーマン、説明は歩きながら」
「はい。歩く資料係になります」
マグダレナはすでに廊下へ出ていた。
ルシアは慌てて手を拭き、記録板と筆を持って後を追った。
◇
会議室には、アルベルトがいた。
机の上には数通の封書と、広げられた地図。
フランキスの南西に、険しい山脈を抱く国が描かれている。
ヴァルミア王国。
ルシアは地図の上に並ぶ山の記号を見つめた。
フランキスとは違う。
平原より山が多い。
街道は谷間を縫うように伸び、国境付近には砦の印がいくつもある。
「来たね」
アルベルトが顔を上げた。
いつもの穏やかな声だったが、机の上の書類がただの挨拶で済まないことを示していた。
「ヴァルミアから救援要請に近い照会が届いた」
「救援要請、ですか」
「正確には、助言要請だ。けれど文面を読む限り、かなり切迫している」
アルベルトは一枚の報告書をルシアへ差し出した。
ルシアは受け取り、目を通す。
ワイバーン部隊。
飛行後の異常な疲労。
翼膜の裂傷。
食欲低下。
胸部筋の熱感。
治癒術による外傷処置後も再発。
数頭が飛行不能。
文字を追うほど、胸の奥が重くなった。
「ワイバーン……」
「見たことは?」
マグダレナが尋ねる。
「図鑑だけです」
ルシアは正直に答えた。
「ペガサスとは、体の作りがまるで違うはずです。翼も、食べ物も、休み方も」
「そうね」
マグダレナは頷く。
「だから、同じ処置をそのまま当てはめるのは危険よ」
「はい」
ルシアは報告書から目を離さなかった。
症状は似ているようで、違う。
拒食。
疲労。
翼の不調。
治癒術では根本改善しない。
言葉だけを見ると、フランキスのペガサス問題と重なる。
けれど、ワイバーンは馬型ではない。肉食で、鱗と革膜の翼を持つ飛行魔獣だ。体温の保ち方も、消化の速度も、翼を動かす筋肉も違うだろう。
「すぐに答えは出せません」
ルシアは言った。
「でしょうね」
マグダレナは即答した。
「答えが出ます、と言われたら逆に止めていたわ」
ノーマンが横で頷く。
「未知の魔獣に即答する薬師、怖いですからね。自信満々な人ほど檻の前で吹っ飛びます」
「経験が?」
「三年前、先輩が一人。今では立派な反面教師です」
「それは今話さなくていい」
マグダレナに切られ、ノーマンは口を閉じた。
アルベルトは小さく笑ったが、すぐに表情を戻した。
「ヴァルミア側は、フランキスで飛行魔獣の不調が改善し始めたと聞いたらしい。君の薬餌と観察方法について、情報提供を求めている」
「情報だけでは、足りないと思います」
ルシアは報告書を机に置いた。
「少なくとも、これだけでは判断できません。何を食べているのか。どれくらい飛んでいるのか。どんな場所で待機しているのか。怪我が再発するまでの流れも必要です」
「追加資料は請求してある」
アルベルトが別の紙を示す。
「飼料配合、任務記録、発症時期、治療内容、個体年齢、飛行不能になった前後の環境。揃うかどうかは分からないが」
「ありがとうございます」
ルシアは深く頭を下げた。
「それと、こちらから今すぐ伝えるべきことがあります」
「何かしら」
「重症個体の出撃停止です」
マグダレナの目が細くなる。
「続けて」
「翼膜の裂傷が再発しているなら、治癒術で傷を塞いでも、同じ条件で飛ばせばまた裂ける可能性があります。少なくとも、飛行後に翼を下げる子、胸部に熱を持つ子、食欲が落ちた子は、次の出撃から外した方がいいです」
アルベルトが難しい顔をした。
「ヴァルミアは山岳国家だ。ワイバーンなしでは届かない砦も多い」
「分かっています」
ルシアは頷いた。
「ですが、飛べるからといって飛ばせば、飛べる子が減ります」
その言葉に、会議室の空気が一瞬止まった。
それは、リューネの時にも言ったことだった。
飛べることと、飛ばせていいことは違う。
その言葉は、国を越えても変わらない。
「……なるほど」
アルベルトは静かに息を吐いた。
「同盟国への返答に入れよう。重症個体の出撃停止、飛行前後の観察記録、翼の状態、食事と水分、待機環境の記録」
「待機環境も、必ずお願いします」
「なぜ?」
「山岳地帯なら、冷えが関係するかもしれません」
ルシアは地図の山脈へ視線を落とした。
「ワイバーンが爬虫類に近い体質を持つなら、冷えた状態から急に飛ばされることで、翼や胸の筋肉に負担がかかるかもしれません。逆に熱がこもりすぎても悪化する可能性があります。まだ仮説ですが」
ノーマンが目を輝かせた。
「仮説、いいですね。記録が増えます」
「うれしそうに言わない」
マグダレナが言う。
「すみません。未知の症例は研究員の血が騒ぎます。でも魔獣が苦しんでいるので顔には出しません」
「出ているわ」
「反省します」
ルシアはそのやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力を抜いた。
怖い。
知らないことばかりだ。
でも、ここには分からないことを分からないままにしない人たちがいる。
それが心強かった。
◇
会議の後、ルシアは資料庫へ向かった。
マグダレナが言った通り、施設にはワイバーンに関する資料も保管されていた。
フランキスでは主力ではないが、山岳偵察用に少数のワイバーンを運用しているらしい。
棚から出された本は、どれも重かった。
『飛行魔獣の基礎構造』
『ワイバーンの飼育と馴致』
『山岳偵察個体における翼膜損傷記録』
『大型肉食魔獣の代謝と給餌』
ルシアは机に本を積み、一冊ずつ開いた。
知らない言葉ばかりだった。
翼膜。
胸筋。
日光浴。
低温時の動きの鈍さ。
食後の休息。
高タンパク肉餌。
飛行後の筋疲労。
ペガサスは、まだ馬を基礎に考えられる部分があった。
けれどワイバーンは違う。
違うなら、学ぶしかない。
ルシアは紙に項目を書き出していく。
食事。
体温。
翼の張り。
待機場所。
飛行前の動作。
飛行後の呼吸。
傷の再発位置。
書きながら、ふとテレジアのことが頭をよぎった。
セシリアは今、どうしているのだろう。
聖女として忙しくしているはずだ。
きっと、自分よりずっと多くの人に必要とされている。
けれど、もしテレジアでも魔獣の不調が起きていたら。
セシリアの銀の聖眼は、傷を癒やせる。
呪いを祓える。
でも、傷でも呪いでもないものには。
ルシアはそこで筆を止めた。
考えても仕方がない。
今、自分が見るべきものは目の前にある。
そう思った時、資料庫の扉が開いた。
「休憩」
マグダレナが湯気の立つ杯を持って立っていた。
「でも、まだ」
「休憩」
二度目は、命令に近かった。
ルシアはおとなしく筆を置いた。
マグダレナは杯を机に置き、積み上がった本を見る。
「放っておくと、本当に止まらないわね」
「すみません」
「謝るところじゃない。倒れられると困るだけ」
その言い方に、ルシアは少しだけ目を伏せた。
高く買った荷だからではない。
この人は、仕事仲間としてそう言ってくれている。
最近、そう思えるようになってきた。
「ヴァルミアの件、怖い?」
マグダレナが唐突に尋ねた。
ルシアは杯を両手で包み、少し考える。
「怖いです」
「そう」
「ペガサスの時も分からないことは多かったです。でも、ワイバーンはもっと分かりません。私が見ても、見間違えるかもしれません」
「でしょうね」
あっさり言われ、ルシアは思わず顔を上げた。
マグダレナは平然としている。
「だから一人で行かせるつもりはないわ。記録係も、飼育員も、必要なら研究員も連れていく。私も行く」
「マグダレナ様も?」
「当然でしょう。魔獣医療施設の長よ。問題が国境の向こうにあるなら、見に行く理由はある」
マグダレナは迷いなく言った。
「それに、あなたはまだこの国に来たばかり。いきなり他国の軍人相手に放り込むほど、私は雑じゃないわ」
その言葉に、ルシアは少しだけ笑いそうになった。
マグダレナは厳しい。
言葉も強い。
けれど、その厳しさはいつも現実に向いている。
人を追い詰めるためではなく、仕事を前に進めるための厳しさだった。
「ありがとうございます」
「礼は、ワイバーンを見てからでいいわ」
マグダレナはそう言って、一冊の本を指で叩いた。
「それ。古いけど、翼膜の炎症例が載っている。読むなら先に読みなさい」
「はい」
ルシアは本を引き寄せた。
知らないことが山ほどある。
でも、知らないなら学べばいい。
そう思えることが、以前より少しだけ嬉しかった。
◇
夕刻、ヴァルミアから追加の魔導便が届いた。
アルベルトの執務机に広げられた資料は、ところどころ乱れていた。急いで集めたのだろう。字も揃っておらず、現場の焦りが紙面に滲んでいる。
ルシアはその中から、一枚の飼料記録に目を留めた。
「……これ」
「何か気になる?」
アルベルトが尋ねる。
「ワイバーン用の高栄養肉餌に、乾燥させた刺激草が混ぜられています。飛行前の反応を高めるため、とあります」
マグダレナが眉をひそめる。
「ペガサスの飛翔用標準配合と似た考え方ね」
「はい。ただ、ワイバーンの場合は肉餌が中心です。消化に時間がかかるなら、飛行前に重い餌を与えている可能性があります」
「その上で、拒食と翼の痛みか」
アルベルトが書類を見下ろす。
「しかし翼の痛みと餌が、どう繋がる?」
「まだ分かりません」
ルシアは正直に答えた。
「でも、無理な飛行と食事の時間、体温管理が重なっている気がします。冷えた状態で飛ばされたのか、食後すぐに飛ばされたのか、飛行後に休めているのか。それを見ないと」
そこで、別の資料が目に入った。
飛行不能となった個体の記録。
発症前日、山岳地帯で長時間待機。
夜間気温低下。
翌朝、緊急出撃。
帰還後、右翼を下げて動かなくなった。
ルシアの指先が止まる。
「寒い中で待機して、翌朝すぐ飛んでいます」
「山岳地帯なら珍しくない」
アルベルトが言う。
「でも、体を温める時間は?」
その問いに、誰もすぐ答えなかった。
ルシアは資料を見つめたまま、胸の奥が静かに冷えていくのを感じた。
ペガサスとは違う。
でも、構造は似ている。
魔獣の体ではなく、任務の都合が先に立っている。
昔からそうしてきたから。
軍務上必要だから。
飛べるはずだから。
そうやって、苦しみが見えなくなっている。
アルベルトが静かに言った。
「行くしかないか」
マグダレナは短く頷く。
「ええ。資料だけでは足りない」
二人の視線がルシアへ向く。
ルシアは少しだけ喉を鳴らした。
怖い。
けれど、分からないからこそ見なければならない。
「……行きます」
その声は小さかったが、震えてはいなかった。
「ワイバーンを、直接見せてください」
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