表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄され売られた欠陥聖女は、隣の大国で『魔獣の聖女』と呼ばれることになった  作者: 一十一
第2章 国境の向こう

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/13

第11話

 ヴァルミア王国へ向かう馬車は、フランキスの街道を南西へ進んでいた。


 窓の外に広がる景色は、少しずつ変わっていく。

 王都近郊の整えられた道を抜けると、緩やかな丘陵が続き、やがて遠くに青灰色の山並みが見え始めた。


 あの山の向こうが、ヴァルミア。


 ワイバーンの国。


 ルシアは膝の上に開いた資料へ目を落とした。


 昨夜から何度も読み返した記録だ。


 ――山岳待機、七時間。

 ――夜間気温、著しく低下。

 ――翌朝、緊急出撃。

 ――帰還後、右翼を下げ、飛行不能。

 ――翼膜裂傷、治癒術にて閉鎖。

 ――三日後、再発。


 文字だけなら、ただの報告書だ。


 けれど今のルシアには、その裏にあるものが気になって仕方がなかった。


 冷えた岩場。

 湿った風。

 動けないまま待たされる体。

 重い肉餌。

 温まらない翼。

 それでも命令で空へ上がるワイバーン。


 まだ見てもいないのに、苦しみの輪郭だけが紙面の向こうで揺れている気がした。


「酔った?」


 向かい側からマグダレナが声をかける。


 白衣ではなく、今日は移動用の濃紺の外套を羽織っている。いつもの軍服めいた服装と相まって、医療施設長というより前線指揮官のようだった。


「いえ、大丈夫です」


「ならいいわ。顔が険しいから、資料に噛まれたのかと思った」


 隣に座っていたノーマンが、記録板を抱えたまま真顔で頷いた。


「資料は噛みます。特に急ぎで集められた資料は、誤字と抜けで精神をガブリと……あ、施設長の視線が痛いのでここまでにしておきます」


「賢明ね」


「生存判断です」


 ルシアは思わず目を瞬いた。


 そのやり取りを見ていたアルベルトが、低く笑う。


 今回はアルベルトも同行している。

 フランキス第一王子として、同盟国ヴァルミアとの調整役を担うためだという。


「緊張しすぎなくていい。ヴァルミア側も、こちらを責めるために呼んだわけではない」


「はい」


「ただし、かなり焦ってはいるだろうね。山岳国にとって、ワイバーンは空の足だ。飛べない個体が増えれば、砦も村も孤立する」


 ルシアは資料を閉じた。


「……ペガサスより、生活への影響が大きいのですか」


「地形によるわ」


 マグダレナが答える。


「フランキスではペガサスもヒッポグリフもドレイクも使う。でもヴァルミアは山と谷が多い。地上の道が塞がれば、ワイバーンで飛ぶしかない場所がある」


「だから、無理をさせてでも飛ばす」


「ええ」


 マグダレナは否定しなかった。


「そこが難しいところよ。魔獣を大切にしていないから酷使するんじゃない。大切で、必要で、信頼しているから、限界を見誤る」


 その言葉に、ルシアはリューネのことを思い出した。


 飛べる。

 だから飛ばす。

 飛んでくれる。

 だから、まだ大丈夫だと思ってしまう。


 信頼と酷使は、時々とても近い場所にある。


 ルシアは、膝の上の資料をそっと押さえた。


「……ワイバーンを、きちんと見られるでしょうか」


 小さく漏れた言葉に、馬車の中の空気が少し静かになった。


「正直でよろしい」


 マグダレナが言った。


「見られないなら、見られるところから始めればいい」


「でも」


「あなたの眼は便利だけれど、万能ではない。そんなことは最初から分かっているわ」


 マグダレナは、淡々と続ける。


「だから記録を読む。現場に聞く。触れる範囲を増やす。比べる。仮説を立てる。外れたら直す。医療はそういうものよ」


 その言葉は、厳しいのに優しかった。


 ルシアはゆっくり頷く。


「はい」


 ノーマンが小さく手を上げた。


「ちなみに、外れた仮説は恥ではありません。捨てない仮説が害です」


 マグダレナが横目で見る。


「たまに良いことを言うわね」


「たまにですか」


「今のところは」


「記録しておきます。施設長より、たまに良いことを言うと評価」


「評価書には書かないで」


 馬車の中に、小さな笑いが生まれた。


 ルシアは窓の外を見る。


 山が近づいている。


 怖さは消えない。

 けれど、一人ではない。


 そう思えるだけで、少しだけ呼吸が楽になった。


     ◇


 ヴァルミア国境の施設は、山肌を削るようにして建てられていた。


 灰色の石壁。

 急な斜面に沿って並ぶ厩舎。

 強い風を避けるための防風壁。

 空へ開いた広い発着場。


 フランキスの王立魔獣医療・保護施設が清潔で堅牢な実務の建物なら、こちらはもっと荒々しい。山と風と魔獣にそのまま向き合うための施設だった。


 馬車を降りた瞬間、冷たい風がルシアの頬を打った。


 春だというのに、山の空気は鋭い。


 遠くから、低い唸り声が聞こえた。


 ペガサスの声とは違う。


 喉の奥を岩で擦るような、重く乾いた音。

 それだけで、体の大きさと力が想像できた。


「ようこそ、フランキスの皆様」


 出迎えたのは、ヴァルミアの軍服を着た女性だった。

 短く切った赤茶色の髪。日に焼けた頬。背筋の伸びた立ち姿。


「ヴァルミア王国山岳飛行隊、隊長のイレーネ・カウフマンです」


 彼女はアルベルトに礼を取り、次いでマグダレナへ視線を移す。


「急な要請にもかかわらず、ご足労いただき感謝します」


「礼は後でいいわ」


 マグダレナは短く返した。


「結論から言って。重症個体は何頭?」


「飛行不能が三頭。飛行制限が七頭。軽症を含めると、症状のある個体は二十頭近くになります」


 ノーマンが小さく息を呑んだ。


「多いですね。紙が泣く量です」


「泣くのは後。今は数えなさい」


「はい。紙も私も耐えます」


 イレーネはルシアを見た。


「あなたが、魔獣の聖女と呼ばれている薬剤師ですか」


 その呼び名に、ルシアは肩を小さく揺らした。


「あの、私は聖女ではなく、薬剤師で」


「失礼しました。ですが、こちらではすでにその名で伝わっています」


 イレーネの表情は真剣だった。


 揶揄ではない。

 期待でもあるが、それ以上に切迫している。


「正直に申し上げます。私たちは困っています。傷は治る。だが戻る。食わせても戻らない。休ませても飛ばせば悪化する。現場ではもう、何を信じればいいのか分からなくなっている」


 その言葉に、ルシアの背筋が伸びた。


 何を信じればいいのか分からない。


 その不安は、ペガサスを前にしたフランキスの人々と同じだった。


「まず、見せてください」


 ルシアは言った。


 声は小さかったが、風に消えなかった。


「直接、ワイバーンを見せてください」


     ◇


 案内されたのは、発着場の奥にある大きな石造りの収容区画だった。


 中は冷えないよう工夫されているようだったが、それでもフランキスの隔離棟より空気が乾いて冷たい。壁には熱を保つ魔導石が埋め込まれ、天井近くには換気孔がある。


 そして、その中央に、ワイバーンがいた。


 ルシアは足を止めた。


 大きい。


 ペガサスの美しさとはまるで違う。


 黒緑色の鱗。

 長い尾。

 鋭い爪。

 革膜の翼は畳まれているが、それでも壁の一部を覆うほど広い。

 首を低くし、黄色い瞳でこちらを睨んでいる。


 肉食魔獣特有の匂いがした。


 血の匂いではない。

 獣の体温と、乾いた肉餌と、鱗にこもった熱の匂い。


 その迫力に、ルシアの指先が冷えた。


「この個体は?」


 マグダレナが尋ねる。


「名はグラウ。山岳偵察と警戒任務に使われていた主力個体です」


 イレーネが答える。


「三日前、帰還後に右翼を下げたまま動かなくなりました。翼膜裂傷は治癒済みですが、今も翼を広げたがりません。食欲も落ちています」


「治癒術後に再発した子?」


「はい。二度目です」


 ルシアはゆっくり一歩近づいた。


 ワイバーンの喉が低く鳴る。


 ペガサスの時とは違う。

 威嚇の圧が濃い。

 不用意に近づけば、本当に噛まれるだろう。


「止まって」


 マグダレナの声が飛んだ。


 ルシアはすぐ足を止める。


「そこからでいい。無理に近づかない」


「はい」


 ルシアは息を整えた。


 碧眼が、ゆっくり金色へ変わる。


 見えた。


 けれど。


 瞬間、情報の流れ方が違うことに気づいた。


 ペガサスは、流れるような線だった。

 体の奥を巡る熱と痛みが、比較的滑らかにつながって見えた。


 だがワイバーンは違う。


 鱗の下に熱が斑にこもっている。

 胸の奥に赤黒い重さ。

 翼の付け根から膜へ向かって、裂け目の記憶のような細い光。

 胃のあたりには鈍い停滞。


 見える。

 見えるのに、すぐには結びつかない。


 体の作りが違う。

 痛みの出方が違う。

 苦しみの言葉が、違う。


 ルシアは無意識に眉を寄せた。


 熱。

 冷え。

 重い餌。

 急な羽ばたき。

 岩場の冷たさ。

 夜明け前の鋭い風。

 翼を広げた時、胸の奥で何かが引き攣る感覚。


 断片は流れ込んでくる。


 けれど、ペガサスの時のように一本の線にならない。


「……分かる?」


 マグダレナが尋ねる。


 ルシアは、正直に首を振った。


「見えます。でも、まだ分かりません」


 イレーネの表情がかすかに曇る。


 だがルシアは続けた。


「ペガサスとは体の作りが違いすぎます。翼の痛みも、胃の重さも、体の熱も見えます。でも、どれが原因で、どれが結果なのか、まだ結べません」


 ノーマンが記録板を構える。


「見えるけど結べない。重要です。では、結ぶために何が必要ですか」


「記録です」


 ルシアは即答した。


「この子が何を食べたのか。いつ食べたのか。どこで待機していたのか。飛ぶ前に体を温めたのか。帰還後、どの姿勢で翼を下げたのか。裂けた場所が毎回同じかどうかも知りたいです」


 マグダレナの口元がわずかに上がる。


「よろしい。見えない部分を、記録で埋めるのね」


「はい」


 イレーネが少し驚いたようにルシアを見る。


「……すぐに治せるわけではないのですね」


「はい」


 ルシアははっきり答えた。


「すぐには治せません。私は、傷を塞ぐ力は持っていません。見えたものをもとに、どうすれば悪化を止められるか考えるだけです」


 期待を裏切ったかもしれない。


 そう思った。


 けれど、嘘をつく方が怖かった。


「ただ」


 ルシアはグラウを見た。


 ワイバーンは唸っている。

 けれど、その翼の奥にある痛みは本物だった。


「この子が怠けているわけでも、命令に逆らっているわけでもないことは分かります」


 イレーネの目が、わずかに見開かれた。


「この子は、飛びたくないんじゃありません」


 ルシアは静かに続けた。


「飛ぶと痛いんです。痛む理由を、まだ私が分かっていないだけです」


 収容区画に、重い沈黙が落ちた。


 グラウの喉が、低く鳴る。


 それは威嚇のようでいて、どこか疲れた音だった。


 イレーネはゆっくり息を吐いた。


「……必要な記録は、すべて出します」


「ありがとうございます」


「ただし、早くしてください」


 その声には、隊長としての焦りが滲んでいた。


「次の群れが、山を下り始めています。飛べる個体を失えば、村が孤立する」


 外から、風が石壁を叩く音がした。


 ルシアはグラウを見つめたまま、静かに頷いた。


「分かりました」


 まだ分からない。

 けれど、分からないからといって立ち止まるわけにはいかない。


 見えるだけでは足りない。


 だから、知るのだ。

 記録を集め、声を聞き、苦しみがどこから来るのかを、必ず結ぶ。


 ルシアは金色の瞳で、初めて見るワイバーンの痛みを見つめ続けた。

皆様、ここまで読んで頂き、ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
無理をしてでもやらなければならない時もある、「信頼と酷使」胸に刺さる言葉です。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ