第11話
ヴァルミア王国へ向かう馬車は、フランキスの街道を南西へ進んでいた。
窓の外に広がる景色は、少しずつ変わっていく。
王都近郊の整えられた道を抜けると、緩やかな丘陵が続き、やがて遠くに青灰色の山並みが見え始めた。
あの山の向こうが、ヴァルミア。
ワイバーンの国。
ルシアは膝の上に開いた資料へ目を落とした。
昨夜から何度も読み返した記録だ。
――山岳待機、七時間。
――夜間気温、著しく低下。
――翌朝、緊急出撃。
――帰還後、右翼を下げ、飛行不能。
――翼膜裂傷、治癒術にて閉鎖。
――三日後、再発。
文字だけなら、ただの報告書だ。
けれど今のルシアには、その裏にあるものが気になって仕方がなかった。
冷えた岩場。
湿った風。
動けないまま待たされる体。
重い肉餌。
温まらない翼。
それでも命令で空へ上がるワイバーン。
まだ見てもいないのに、苦しみの輪郭だけが紙面の向こうで揺れている気がした。
「酔った?」
向かい側からマグダレナが声をかける。
白衣ではなく、今日は移動用の濃紺の外套を羽織っている。いつもの軍服めいた服装と相まって、医療施設長というより前線指揮官のようだった。
「いえ、大丈夫です」
「ならいいわ。顔が険しいから、資料に噛まれたのかと思った」
隣に座っていたノーマンが、記録板を抱えたまま真顔で頷いた。
「資料は噛みます。特に急ぎで集められた資料は、誤字と抜けで精神をガブリと……あ、施設長の視線が痛いのでここまでにしておきます」
「賢明ね」
「生存判断です」
ルシアは思わず目を瞬いた。
そのやり取りを見ていたアルベルトが、低く笑う。
今回はアルベルトも同行している。
フランキス第一王子として、同盟国ヴァルミアとの調整役を担うためだという。
「緊張しすぎなくていい。ヴァルミア側も、こちらを責めるために呼んだわけではない」
「はい」
「ただし、かなり焦ってはいるだろうね。山岳国にとって、ワイバーンは空の足だ。飛べない個体が増えれば、砦も村も孤立する」
ルシアは資料を閉じた。
「……ペガサスより、生活への影響が大きいのですか」
「地形によるわ」
マグダレナが答える。
「フランキスではペガサスもヒッポグリフもドレイクも使う。でもヴァルミアは山と谷が多い。地上の道が塞がれば、ワイバーンで飛ぶしかない場所がある」
「だから、無理をさせてでも飛ばす」
「ええ」
マグダレナは否定しなかった。
「そこが難しいところよ。魔獣を大切にしていないから酷使するんじゃない。大切で、必要で、信頼しているから、限界を見誤る」
その言葉に、ルシアはリューネのことを思い出した。
飛べる。
だから飛ばす。
飛んでくれる。
だから、まだ大丈夫だと思ってしまう。
信頼と酷使は、時々とても近い場所にある。
ルシアは、膝の上の資料をそっと押さえた。
「……ワイバーンを、きちんと見られるでしょうか」
小さく漏れた言葉に、馬車の中の空気が少し静かになった。
「正直でよろしい」
マグダレナが言った。
「見られないなら、見られるところから始めればいい」
「でも」
「あなたの眼は便利だけれど、万能ではない。そんなことは最初から分かっているわ」
マグダレナは、淡々と続ける。
「だから記録を読む。現場に聞く。触れる範囲を増やす。比べる。仮説を立てる。外れたら直す。医療はそういうものよ」
その言葉は、厳しいのに優しかった。
ルシアはゆっくり頷く。
「はい」
ノーマンが小さく手を上げた。
「ちなみに、外れた仮説は恥ではありません。捨てない仮説が害です」
マグダレナが横目で見る。
「たまに良いことを言うわね」
「たまにですか」
「今のところは」
「記録しておきます。施設長より、たまに良いことを言うと評価」
「評価書には書かないで」
馬車の中に、小さな笑いが生まれた。
ルシアは窓の外を見る。
山が近づいている。
怖さは消えない。
けれど、一人ではない。
そう思えるだけで、少しだけ呼吸が楽になった。
◇
ヴァルミア国境の施設は、山肌を削るようにして建てられていた。
灰色の石壁。
急な斜面に沿って並ぶ厩舎。
強い風を避けるための防風壁。
空へ開いた広い発着場。
フランキスの王立魔獣医療・保護施設が清潔で堅牢な実務の建物なら、こちらはもっと荒々しい。山と風と魔獣にそのまま向き合うための施設だった。
馬車を降りた瞬間、冷たい風がルシアの頬を打った。
春だというのに、山の空気は鋭い。
遠くから、低い唸り声が聞こえた。
ペガサスの声とは違う。
喉の奥を岩で擦るような、重く乾いた音。
それだけで、体の大きさと力が想像できた。
「ようこそ、フランキスの皆様」
出迎えたのは、ヴァルミアの軍服を着た女性だった。
短く切った赤茶色の髪。日に焼けた頬。背筋の伸びた立ち姿。
「ヴァルミア王国山岳飛行隊、隊長のイレーネ・カウフマンです」
彼女はアルベルトに礼を取り、次いでマグダレナへ視線を移す。
「急な要請にもかかわらず、ご足労いただき感謝します」
「礼は後でいいわ」
マグダレナは短く返した。
「結論から言って。重症個体は何頭?」
「飛行不能が三頭。飛行制限が七頭。軽症を含めると、症状のある個体は二十頭近くになります」
ノーマンが小さく息を呑んだ。
「多いですね。紙が泣く量です」
「泣くのは後。今は数えなさい」
「はい。紙も私も耐えます」
イレーネはルシアを見た。
「あなたが、魔獣の聖女と呼ばれている薬剤師ですか」
その呼び名に、ルシアは肩を小さく揺らした。
「あの、私は聖女ではなく、薬剤師で」
「失礼しました。ですが、こちらではすでにその名で伝わっています」
イレーネの表情は真剣だった。
揶揄ではない。
期待でもあるが、それ以上に切迫している。
「正直に申し上げます。私たちは困っています。傷は治る。だが戻る。食わせても戻らない。休ませても飛ばせば悪化する。現場ではもう、何を信じればいいのか分からなくなっている」
その言葉に、ルシアの背筋が伸びた。
何を信じればいいのか分からない。
その不安は、ペガサスを前にしたフランキスの人々と同じだった。
「まず、見せてください」
ルシアは言った。
声は小さかったが、風に消えなかった。
「直接、ワイバーンを見せてください」
◇
案内されたのは、発着場の奥にある大きな石造りの収容区画だった。
中は冷えないよう工夫されているようだったが、それでもフランキスの隔離棟より空気が乾いて冷たい。壁には熱を保つ魔導石が埋め込まれ、天井近くには換気孔がある。
そして、その中央に、ワイバーンがいた。
ルシアは足を止めた。
大きい。
ペガサスの美しさとはまるで違う。
黒緑色の鱗。
長い尾。
鋭い爪。
革膜の翼は畳まれているが、それでも壁の一部を覆うほど広い。
首を低くし、黄色い瞳でこちらを睨んでいる。
肉食魔獣特有の匂いがした。
血の匂いではない。
獣の体温と、乾いた肉餌と、鱗にこもった熱の匂い。
その迫力に、ルシアの指先が冷えた。
「この個体は?」
マグダレナが尋ねる。
「名はグラウ。山岳偵察と警戒任務に使われていた主力個体です」
イレーネが答える。
「三日前、帰還後に右翼を下げたまま動かなくなりました。翼膜裂傷は治癒済みですが、今も翼を広げたがりません。食欲も落ちています」
「治癒術後に再発した子?」
「はい。二度目です」
ルシアはゆっくり一歩近づいた。
ワイバーンの喉が低く鳴る。
ペガサスの時とは違う。
威嚇の圧が濃い。
不用意に近づけば、本当に噛まれるだろう。
「止まって」
マグダレナの声が飛んだ。
ルシアはすぐ足を止める。
「そこからでいい。無理に近づかない」
「はい」
ルシアは息を整えた。
碧眼が、ゆっくり金色へ変わる。
見えた。
けれど。
瞬間、情報の流れ方が違うことに気づいた。
ペガサスは、流れるような線だった。
体の奥を巡る熱と痛みが、比較的滑らかにつながって見えた。
だがワイバーンは違う。
鱗の下に熱が斑にこもっている。
胸の奥に赤黒い重さ。
翼の付け根から膜へ向かって、裂け目の記憶のような細い光。
胃のあたりには鈍い停滞。
見える。
見えるのに、すぐには結びつかない。
体の作りが違う。
痛みの出方が違う。
苦しみの言葉が、違う。
ルシアは無意識に眉を寄せた。
熱。
冷え。
重い餌。
急な羽ばたき。
岩場の冷たさ。
夜明け前の鋭い風。
翼を広げた時、胸の奥で何かが引き攣る感覚。
断片は流れ込んでくる。
けれど、ペガサスの時のように一本の線にならない。
「……分かる?」
マグダレナが尋ねる。
ルシアは、正直に首を振った。
「見えます。でも、まだ分かりません」
イレーネの表情がかすかに曇る。
だがルシアは続けた。
「ペガサスとは体の作りが違いすぎます。翼の痛みも、胃の重さも、体の熱も見えます。でも、どれが原因で、どれが結果なのか、まだ結べません」
ノーマンが記録板を構える。
「見えるけど結べない。重要です。では、結ぶために何が必要ですか」
「記録です」
ルシアは即答した。
「この子が何を食べたのか。いつ食べたのか。どこで待機していたのか。飛ぶ前に体を温めたのか。帰還後、どの姿勢で翼を下げたのか。裂けた場所が毎回同じかどうかも知りたいです」
マグダレナの口元がわずかに上がる。
「よろしい。見えない部分を、記録で埋めるのね」
「はい」
イレーネが少し驚いたようにルシアを見る。
「……すぐに治せるわけではないのですね」
「はい」
ルシアははっきり答えた。
「すぐには治せません。私は、傷を塞ぐ力は持っていません。見えたものをもとに、どうすれば悪化を止められるか考えるだけです」
期待を裏切ったかもしれない。
そう思った。
けれど、嘘をつく方が怖かった。
「ただ」
ルシアはグラウを見た。
ワイバーンは唸っている。
けれど、その翼の奥にある痛みは本物だった。
「この子が怠けているわけでも、命令に逆らっているわけでもないことは分かります」
イレーネの目が、わずかに見開かれた。
「この子は、飛びたくないんじゃありません」
ルシアは静かに続けた。
「飛ぶと痛いんです。痛む理由を、まだ私が分かっていないだけです」
収容区画に、重い沈黙が落ちた。
グラウの喉が、低く鳴る。
それは威嚇のようでいて、どこか疲れた音だった。
イレーネはゆっくり息を吐いた。
「……必要な記録は、すべて出します」
「ありがとうございます」
「ただし、早くしてください」
その声には、隊長としての焦りが滲んでいた。
「次の群れが、山を下り始めています。飛べる個体を失えば、村が孤立する」
外から、風が石壁を叩く音がした。
ルシアはグラウを見つめたまま、静かに頷いた。
「分かりました」
まだ分からない。
けれど、分からないからといって立ち止まるわけにはいかない。
見えるだけでは足りない。
だから、知るのだ。
記録を集め、声を聞き、苦しみがどこから来るのかを、必ず結ぶ。
ルシアは金色の瞳で、初めて見るワイバーンの痛みを見つめ続けた。
皆様、ここまで読んで頂き、ありがとうございます。




