第12話
――テレジア王国、王城。
セシリアは、薬務室の机に広げられた記録を見つめていた。
ルシアが残していった調合記録。
新しく薬剤師たちが作った補食の配合表。
そして、ここ数日の移動用魔獣の体調記録。
並べれば、違いははっきりしていた。
同じ材料。
同じ分量。
同じ形。
けれど、結果が違う。
ルシアの補食を食べていた時、長距離移動後の魔獣たちは翌朝には食欲を戻していた。
水も飲み、腹を壊す個体も少なかった。
だが、今は違う。
食べる。
歩く。
けれど、戻りが遅い。
目に見える傷はない。
呪いもない。
瘴気もない。
それでも、確かに弱っている。
セシリアは懐から、ルシアの手紙を取り出した。
短い手紙。
何度も読み返したせいで、紙の折り目は柔らかくなっている。
指でなぞると、姉の筆跡が少しだけ滲んで見えた。
おめでとう。
体を大切に。
頑張りすぎないで。
たったそれだけの言葉なのに、読むたびに胸が詰まる。
姉は、自分が売られると知っても、妹を責める言葉を残さなかった。
だからこそ、セシリアはその優しさが痛かった。
「……お姉様は、何を見ていたの」
小さく呟く。
机の端には、古い記録帳が置かれている。
ルシアの筆跡だった。
――湿気の多い日は、乾燥薬草を半量に。
――胃の弱い個体には蜂蜜を足さない。
――長距離移動後、すぐに濃い補食を与えないこと。まず水。
――よく食べる個体ほど、食後の様子を見る。食欲は健康の証とは限らない。
細かい。
あまりに細かい。
けれど、その細かさのひとつひとつが、今のセシリアには痛いほど分かった。
調合法だけではない。
姉は、魔獣を見ていた。
食べ方を見て、水の飲み方を見て、眠る前の姿勢まで見ていた。
だから効いていたのだ。
薬が特別だったからではない。
その子に合わせて、薬を変えていたから。
部屋の扉が開き、教会騎士が入ってきた。
セシリアの護衛を務める青年騎士だった。名はレオン。あの日、ルシアを欠陥聖女と呼んでしまった騎士でもある。
今の彼は、以前よりずっと慎重な顔をしていた。
「セシリア様。厩舎の子ですが、先ほどまた食べ残しました」
「水は?」
「飲みます。ですが、飲んだあとに首を下げます」
「補食は」
「半分ほどです」
セシリアは目を伏せた。
ルシアなら、きっとその動作を見逃さなかった。
食べ残した量だけでなく、なぜ食べ残したのかを考えただろう。
「聖眼で診ます」
「はい」
◇
厩舎に入ると、栗色の馬型魔獣が静かに立っていた。
あの日、セシリアを乗せて王都を駆けた子だ。
今も歩ける。
倒れているわけではない。
けれど、首は低く、耳の動きも鈍い。
セシリアはそっと額に触れた。
銀の聖眼が光る。
傷が見える。
小さな擦過傷。脚の奥に残った軽い炎症。
長距離移動で生じた筋のこわばり。
それらは、癒せる。
セシリアの瞳から、銀の光が柔らかく広がった。
魔獣の脚に残った炎症が引き、擦り傷がふさがっていく。
馬型魔獣は、少しだけ目を細めた。
楽になったのだろう。
けれど、しばらくすると、また首を下げた。
深いところにある重さは、消えていない。
セシリアは唇を噛んだ。
「……違う」
レオンが隣で聞き返す。
「違う、とは?」
「この子が弱っている理由は、傷ではありません」
「ですが、今、癒やされたのでは」
「癒やせるところは癒やしました。でも、そこが原因ではありません」
セシリアは手を離し、魔獣の横腹へ視線を落とした。
銀の聖眼には、そこは何も映らない。
それが悔しかった。
自分の目は、誰かを救える。
それは間違いない。
けれど、壊れる前の声は拾えない。
ルシアなら、きっと見ていた。
この子が水を飲む時、なぜ鼻先を離すのか。
補食を食べたあと、なぜ首を下げるのか。
長く歩いた翌日、なぜ食べたがらないのか。
そこに、姉の目があった。
「レオン」
「はい」
「この子だけではありませんね」
レオンは一瞬だけ黙った。
「……はい。神殿騎士団の移動用魔獣にも、似た症状が出ています。軽いものですが」
「王城の護衛魔獣は?」
「そちらも、数頭。腹を壊した個体がいると」
「宮廷では、何と言っていますか」
「疲労だろう、と」
セシリアは静かに息を吸った。
疲労。
便利な言葉だ。
けれど、その疲労がなぜ抜けないのかを、誰も見ていない。
「お父様に会います」
「今からですか」
「今からです」
セシリアは厩舎の魔獣をもう一度撫でた。
「このままでは、きっと増えます」
◇
ギルバートの執務室には、オスカーもいた。
セシリアが入ると、二人は少しだけ驚いた顔をした。
無理もない。セシリアが予定外に押しかけることなど、これまでほとんどなかったからだ。
「セシリア。何事だ」
ギルバートが眉をひそめる。
「魔獣の不調について、お話があります」
「またその話か」
オスカーが小さく息を吐いた。
「聖眼で診たのだろう? 傷や呪いがないのなら、大事ではない」
「傷や呪いがないからこそ、大事なのです」
セシリアは机の前へ進み、持ってきた記録を置いた。
「移動用魔獣、神殿騎士団の魔獣、王城の護衛魔獣。軽いものを含めれば、不調が増えています」
ギルバートは記録に目を落としたが、表情は変えなかった。
「疲労だろう。近頃は辺境政策で移動も多い」
「その疲労が抜けていません」
「休ませればいい」
「休ませても戻りが遅いのです」
セシリアの声は、思ったより落ち着いていた。
怒りではない。
焦りでもない。
ただ、見えてしまったものを見ないふりができなかった。
「お姉様がいなくなってから、補食の在庫が尽きました。今は調合法をもとに別の薬剤師が作っています。でも、以前ほど効いていません」
オスカーはわずかに目を細めた。
「調合法は残っているはずだ」
「はい。残っています」
「なら問題ない。ルシアでなければ作れないものではない」
「違います」
セシリアは即座に言った。
室内の空気が、ぴんと張る。
「お姉様がしていたのは、薬を作ることだけではありません」
「セシリア」
ギルバートの声が低くなる。
「ルシアはもうこの家の者ではない。いつまでも姉にこだわるな」
「こだわっているのではありません」
セシリアは、まっすぐ伯父を見た。
「必要だから言っているのです」
ギルバートの目が鋭くなる。
以前のセシリアなら、それだけで言葉を飲み込んでいたかもしれない。
けれど今は違った。
厩舎で首を下げていた魔獣の姿が、胸に残っている。
銀の聖眼で癒せなかった、あの重さが。
「お姉様は、壊れる前の変化を見ていました。薬草の乾き方も、食べた後の様子も、水を飲む量も、眠り方も。一頭ずつ見て、少しずつ変えていたのです」
オスカーが冷ややかに言う。
「それは、ただの細かい雑務だろう」
「その雑務で、この国の魔獣は動いていたのです」
言った瞬間、オスカーの表情が硬くなった。
セシリアは続ける。
「私の聖眼は、傷を癒やせます。呪いも祓えます。でも、傷でも呪いでもない苦しみには届きません」
その事実を認めるのは、苦しかった。
けれど、言わなければならない。
「お姉様の目は、それを見ていました」
「ルシアは聖眼を持たない欠陥だ」
ギルバートが低く言った。
その言葉に、セシリアの銀の瞳が揺れた。
だが、今度は泣かなかった。
「欠けていたのは、お姉様ではありません」
声は静かだった。
「お姉様を売ったのではありません」
ギルバートとオスカーが、同時にセシリアを見る。
「この国は、自分たちの目を売ったのです」
執務室が静まり返った。
窓の外で、遠く鐘が鳴る。
王都の夕刻を告げる鐘。
その音だけが、妙にはっきり聞こえた。
ギルバートの顔に、怒りが浮かんだ。
「セシリア。言葉を慎め」
「慎みません」
自分でも驚くほど、はっきりと言えた。
「私は聖女です。ならば、見えている苦しみから目を逸らしてはいけないはずです」
「見えているのか?」
オスカーが鋭く尋ねた。
「君の聖眼に、その不調が見えているのか」
セシリアは一瞬、言葉に詰まった。
見えていない。
聖眼には映らない。
だからこそ、苦しい。
けれど、だから終わりではない。
「見えていません」
セシリアは正直に答えた。
「でも、分かります。見えていない場所で、何かが崩れています」
オスカーは冷たく言った。
「それは直感だ。国の判断に使えるものではない」
「では記録を取ります」
セシリアは即座に返した。
「移動用魔獣、護衛魔獣、神殿騎士団の魔獣。食事、水分、移動距離、睡眠、補食の種類。すべて記録します」
「誰がやる」
「私が始めます」
ギルバートが呆れたように息を吐いた。
「聖女が魔獣の餌の記録を取るというのか」
「必要なら」
セシリアは答えた。
「お姉様は、そうしていました」
その一言に、ギルバートは黙った。
オスカーは苦々しげに視線を逸らす。
セシリアは机の上の記録を集め直した。
「お父様。お姉様は、どこにいますか」
ギルバートは答えない。
「教えてください」
「お前が知る必要はない」
「あります」
セシリアは言い切った。
「私は、お姉様の仕事を知らなければなりません。この国の魔獣を守るために」
ギルバートの沈黙が、答えを拒んでいた。
けれど、セシリアはもう諦めなかった。
知らされないなら、探す。
父が教えないなら、記録から辿る。
オスカーが関わっているなら、ヴァーダンド家の取引記録を調べる。
姉が残したものは、まだこの国にある。
それを見れば、きっと道はある。
◇
執務室を出た時、レオンが廊下で待っていた。
彼はセシリアの顔を見るなり、少しだけ姿勢を正した。
「ご無事ですか」
「ええ」
「……強く言われましたか」
「私も、強く言いました」
レオンは少し驚いた顔をした。
セシリアは歩き出す。
「レオン。神殿騎士団にお願いがあります」
「何でしょう」
「移動用魔獣の記録を集めてください。食事、水、水を飲む前の様子、補食を食べた後の反応、眠れたかどうか」
「そこまで細かく?」
「はい」
セシリアは立ち止まり、厩舎の方を見る。
「私は、まだお姉様のようには見えません」
銀の聖眼には、傷と呪いしか映らない。
「でも、記録なら集められます。見えないものを、見つけるために」
レオンはしばらく黙っていた。
やがて、深く頭を下げる。
「承知しました。騎士団に伝えます」
「ありがとうございます」
「セシリア様」
「はい」
レオンは少し迷ったあと、口を開いた。
「あの日、私はルシア様を欠陥聖女と呼びました」
セシリアは彼を見る。
「撤回します」
レオンはまっすぐに言った。
「私は、何も知らずに言いました」
その言葉に、セシリアの胸がわずかに和らいだ。
「……ありがとうございます」
廊下の窓から、夕暮れの光が差し込んでいる。
その光の中で、セシリアは手にした記録帳を強く抱えた。
姉が見ていたものは、まだ見えない。
けれど、見えないからといって、諦めてはいけない。
自分は銀の聖眼を持つ聖女だ。
ならば、傷を癒やすだけではなく。
傷つく前に救おうとした姉の仕事も、知らなければならない。
セシリアは顔を上げた。
まずは、記録から始める。
お姉様が、そうしていたように。
皆様、ここまで読んで頂き、ありがとうございます。




