第13話
ヴァルミアの記録室は、石の匂いがした。
フランキスの記録室にあった乾いた紙と革表紙の匂いとは違う。ここでは、壁そのものが山の一部のようで、冷たい岩の気配が書類の上にまで染み込んでいる。
机の上には、グラウの記録が積まれていた。
給餌記録。
飛行記録。
待機場所。
出撃時刻。
治癒術師の診断書。
翼膜裂傷の処置記録。
ルシアは一枚ずつ読み、別紙に書き出していく。
発症前日、山岳待機。
待機時間、七時間。
夜間、冷え込み強。
翌朝、緊急出撃。
出撃前、肉餌を通常量摂取。
帰還後、右翼を下げる。
翼膜裂傷。
治癒術後、三日で再発。
同じ文字が、別の個体の記録にもあった。
長時間待機。
冷え込み。
緊急出撃。
食後の飛行。
翼膜裂傷。
再発。
「……繰り返しています」
ルシアは呟いた。
マグダレナが向かい側で書類をめくる。
「ええ。違う個体なのに、似た流れね」
「傷の位置も近いです。右翼の付け根から翼膜の外側にかけて。完全に同じではありませんが、負担のかかる場所が偏っています」
ノーマンが記録板へ走り書きする。
「冷え、食後、急発進、右翼寄り。嫌な並びですね」
「嫌な並び?」
「原因が一個では済まない時の顔をしています」
ルシアは紙面を見つめたまま、小さく頷いた。
ワイバーンはペガサスとは違う。
ペガサスの問題は、胃腸の痛みと不眠、そして過密運用が中心だった。
けれどワイバーンは、もっと複雑に絡んでいる。
冷えた山岳地帯で体が硬くなる。
その状態で重い肉餌を消化しきれないまま飛ぶ。
急に翼を広げ、強い風を受ける。
温まっていない胸筋と翼膜に負担が集中する。
裂けた傷は聖眼や治癒術で塞げる。
けれど同じ条件でまた飛べば、また裂ける。
たぶん、そういうことだ。
けれど、まだ断定するには足りない。
「グラウを、もう一度見たいです」
ルシアは顔を上げた。
「今度は翼を広げた時の様子と、食後の反応を見たいです。無理に飛ばす必要はありません。立ったままでいいので」
イレーネ隊長はすぐに頷いた。
「手配します。ただし、グラウは今かなり神経が立っています。近づきすぎないように」
「はい」
マグダレナが短く言う。
「近づきすぎたら私が止めるわ」
ノーマンが真顔で補足した。
「施設長は止めます。物理的に。私は過去に襟で人生を一度引き戻されました」
「必要だったからよ」
「はい。今も首が覚えています」
ルシアは少しだけ目を瞬いたあと、記録を抱えて立ち上がった。
◇
グラウは、昨日よりもさらに機嫌が悪そうに見えた。
低い唸り声を漏らしながら、石床に爪を立てている。
黒緑色の鱗の下で、胸のあたりがわずかに上下していた。息が荒い。
近くの飼育員が、肉餌の入った桶を持ってくる。
生肉と薬草を混ぜた餌だろう。
鉄に似た匂いと、乾いた香草の刺激が、冷たい空気の中で妙にはっきり立ち上っていた。
グラウは鼻先を近づけた。
食べたいという反応はある。
だが、二度ほど匂いを嗅いだあと、首を横へ逸らした。
「昨日から、食べが悪いです」
イレーネが言った。
「ただ、完全に拒むわけではありません。少しは食べる。だから現場では、翼の痛みのせいで食が落ちているのだろうと見ていました」
ルシアは金の目でグラウを見た。
肉餌の匂いに反応して、胃のあたりに鈍い重さが浮かぶ。
空腹ではある。
けれど、食べると体が重くなることを、体が覚えている。
胸の奥には熱。
翼の付け根には、赤黒い硬さ。
翼膜の外側には、治ったはずの裂け目の痕が細い光となって残っている。
「食べたいけれど、食べた後に飛ぶのが苦しいんだと思います」
「食べた後に?」
「はい。肉餌は重いです。消化にも時間がかかるはずです。その状態で、冷えた体のまま急に飛べば、胸と翼に負担がかかります」
イレーネの表情が険しくなる。
「だが、飛ぶ前に食べさせないと力が出ない」
「完全に抜く必要はありません」
ルシアは首を振った。
「ただ、量と時間を変える必要があります。出撃前に重い肉餌をまとめて食べさせるのではなく、前日の回復食と、出撃前の軽い補助に分ける。あと、飛ぶ前に体を温める時間が必要です」
「温める?」
「はい。翼を広げて、胸と付け根に血を巡らせる時間です。冷えた革を急に引っ張れば裂けやすいように、体も同じではないかと」
ノーマンが記録板に勢いよく書き込んだ。
「冷えた革理論。分かりやすいです」
「正式記録には書かないでください」
「分かっています。心の見出しにします」
マグダレナが視線だけで刺した。
「それも後で捨てなさい」
「はい。心のゴミ箱へ」
グラウが、また低く喉を鳴らした。
その声に混じる痛みを、ルシアは見逃せなかった。
怒っている。
確かに怒っている。
けれど、それは人間への反抗ではない。
体が思うように動かないことへの苛立ち。
飛べるはずなのに、翼を広げると痛む恐怖。
そして、また飛ばされるのではないかという警戒。
「グラウは、怠けていません」
ルシアは静かに言った。
イレーネがわずかに息を呑む。
「私たちは、誰も怠けているとは」
「はい。分かっています。でも、この子自身が、そう思われることを怖がっているように見えます」
イレーネは言葉を失った。
ワイバーンの黄色い瞳が、ぎらりとルシアを見る。
ルシアはそれ以上近づかなかった。
ただ、少しだけ頭を下げる。
「大丈夫。まだ飛ばしません」
言葉が通じるかは分からない。
けれど、声の調子は伝わるかもしれない。
グラウの唸りが、ほんのわずかに低くなった。
その時だった。
外で警鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
石壁の向こうで、慌ただしい足音が走る。
イレーネの顔つきが変わった。
「報告!」
扉が開き、若い兵士が駆け込んでくる。
「国境東側の救護拠点より急報! 野生魔獣の群れと接触、負傷者多数! ワイバーン一頭、翼膜裂傷。テレジア側の救護隊も到着しています!」
テレジア。
その国名に、ルシアの胸が跳ねた。
アルベルトが即座に立ち上がる。
「場所は?」
「三国境に近い谷間の拠点です。ヴァルミア、フランキス、テレジアの境界付近です」
マグダレナが外套を掴む。
「行くわよ」
「グラウは?」
「今飛ばさない。記録と処置案は後で続ける。まず急患」
マグダレナの判断は速かった。
ノーマンが薬箱を抱える。
「急患用、胃腸用、翼膜用、全部持ちます。私の腰は本日をもって殉職します」
「腰の弔辞は後で読むわ。走りなさい」
「はい。腰よ、しばし待て」
その言葉に、場違いなほど短い笑いが漏れた。
けれど、すぐに誰もが走り出す。
ルシアも記録板を抱え直した。
聖女。
テレジア側の救護隊。
国境の負傷者。
もし、そこにいるのが。
考えるより先に、足が動いた。
◇
救護拠点は、谷間にあった。
岩壁に囲まれた広場に、簡易天幕がいくつも張られている。
負傷した兵士。鱗に傷を負った小型魔獣。翼を押さえてうずくまるワイバーン。人と魔獣の声が混じり、空気は緊張と薬草の匂いで満ちていた。
風は冷たいのに、広場の中だけは妙に熱気がある。
血の匂い。
汗の匂い。
裂けた革膜に塗られた薬の苦い匂い。
焦げたような魔導灯の匂い。
そのすべてが、ルシアの肺へ一気に入ってきた。
馬車を降りた瞬間、銀色の光が視界の端で瞬いた。
天幕の一つ。
白い聖女の外套。
銀に輝く瞳。
負傷兵の腕に手を添え、傷を塞いでいる少女。
セシリアだった。
ルシアは息を忘れた。
セシリアもまた、こちらに気づいた。
銀の光が、わずかに揺れる。
「……お姉様」
その声は、遠くの水音のように聞こえた。
言いたいことは、きっと山ほどあった。
どうして行ってしまったのか。
なぜ教えてくれなかったのか。
ごめんなさい。
会いたかった。
無事でよかった。
たぶん、二人とも同じくらい言葉を持っていた。
けれど、そのどれも口にする前に、天幕の奥から怒号が飛んだ。
「ワイバーンが暴れます!」
視線が一斉にそちらへ向く。
岩陰に伏せられた若いワイバーンが、片翼を半ば広げたまま暴れていた。翼膜が大きく裂け、血が滲んでいる。治癒術師が近づこうとしているが、痛みで我を失っているのか、尾を振り回して誰も近づけない。
ルシアの目が、金色に変わった。
裂けた翼膜。
熱を持った胸。
冷えた体。
恐怖。
そして、痛みの奥にある筋の引き攣れ。
このまま傷だけ塞いでも、また裂ける。
でも、今はまず血を止めなければいけない。
ルシアはセシリアを見た。
胸の奥が震える。
それでも、声は出た。
「セシリア」
「はい」
妹は、泣きそうな顔で、けれど聖女の顔で返事をした。
「傷を塞げますか」
「できます」
セシリアの銀の瞳が、強く光る。
ルシアは若いワイバーンへ視線を戻した。
「なら、私が痛みの根を見ます。塞いだあと、また裂けないように」
セシリアは一瞬だけ目を見開いた。
そして、しっかり頷いた。
「はい、お姉様」
銀の光と、金の光が、同じ天幕の下で並んだ。
皆様、ここまで読んで頂き、ありがとうございます。




