第14話
若いワイバーンは、岩陰の広場で暴れていた。
片翼を半ば広げたまま、長い尾を振り回している。翼膜は大きく裂け、薄い皮の端から血が滲んでいた。痛みで我を失っているのか、近づこうとした治癒術師が一歩踏み込むたび、鋭い牙を剥いて威嚇する。
尾が岩に叩きつけられた。
乾いた音が谷間に響き、砕けた石片が足元を跳ねる。
周囲の兵士たちが反射的に後ずさった。
セシリアはその場へ駆け出そうとして、すぐにルシアに腕を掴まれた。
「正面から近づかないで」
「でも、血が」
「分かってる。でも今のあの子には、近づく人が全部敵に見えてる」
ルシアの金の瞳は、若いワイバーンを捉えていた。
見える。
裂けた翼膜。
そこから広がる鋭い痛み。
胸の奥に溜まった熱。
翼の付け根で引き攣れている筋。
冷えた体のまま、急に力を入れた時の、嫌な歪み。
それだけではない。
胃の奥に、重い塊のような濁りがある。
まだ消化しきれていない肉餌。
体を温める前に飛び上がった衝撃。
山風に晒された翼膜が、強く張った瞬間に裂けた感覚。
痛みが、一か所では終わっていない。
「セシリア、傷は塞げる?」
「はい。でも、近づけなければ」
「私が落ち着かせます。マグダレナ様、布を。金具のないものをお願いします。あと、誰も前に立たないでください」
「聞こえたわね。正面を空けて。尾の範囲にも入らない」
マグダレナの声が飛ぶ。
「ノーマン、鎮静薬は?」
「あります。ただし強いものを使うと、呼吸が落ちます」
「薄く。飲ませるのではなく、布に含ませて香りだけ」
「了解。鼻先ふんわり作戦ですね」
「その名称は捨てなさい」
「捨てました。今、生まれて今、死にました」
ノーマンが薬箱を開く。
その間に、ルシアは少しずつワイバーンへ近づいた。
怖い。
若い個体とはいえ、ワイバーンは大きい。翼を振り抜かれれば、人間など簡単に弾き飛ばされる。長い尾が岩を叩くたび、足元の土が震えた。
セシリアが息を呑む気配が背後でした。
「お姉様」
「大丈夫。近づきすぎない」
そう言いながら、ルシアは低い声で続けた。
「大丈夫。今は飛ばさない。誰も飛べなんて言わない」
ワイバーンが喉を鳴らす。
通じているかは分からない。
けれど、声の調子は伝わるかもしれない。
ルシアは視線を合わせすぎないよう、わずかに下げた。ペガサスとは違う。ワイバーンにとって、正面から見つめることは挑発になる可能性がある。
金の瞳で見える痛みの流れを辿りながら、ルシアは言葉を重ねる。
「痛いね。翼だけじゃない。胸も、腹も重い。飛べないんじゃなくて、飛ぶと裂けるのが怖いんだよね」
ワイバーンの尾の動きが、ほんの少し遅くなった。
ノーマンが、薬草の香りを含ませた布を棒の先につけて差し出す。
ルシアはそれを受け取り、ワイバーンの鼻先より少し離れた位置にそっと置いた。
強すぎない香り。
刺激の少ない鎮静補助。
眠らせるためではなく、張りつめすぎた呼吸を少しだけ緩めるためのもの。
ワイバーンは警戒しながら鼻を鳴らした。
一度、牙を剥く。
だが、噛みつきはしない。
「今です。セシリア、横から。翼の裂け目だけ見て。胸にはまだ触れないで」
「分かりました」
セシリアが動いた。
白い外套が揺れる。
彼女の銀の瞳が光を帯びた瞬間、周囲の空気がふっと清らかに変わった。
セシリアは、怖がっていなかった。
いや、怖くないはずはない。
それでも、痛みを負ったものの前では、迷わず膝をつく。
それは、ルシアにはない強さだった。
「痛みを少しだけ預かります」
セシリアが囁く。
銀の光が、裂けた翼膜に触れた。
血の滲みが止まる。
裂けた膜の端が、淡い光に包まれて寄り合わさっていく。
治癒術師たちが息を呑む中、傷口はみるみる塞がっていった。
それはまさしく、奇跡のようだった。
ルシアにはできないこと。
どれだけ見えても、どれだけ原因を探れても、目の前で流れる血を瞬時に止めることはできない。
銀の聖眼。
自分にはない、妹の力。
けれど、ルシアには同時に見えていた。
傷が塞がっていくその奥で、翼の付け根に残る赤黒い硬さが、まだ消えていない。胸筋にこもった熱も、胃の重さもそのままだ。
傷だけが塞がっても、原因は残る。
「セシリア、そこで止めて」
「え?」
「完全に張らせないで。膜は塞がっているけど、付け根の筋がまだ引き攣れてる。ここで無理にきれいに戻しすぎると、次に広げた時また裂ける」
セシリアはすぐに光を弱めた。
疑わなかった。
そのことに、ルシアは一瞬だけ胸を突かれた。
セシリアは昔からそうだった。
ルシアが「少し待って」と言えば、理由を聞く前に待ってくれた。
「分かりました。傷は塞ぎます。でも、引っ張りすぎないようにします」
「ありがとう」
短いやり取りだった。
けれど、それだけで足りた。
銀の光が、翼膜の裂け目を柔らかく閉じていく。
若いワイバーンの呼吸が、少しずつ落ち着いてきた。
尾の動きも収まる。
喉の奥の唸りは残っているが、さっきのような恐慌ではない。
イレーネ隊長が低く呟いた。
「……見事だ」
それがセシリアへの言葉なのか、二人への言葉なのかは分からなかった。
セシリアは治癒を終えると、わずかに肩を揺らした。
聖眼の光が薄れていく。
「大丈夫?」
ルシアが思わず尋ねる。
セシリアは顔を上げ、小さく微笑んだ。
「はい。お姉様こそ」
「私は、見ていただけだから」
「違います」
セシリアは静かに首を振った。
「お姉様が止めてくれなければ、私は傷だけを見て、全部治したつもりになっていました」
その言葉は、ルシアの胸にまっすぐ入ってきた。
全部治したつもり。
それはきっと、セシリアがこの数日、テレジアで何度も感じていたことなのだろう。
癒した。
けれど戻らない。
傷は塞いだ。
けれど元気にならない。
銀の聖眼にも、届かないものがある。
セシリアは、それをもう知っている顔をしていた。
◇
若いワイバーンは、応急処置の後、温めた岩床のある区画へ移された。
翼は広げさせず、軽く畳んだ状態で固定する。
胸の付け根には温湿布。
餌はすぐに与えず、まず水分と薄い補助液だけ。
ルシアがそう指示すると、ヴァルミアの飼育員たちは戸惑いながらも従った。
「肉餌は与えないのですか」
飼育員の一人が尋ねる。
「今はやめた方がいいです。胃が重い状態で動かすと、また胸と翼に負担が出ます」
「しかし、傷を治した後は体力を戻すために」
「戻したいのは分かります。でも、今は入れるより休ませる方が先です」
ルシアは若いワイバーンを見る。
痛みの色は薄くなった。
だが、体の奥に残る疲労と熱はまだ濃い。
「食べさせるなら、少量を分けて。脂の強い肉は避けてください。消化の軽いものから」
ノーマンが隣で書き込む。
「少量分割、脂控えめ、温め優先。肉食魔獣にも胃に優しい時代が来ました」
「ノーマン様、その言い方は」
「正式記録には書きません。心の新聞の見出しです」
「その新聞、廃刊にしなさい」
マグダレナに言われ、ノーマンは即座に頷いた。
「創刊号で廃刊。潔いですね」
セシリアが思わず小さく笑った。
ルシアはその横顔を見て、胸の奥がじんわり痛くなるのを感じた。
再会したのに、まだ何も話せていない。
手紙のこと。
家を出た日のこと。
セシリアが何を思ったのか。
自分が何を思っていたのか。
話さなければいけないことは、山ほどある。
けれど今は、目の前のワイバーンが先だった。
それはセシリアも同じなのだろう。
彼女は姉にすがることも、泣くこともせず、負傷者の天幕へ戻ろうとしていた。
聖女として。
ルシアは、その背を呼び止めた。
「セシリア」
妹が振り返る。
銀の瞳は、少しだけ疲れていた。
けれど、まっすぐだった。
「さっきは、ありがとう」
セシリアの表情が揺れる。
「私こそ……お姉様がいてくれて、助かりました」
言葉はそこで途切れた。
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
その沈黙の中に、言えなかった言葉がいくつもあった。
ごめんなさい。
責めていないよ。
会いたかった。
無事でよかった。
けれど、どれも今は口に出せなかった。
マグダレナが少し離れた場所から二人を見ていたが、何も言わなかった。
アルベルトも、あえて目を逸らしている。
気を遣われているのだと分かる。
それがありがたくて、少しだけ苦しかった。
先に口を開いたのは、セシリアだった。
「お姉様」
「うん」
「私は、治せるものしか見ていませんでした」
ルシアは息を呑む。
セシリアは手袋を外し、自分の銀の瞳にそっと触れた。
「傷があれば治せる。呪いがあれば祓える。だから、それで救えているのだと思っていました。でも、テレジアで魔獣たちを診て、分かりました」
声が少し震える。
「傷がないのに弱っている子がいる。呪いがないのに戻らない子がいる。私は、その理由が見えませんでした」
「セシリア……」
「お姉様が見ていたのは、そこだったんですね」
ルシアは、すぐには答えられなかった。
自分のしてきたことを、妹がこんなふうに言葉にしてくれる日が来るとは思わなかった。
「私も、治せないものがたくさんあるよ」
ようやく、ルシアは言った。
「さっきの傷だって、私だけではどうにもできなかった。セシリアがいなかったら、あの子は痛みに耐えきれなかったと思う」
セシリアの銀の瞳が揺れる。
「でも、お姉様が見てくれなければ、私はまた同じ傷を作らせてしまったかもしれません」
「だから」
ルシアは、少しだけ笑った。
「一緒なら、届くところが増えるのかもしれない」
セシリアは目を見開いた。
次の瞬間、泣きそうな顔で、それでも笑った。
「はい」
その声は、とても小さかった。
けれど、確かだった。
◇
夕刻になっても、救護拠点の慌ただしさは収まらなかった。
野生魔獣の群れは、まだ山の中腹にいる。
だが偵察によれば、進路は国境村へ向かっている可能性が高いという。
ヴァルミアの隊長イレーネは、地図の前で唇を引き結んでいた。
「村まで半日。夜明け前には谷へ降りる可能性があります」
「出せるワイバーンは?」
アルベルトが尋ねる。
「軽症を含めれば、十頭ほど。ただし主力は疲弊しています」
マグダレナが即座に言った。
「重症個体は出せないわ」
「分かっています」
イレーネの声は硬かった。
「ですが、出さなければ村が孤立します」
その場の空気が重くなる。
ルシアは地図を見た。
山道。
谷。
村。
野生魔獣の予想進路。
そして、ワイバーン部隊の待機場所。
金の瞳が、地図の上でわずかに揺れる。
まだ見えてはいない。
でも、考えることはできる。
野生魔獣はなぜ村へ向かうのか。
何に押され、何を避け、何を求めているのか。
討伐ではなく、進路を逸らせるかもしれない。
そう思った時、外からまた警鐘が鳴った。
今度は短く、連続して。
兵士が駆け込んでくる。
「報告! 群れが動きました! 谷へ下りています!」
イレーネが顔を上げる。
「全隊、出撃準備!」
「待ってください」
ルシアの声が、その場を止めた。
イレーネが鋭く振り返る。
「待てません。村が危険です」
「全部は出さないでください」
「何ですって」
「今飛ばせば、次に守る空がなくなります」
ルシアは地図の上に手を置いた。
声は震えていなかった。
「飛ばせる子と、飛ばしてはいけない子を分けます。全力で飛ばすのではなく、群れの進路を逸らす方法を考えましょう」
セシリアが、ルシアの隣に立った。
「負傷した子は、私が診ます」
銀の瞳が、静かに光を帯びる。
「でも、飛ばすかどうかは、お姉様に見てもらってください」
イレーネは二人を見た。
銀と金。
二つの光が、地図の前に並んでいた。
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