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婚約破棄され売られた欠陥聖女は、隣の大国で『魔獣の聖女』と呼ばれることになった  作者: 一十一
第2章 国境の向こう

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第14話

 若いワイバーンは、岩陰の広場で暴れていた。


 片翼を半ば広げたまま、長い尾を振り回している。翼膜は大きく裂け、薄い皮の端から血が滲んでいた。痛みで我を失っているのか、近づこうとした治癒術師が一歩踏み込むたび、鋭い牙を剥いて威嚇する。


 尾が岩に叩きつけられた。


 乾いた音が谷間に響き、砕けた石片が足元を跳ねる。

 周囲の兵士たちが反射的に後ずさった。


 セシリアはその場へ駆け出そうとして、すぐにルシアに腕を掴まれた。


「正面から近づかないで」


「でも、血が」


「分かってる。でも今のあの子には、近づく人が全部敵に見えてる」


 ルシアの金の瞳は、若いワイバーンを捉えていた。


 見える。


 裂けた翼膜。

 そこから広がる鋭い痛み。

 胸の奥に溜まった熱。

 翼の付け根で引き攣れている筋。

 冷えた体のまま、急に力を入れた時の、嫌な歪み。


 それだけではない。


 胃の奥に、重い塊のような濁りがある。

 まだ消化しきれていない肉餌。

 体を温める前に飛び上がった衝撃。

 山風に晒された翼膜が、強く張った瞬間に裂けた感覚。


 痛みが、一か所では終わっていない。


「セシリア、傷は塞げる?」


「はい。でも、近づけなければ」


「私が落ち着かせます。マグダレナ様、布を。金具のないものをお願いします。あと、誰も前に立たないでください」


「聞こえたわね。正面を空けて。尾の範囲にも入らない」


 マグダレナの声が飛ぶ。


「ノーマン、鎮静薬は?」


「あります。ただし強いものを使うと、呼吸が落ちます」


「薄く。飲ませるのではなく、布に含ませて香りだけ」


「了解。鼻先ふんわり作戦ですね」


「その名称は捨てなさい」


「捨てました。今、生まれて今、死にました」


 ノーマンが薬箱を開く。


 その間に、ルシアは少しずつワイバーンへ近づいた。


 怖い。


 若い個体とはいえ、ワイバーンは大きい。翼を振り抜かれれば、人間など簡単に弾き飛ばされる。長い尾が岩を叩くたび、足元の土が震えた。


 セシリアが息を呑む気配が背後でした。


「お姉様」


「大丈夫。近づきすぎない」


 そう言いながら、ルシアは低い声で続けた。


「大丈夫。今は飛ばさない。誰も飛べなんて言わない」


 ワイバーンが喉を鳴らす。


 通じているかは分からない。

 けれど、声の調子は伝わるかもしれない。


 ルシアは視線を合わせすぎないよう、わずかに下げた。ペガサスとは違う。ワイバーンにとって、正面から見つめることは挑発になる可能性がある。


 金の瞳で見える痛みの流れを辿りながら、ルシアは言葉を重ねる。


「痛いね。翼だけじゃない。胸も、腹も重い。飛べないんじゃなくて、飛ぶと裂けるのが怖いんだよね」


 ワイバーンの尾の動きが、ほんの少し遅くなった。


 ノーマンが、薬草の香りを含ませた布を棒の先につけて差し出す。

 ルシアはそれを受け取り、ワイバーンの鼻先より少し離れた位置にそっと置いた。


 強すぎない香り。

 刺激の少ない鎮静補助。

 眠らせるためではなく、張りつめすぎた呼吸を少しだけ緩めるためのもの。


 ワイバーンは警戒しながら鼻を鳴らした。


 一度、牙を剥く。

 だが、噛みつきはしない。


「今です。セシリア、横から。翼の裂け目だけ見て。胸にはまだ触れないで」


「分かりました」


 セシリアが動いた。


 白い外套が揺れる。

 彼女の銀の瞳が光を帯びた瞬間、周囲の空気がふっと清らかに変わった。


 セシリアは、怖がっていなかった。


 いや、怖くないはずはない。

 それでも、痛みを負ったものの前では、迷わず膝をつく。


 それは、ルシアにはない強さだった。


「痛みを少しだけ預かります」


 セシリアが囁く。


 銀の光が、裂けた翼膜に触れた。


 血の滲みが止まる。

 裂けた膜の端が、淡い光に包まれて寄り合わさっていく。

 治癒術師たちが息を呑む中、傷口はみるみる塞がっていった。


 それはまさしく、奇跡のようだった。


 ルシアにはできないこと。


 どれだけ見えても、どれだけ原因を探れても、目の前で流れる血を瞬時に止めることはできない。


 銀の聖眼。


 自分にはない、妹の力。


 けれど、ルシアには同時に見えていた。


 傷が塞がっていくその奥で、翼の付け根に残る赤黒い硬さが、まだ消えていない。胸筋にこもった熱も、胃の重さもそのままだ。


 傷だけが塞がっても、原因は残る。


「セシリア、そこで止めて」


「え?」


「完全に張らせないで。膜は塞がっているけど、付け根の筋がまだ引き攣れてる。ここで無理にきれいに戻しすぎると、次に広げた時また裂ける」


 セシリアはすぐに光を弱めた。


 疑わなかった。


 そのことに、ルシアは一瞬だけ胸を突かれた。


 セシリアは昔からそうだった。

 ルシアが「少し待って」と言えば、理由を聞く前に待ってくれた。


「分かりました。傷は塞ぎます。でも、引っ張りすぎないようにします」


「ありがとう」


 短いやり取りだった。


 けれど、それだけで足りた。


 銀の光が、翼膜の裂け目を柔らかく閉じていく。

 若いワイバーンの呼吸が、少しずつ落ち着いてきた。


 尾の動きも収まる。

 喉の奥の唸りは残っているが、さっきのような恐慌ではない。


 イレーネ隊長が低く呟いた。


「……見事だ」


 それがセシリアへの言葉なのか、二人への言葉なのかは分からなかった。


 セシリアは治癒を終えると、わずかに肩を揺らした。

 聖眼の光が薄れていく。


「大丈夫?」


 ルシアが思わず尋ねる。


 セシリアは顔を上げ、小さく微笑んだ。


「はい。お姉様こそ」


「私は、見ていただけだから」


「違います」


 セシリアは静かに首を振った。


「お姉様が止めてくれなければ、私は傷だけを見て、全部治したつもりになっていました」


 その言葉は、ルシアの胸にまっすぐ入ってきた。


 全部治したつもり。


 それはきっと、セシリアがこの数日、テレジアで何度も感じていたことなのだろう。


 癒した。

 けれど戻らない。

 傷は塞いだ。

 けれど元気にならない。


 銀の聖眼にも、届かないものがある。


 セシリアは、それをもう知っている顔をしていた。


     ◇


 若いワイバーンは、応急処置の後、温めた岩床のある区画へ移された。


 翼は広げさせず、軽く畳んだ状態で固定する。

 胸の付け根には温湿布。

 餌はすぐに与えず、まず水分と薄い補助液だけ。


 ルシアがそう指示すると、ヴァルミアの飼育員たちは戸惑いながらも従った。


「肉餌は与えないのですか」


 飼育員の一人が尋ねる。


「今はやめた方がいいです。胃が重い状態で動かすと、また胸と翼に負担が出ます」


「しかし、傷を治した後は体力を戻すために」


「戻したいのは分かります。でも、今は入れるより休ませる方が先です」


 ルシアは若いワイバーンを見る。


 痛みの色は薄くなった。

 だが、体の奥に残る疲労と熱はまだ濃い。


「食べさせるなら、少量を分けて。脂の強い肉は避けてください。消化の軽いものから」


 ノーマンが隣で書き込む。


「少量分割、脂控えめ、温め優先。肉食魔獣にも胃に優しい時代が来ました」


「ノーマン様、その言い方は」


「正式記録には書きません。心の新聞の見出しです」


「その新聞、廃刊にしなさい」


 マグダレナに言われ、ノーマンは即座に頷いた。


「創刊号で廃刊。潔いですね」


 セシリアが思わず小さく笑った。


 ルシアはその横顔を見て、胸の奥がじんわり痛くなるのを感じた。


 再会したのに、まだ何も話せていない。


 手紙のこと。

 家を出た日のこと。

 セシリアが何を思ったのか。

 自分が何を思っていたのか。


 話さなければいけないことは、山ほどある。


 けれど今は、目の前のワイバーンが先だった。


 それはセシリアも同じなのだろう。


 彼女は姉にすがることも、泣くこともせず、負傷者の天幕へ戻ろうとしていた。


 聖女として。


 ルシアは、その背を呼び止めた。


「セシリア」


 妹が振り返る。


 銀の瞳は、少しだけ疲れていた。

 けれど、まっすぐだった。


「さっきは、ありがとう」


 セシリアの表情が揺れる。


「私こそ……お姉様がいてくれて、助かりました」


 言葉はそこで途切れた。


 二人の間に、短い沈黙が落ちる。


 その沈黙の中に、言えなかった言葉がいくつもあった。


 ごめんなさい。

 責めていないよ。

 会いたかった。

 無事でよかった。


 けれど、どれも今は口に出せなかった。


 マグダレナが少し離れた場所から二人を見ていたが、何も言わなかった。

 アルベルトも、あえて目を逸らしている。


 気を遣われているのだと分かる。


 それがありがたくて、少しだけ苦しかった。


 先に口を開いたのは、セシリアだった。


「お姉様」


「うん」


「私は、治せるものしか見ていませんでした」


 ルシアは息を呑む。


 セシリアは手袋を外し、自分の銀の瞳にそっと触れた。


「傷があれば治せる。呪いがあれば祓える。だから、それで救えているのだと思っていました。でも、テレジアで魔獣たちを診て、分かりました」


 声が少し震える。


「傷がないのに弱っている子がいる。呪いがないのに戻らない子がいる。私は、その理由が見えませんでした」


「セシリア……」


「お姉様が見ていたのは、そこだったんですね」


 ルシアは、すぐには答えられなかった。


 自分のしてきたことを、妹がこんなふうに言葉にしてくれる日が来るとは思わなかった。


「私も、治せないものがたくさんあるよ」


 ようやく、ルシアは言った。


「さっきの傷だって、私だけではどうにもできなかった。セシリアがいなかったら、あの子は痛みに耐えきれなかったと思う」


 セシリアの銀の瞳が揺れる。


「でも、お姉様が見てくれなければ、私はまた同じ傷を作らせてしまったかもしれません」


「だから」


 ルシアは、少しだけ笑った。


「一緒なら、届くところが増えるのかもしれない」


 セシリアは目を見開いた。


 次の瞬間、泣きそうな顔で、それでも笑った。


「はい」


 その声は、とても小さかった。


 けれど、確かだった。


     ◇


 夕刻になっても、救護拠点の慌ただしさは収まらなかった。


 野生魔獣の群れは、まだ山の中腹にいる。

 だが偵察によれば、進路は国境村へ向かっている可能性が高いという。


 ヴァルミアの隊長イレーネは、地図の前で唇を引き結んでいた。


「村まで半日。夜明け前には谷へ降りる可能性があります」


「出せるワイバーンは?」


 アルベルトが尋ねる。


「軽症を含めれば、十頭ほど。ただし主力は疲弊しています」


 マグダレナが即座に言った。


「重症個体は出せないわ」


「分かっています」


 イレーネの声は硬かった。


「ですが、出さなければ村が孤立します」


 その場の空気が重くなる。


 ルシアは地図を見た。


 山道。

 谷。

 村。

 野生魔獣の予想進路。

 そして、ワイバーン部隊の待機場所。


 金の瞳が、地図の上でわずかに揺れる。


 まだ見えてはいない。

 でも、考えることはできる。


 野生魔獣はなぜ村へ向かうのか。

 何に押され、何を避け、何を求めているのか。


 討伐ではなく、進路を逸らせるかもしれない。


 そう思った時、外からまた警鐘が鳴った。


 今度は短く、連続して。


 兵士が駆け込んでくる。


「報告! 群れが動きました! 谷へ下りています!」


 イレーネが顔を上げる。


「全隊、出撃準備!」


「待ってください」


 ルシアの声が、その場を止めた。


 イレーネが鋭く振り返る。


「待てません。村が危険です」


「全部は出さないでください」


「何ですって」


「今飛ばせば、次に守る空がなくなります」


 ルシアは地図の上に手を置いた。


 声は震えていなかった。


「飛ばせる子と、飛ばしてはいけない子を分けます。全力で飛ばすのではなく、群れの進路を逸らす方法を考えましょう」


 セシリアが、ルシアの隣に立った。


「負傷した子は、私が診ます」


 銀の瞳が、静かに光を帯びる。


「でも、飛ばすかどうかは、お姉様に見てもらってください」


 イレーネは二人を見た。


 銀と金。


 二つの光が、地図の前に並んでいた。

皆様、ここまで読んで頂き、ありがとうございます。


この作品をここまで続けてこられたのは、読んでくださる皆様のおかげです。

本当に励みになっています。


もし少しでも面白い、続きが気になると思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。

今後ともよろしくお願いいたします。

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