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婚約破棄され売られた欠陥聖女は、隣の大国で『魔獣の聖女』と呼ばれることになった  作者: 一十一
第2章 国境の向こう

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第15話

 地図の前に、銀と金の光が並んだ。


 救護拠点の空気が、張りつめる。


 外では兵士たちが走り、ワイバーンの低い唸り声が岩壁に反響していた。山風は冷たく、夜の気配が谷へ降り始めている。


 イレーネ隊長は、しばらくルシアを見ていた。


「飛ばせる個体と、飛ばしてはいけない個体を分ける、と言いましたね」


「はい」


「その判断を、あなたが?」


 当然の問いだった。


 ルシアはヴァルミアの人間ではない。

 ワイバーンを診た経験も、まだほとんどない。

 そんな者が、いま国境村の命運に関わる判断へ口を出そうとしている。


 怖くないわけがなかった。


 けれど、ルシアはうなずいた。


「私だけではありません。騎手の方、飼育員の方、治癒術師の方にも確認してもらいます。私は、その子の体の中で今どこに負担が出ているかを見ます」


 イレーネは険しい顔のままだった。


「もし判断を誤れば、村が落ちる」


「はい」


「飛ばさなければ守れない時もある」


「分かっています」


 ルシアは地図に目を落とした。


 谷の入口。

 村へ続く細い道。

 野生魔獣の群れが進んでいるとされる斜面。


「だから、全部を止めるとは言いません」


 ルシアは、山道のひとつを指した。


「群れは、本当に村を襲うために向かっているのでしょうか」


「どういう意味です」


「棲み処を追われて移動しているなら、目的は村ではなく、通れる道や餌場かもしれません。もしそうなら、討つより、進路を変える方が被害を減らせます」


 アルベルトが地図を覗き込む。


「誘導か」


「はい。フランキスでも、迎撃部隊は討伐より誘導と威嚇が中心だと聞きました」


 イレーネが顎に手を当てる。


「この谷の西側に、古い放牧地があります。今は使われていませんが、草地は残っている」


「そこへ逸らせれば、村を避けられるかもしれません」


「だが、群れを動かすにはワイバーンが要る」


「飛べる子だけを、短く使います」


 ルシアは言った。


「重症の子は出しません。翼膜に再発の兆しがある子、胸の熱が強い子、食後から時間が経っていない子も外してください」


「そんなに外せば、数が足りない」


 ヴァルミアの軍人の一人が声を荒げた。


「村人はどうなる。魔獣の体調を気遣っている間に、人が死ねば意味がない!」


 その言葉は、残酷ではなかった。


 現場の本音だった。


 ルシアは言葉に詰まりかける。


 その時、隣に立つセシリアが一歩前に出た。


「人も魔獣も、どちらも救うために分けるのです」


 銀の瞳が、静かに軍人を見据える。


「飛べない子を無理に飛ばせば、途中で落ちます。そうなれば騎手も、下にいる人も危険です」


 軍人は口を閉ざした。


 セシリアは続ける。


「傷なら、私が癒やします。急性の痛みもできる限り抑えます。けれど、壊れかけている体を命令だけで飛ばすことは、私にも止められません」


 ルシアは妹を見た。


 かつて、守られる側だった少女。

 姉を探して、怒り、悩み、傷つきながらも、今は真っ直ぐに立っている。


 セシリアは、ルシアの方を向いてうなずいた。


「お姉様、見てください。私が治せるところは治します」


「うん」


 ルシアは息を吸った。


「行きます」


     ◇


 ワイバーンの待機区画は、戦場前のような緊張に包まれていた。


 飼育員が鞍を整え、騎手たちが防具を締め直している。

 ワイバーンたちは低く唸り、翼を震わせ、冷たい風に鼻先を上げていた。


 乾いた鱗の匂い。

 革具に染みた油の匂い。

 緊張した騎手たちの汗の匂い。

 それらが山の冷気の中で混じり合っている。


 ルシアは一頭ずつ見ていった。


 金の瞳に、熱と痛みが流れ込む。


 一頭目。

 翼の付け根に熱。だが深くはない。胃の重さも少ない。短時間なら飛べる。


「この子は短時間なら可能です。長く追わせないでください」


 二頭目。

 右翼の膜に細い傷跡。閉じているが、その奥に赤黒い引き攣れが残っている。


「この子は出さないでください」


 騎手が息を呑む。


「飛べます!」


「飛べます。でも裂けます」


 ルシアは視線を逸らさなかった。


「今飛べば、途中で痛みが出ます。そうなれば、あなたも落ちるかもしれません」


 騎手は何か言い返そうとして、黙った。


 セシリアが横から近づき、ワイバーンの翼に手を当てる。


「小さな炎症があります。癒やします。でも、今日は飛ばさないでください」


 銀の光が淡く広がる。


 騎手は、悔しそうに拳を握った。


「……分かりました」


 三頭目。

 体温が低い。胸の動きが鈍い。飛ぶ前に温める時間が必要。


「この子は待機。温めてから、予備に回してください」


 ノーマンが背後で必死に書き込む。


「一番、短時間可。二番、出撃不可。三番、温め後予備。字が追いつきません。手が増えてほしい」


「口を減らせば少し追いつくわ」


 マグダレナが即座に言う。


「その通りです、施設長。口、臨時休業します」


 緊張の中でも、そのやり取りで数人の騎士がかすかに笑った。


 笑える余地がある。

 それだけで、少し呼吸が戻る。


 ルシアはさらに見ていった。


 出せる個体は、思ったより少ない。

 けれど、ゼロではない。


 七頭。


 短時間飛行可能な個体が七頭。

 予備として温めれば使える個体が二頭。

 重症で絶対に出せない個体が四頭。


 イレーネは結果を聞き、歯を食いしばった。


「七頭で、谷を逸らすしかないか」


「真正面から押し返すのではなく、音と匂いで進路をずらしてください」


 ルシアは地図を見ながら言った。


「群れはおそらく、餌場と安全な道を探しています。村へ向かっているのは、谷が開けているからです。西の放牧地へ誘導できれば」


「匂いなら、古い誘導香があります」


 ヴァルミアの飼育員が言った。


「草食魔獣の群れを動かす時に使うものです。野生魔獣にも多少は効くかもしれません」


「それを西側へ。村側には避ける香りや煙を置けますか」


「苦煙草ならあります。嫌がる魔獣は多い」


「使いましょう。強すぎるとこちらのワイバーンにも負担になります。風向きを見て、村側だけに」


 イレーネの目が変わった。


 迷いが消えたわけではない。

 けれど、ただ全力で飛ばす以外の道が見え始めていた。


「隊を二つに分ける。第一隊は西側へ誘導香を運ぶ。第二隊は村側上空で威嚇。ただし長く追うな。ルシア殿が出した飛行時間を超えたら戻れ」


「隊長、それでは押し切れない場合は」


「戻れ」


 イレーネは鋭く言った。


「落ちたワイバーンでは、村は守れない」


 その言葉に、騎士たちが一斉に姿勢を正した。


     ◇


 夜明け前、山の空は暗い青に沈んでいた。


 発着場に、七頭のワイバーンが並ぶ。


 翼を広げる前に、飼育員たちが胸と付け根を温める。熱を持たせすぎず、冷えを抜く程度に。

 肉餌は与えない。代わりに、少量の補助液と水分。

 飛行時間は短く。

 戻ったらすぐに装具を外し、温め直す。


 ルシアは一頭ずつ最後の確認をした。


 怖い。


 自分の判断で、飛ぶ子と飛ばない子が決まった。

 その結果で、人も魔獣も傷つくかもしれない。


 けれど、見なかったことにはできない。


「お姉様」


 隣にセシリアが立つ。


 白い聖女の外套の下、彼女の手には治療用の布と薬が握られていた。


「大丈夫です。負傷したら、私が診ます」


「うん」


「でも、できれば怪我をしないように」


「それが一番だね」


 二人は小さく笑った。


 ほんの少しだけ。


 イレーネが右手を上げる。


「出撃!」


 ワイバーンたちが、一斉に翼を広げた。


 革膜が風を切り裂く乾いた音が、発着場の石壁に跳ね返る。


 冷えた夜明け前の空気が、鱗の隙間を抜けるように吹き荒れ、ルシアの頬を鋭く刺した。


 騎手の一人が、手綱を握る指に力を込める。


 その声は命令の形をしていたが、わずかに震えていた。


「……行ける。大丈夫だ」


 それがワイバーンに向けた言葉なのか、自分自身に言い聞かせた言葉なのか、ルシアには分からなかった。


 七頭の影が、岩を震わせるほどの羽音を残して、山の斜面へ舞い上がっていく。


 ルシアは息を止めて見送った。


 金の瞳には、遠ざかっていくワイバーンたちの熱の流れがかすかに見えた。


 まだ大丈夫。

 まだ、飛べる。


 けれど長くはない。


 時間との勝負だった。


     ◇


 谷から、野生魔獣の群れの音が響いてきた。


 地を踏む重い足音。

 岩を崩す音。

 低い唸り声。


 群れは大きかった。


 鹿に似た角を持つ魔獣。

 岩のような皮膚を持つ猪型の魔獣。

 その後方に、小型の飛行魔獣も混じっている。


 彼らは村を狙っているわけではない。

 ただ、押し出され、逃げ場を探し、谷へ降りてきただけだ。


 けれど、その先には人の暮らしがある。


 西側の斜面で、第一隊のワイバーンが低く旋回した。

 誘導香を含ませた袋が、風上へ落とされる。


 群れの先頭が、鼻先を上げた。


 村側では、第二隊が高く飛び、苦煙草の煙が谷の端へ流れていく。


 魔獣の群れが、わずかに揺らいだ。


「動いた」


 ノーマンが望遠具を覗きながら叫ぶ。


「西へ、少し!」


 イレーネが短く命じる。


「第一隊、深追いするな! 高度を保て!」


 だが、その時だった。


 一頭のワイバーンが、風に煽られて高度を落とした。


 ルシアの金の瞳に、胸の熱が跳ねるのが見えた。


「三番の子、戻して!」


 ルシアが叫ぶ。


「今すぐ!」


 伝令が走るより早く、イレーネが信号旗を振った。


 該当のワイバーンはもう一度羽ばたこうとしたが、途中で動きが鈍る。


 落ちる。


 そう思った瞬間、別のワイバーンが横へ回り込んだ。

 騎手同士が合図を交わし、落ちかけた個体を風の流れから外す。


 ぎりぎりで、高度が戻った。


 ルシアの喉から、詰めていた息が漏れる。


「戻れ……そのまま戻って」


 願うように呟く。


 ワイバーンは発着場へ向かって戻ってくる。

 着地は荒かった。石床に爪が滑り、胸が大きく上下している。


 セシリアがすぐに駆け寄った。


「翼を見ます!」


 銀の光が広がる。


 裂けてはいない。

 だが、付け根に強い炎症が出ていた。


「裂けてはいません。でも熱があります」


「温湿布、冷やしすぎないで。胸は温めて、炎症のところだけ抑えて」


 ルシアが指示する。


「水分を少し。肉餌はまだ駄目」


「はい」


 セシリアは迷わず動いた。


 銀の光が急性の痛みを和らげ、ルシアの言葉が再発を防ぐための処置へつながっていく。


 その間にも、谷では群れが西へ逸れ始めていた。


 誘導香に引かれ、苦煙草の煙を避け、少しずつ、少しずつ進路が変わる。


 村を外れる。


 完全ではない。

 それでも、村の中心を直撃する軌道ではなくなっていた。


「いける」


 イレーネが呟いた。


「このまま押しすぎるな。逃げ道を残せ!」


 ワイバーンたちは、追い立てるのではなく、道を作った。


 群れの前を塞ぎすぎず、村側だけを嫌がらせ、西の放牧地へ流す。


 やがて、先頭の魔獣が西の斜面へ踏み込んだ。


 続く個体たちも、少しずつそれに従う。


 ノーマンが望遠具を下ろした。


「村を外れました」


 誰も、すぐには歓声を上げなかった。


 まだ油断できない。

 群れが完全に抜けるまでは、気を抜けない。


 けれど、発着場にいた人々の肩から、ほんの少し力が抜けるのが分かった。


 ルシアは隣を見た。


 セシリアが、負傷しかけたワイバーンの翼に手を添えている。

 銀の光は柔らかく、けれど確かだった。


 その横で、ルシアの金の瞳が、まだ残る熱と痛みを追っている。


 治すだけでは足りない。

 見抜くだけでも足りない。


 二つが並んで、ようやく届く場所がある。


 夜明けの光が、山の稜線を淡く染め始めた。


 銀と金の光は、その中で静かに並んでいた。

皆様、ここまで読んで頂き、ありがとうございます。


この作品をここまで続けてこられたのは、読んでくださる皆様のおかげです。

本当に励みになっています。


もし少しでも面白い、続きが気になると思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。

今後ともよろしくお願いいたします。

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