第15話
地図の前に、銀と金の光が並んだ。
救護拠点の空気が、張りつめる。
外では兵士たちが走り、ワイバーンの低い唸り声が岩壁に反響していた。山風は冷たく、夜の気配が谷へ降り始めている。
イレーネ隊長は、しばらくルシアを見ていた。
「飛ばせる個体と、飛ばしてはいけない個体を分ける、と言いましたね」
「はい」
「その判断を、あなたが?」
当然の問いだった。
ルシアはヴァルミアの人間ではない。
ワイバーンを診た経験も、まだほとんどない。
そんな者が、いま国境村の命運に関わる判断へ口を出そうとしている。
怖くないわけがなかった。
けれど、ルシアはうなずいた。
「私だけではありません。騎手の方、飼育員の方、治癒術師の方にも確認してもらいます。私は、その子の体の中で今どこに負担が出ているかを見ます」
イレーネは険しい顔のままだった。
「もし判断を誤れば、村が落ちる」
「はい」
「飛ばさなければ守れない時もある」
「分かっています」
ルシアは地図に目を落とした。
谷の入口。
村へ続く細い道。
野生魔獣の群れが進んでいるとされる斜面。
「だから、全部を止めるとは言いません」
ルシアは、山道のひとつを指した。
「群れは、本当に村を襲うために向かっているのでしょうか」
「どういう意味です」
「棲み処を追われて移動しているなら、目的は村ではなく、通れる道や餌場かもしれません。もしそうなら、討つより、進路を変える方が被害を減らせます」
アルベルトが地図を覗き込む。
「誘導か」
「はい。フランキスでも、迎撃部隊は討伐より誘導と威嚇が中心だと聞きました」
イレーネが顎に手を当てる。
「この谷の西側に、古い放牧地があります。今は使われていませんが、草地は残っている」
「そこへ逸らせれば、村を避けられるかもしれません」
「だが、群れを動かすにはワイバーンが要る」
「飛べる子だけを、短く使います」
ルシアは言った。
「重症の子は出しません。翼膜に再発の兆しがある子、胸の熱が強い子、食後から時間が経っていない子も外してください」
「そんなに外せば、数が足りない」
ヴァルミアの軍人の一人が声を荒げた。
「村人はどうなる。魔獣の体調を気遣っている間に、人が死ねば意味がない!」
その言葉は、残酷ではなかった。
現場の本音だった。
ルシアは言葉に詰まりかける。
その時、隣に立つセシリアが一歩前に出た。
「人も魔獣も、どちらも救うために分けるのです」
銀の瞳が、静かに軍人を見据える。
「飛べない子を無理に飛ばせば、途中で落ちます。そうなれば騎手も、下にいる人も危険です」
軍人は口を閉ざした。
セシリアは続ける。
「傷なら、私が癒やします。急性の痛みもできる限り抑えます。けれど、壊れかけている体を命令だけで飛ばすことは、私にも止められません」
ルシアは妹を見た。
かつて、守られる側だった少女。
姉を探して、怒り、悩み、傷つきながらも、今は真っ直ぐに立っている。
セシリアは、ルシアの方を向いてうなずいた。
「お姉様、見てください。私が治せるところは治します」
「うん」
ルシアは息を吸った。
「行きます」
◇
ワイバーンの待機区画は、戦場前のような緊張に包まれていた。
飼育員が鞍を整え、騎手たちが防具を締め直している。
ワイバーンたちは低く唸り、翼を震わせ、冷たい風に鼻先を上げていた。
乾いた鱗の匂い。
革具に染みた油の匂い。
緊張した騎手たちの汗の匂い。
それらが山の冷気の中で混じり合っている。
ルシアは一頭ずつ見ていった。
金の瞳に、熱と痛みが流れ込む。
一頭目。
翼の付け根に熱。だが深くはない。胃の重さも少ない。短時間なら飛べる。
「この子は短時間なら可能です。長く追わせないでください」
二頭目。
右翼の膜に細い傷跡。閉じているが、その奥に赤黒い引き攣れが残っている。
「この子は出さないでください」
騎手が息を呑む。
「飛べます!」
「飛べます。でも裂けます」
ルシアは視線を逸らさなかった。
「今飛べば、途中で痛みが出ます。そうなれば、あなたも落ちるかもしれません」
騎手は何か言い返そうとして、黙った。
セシリアが横から近づき、ワイバーンの翼に手を当てる。
「小さな炎症があります。癒やします。でも、今日は飛ばさないでください」
銀の光が淡く広がる。
騎手は、悔しそうに拳を握った。
「……分かりました」
三頭目。
体温が低い。胸の動きが鈍い。飛ぶ前に温める時間が必要。
「この子は待機。温めてから、予備に回してください」
ノーマンが背後で必死に書き込む。
「一番、短時間可。二番、出撃不可。三番、温め後予備。字が追いつきません。手が増えてほしい」
「口を減らせば少し追いつくわ」
マグダレナが即座に言う。
「その通りです、施設長。口、臨時休業します」
緊張の中でも、そのやり取りで数人の騎士がかすかに笑った。
笑える余地がある。
それだけで、少し呼吸が戻る。
ルシアはさらに見ていった。
出せる個体は、思ったより少ない。
けれど、ゼロではない。
七頭。
短時間飛行可能な個体が七頭。
予備として温めれば使える個体が二頭。
重症で絶対に出せない個体が四頭。
イレーネは結果を聞き、歯を食いしばった。
「七頭で、谷を逸らすしかないか」
「真正面から押し返すのではなく、音と匂いで進路をずらしてください」
ルシアは地図を見ながら言った。
「群れはおそらく、餌場と安全な道を探しています。村へ向かっているのは、谷が開けているからです。西の放牧地へ誘導できれば」
「匂いなら、古い誘導香があります」
ヴァルミアの飼育員が言った。
「草食魔獣の群れを動かす時に使うものです。野生魔獣にも多少は効くかもしれません」
「それを西側へ。村側には避ける香りや煙を置けますか」
「苦煙草ならあります。嫌がる魔獣は多い」
「使いましょう。強すぎるとこちらのワイバーンにも負担になります。風向きを見て、村側だけに」
イレーネの目が変わった。
迷いが消えたわけではない。
けれど、ただ全力で飛ばす以外の道が見え始めていた。
「隊を二つに分ける。第一隊は西側へ誘導香を運ぶ。第二隊は村側上空で威嚇。ただし長く追うな。ルシア殿が出した飛行時間を超えたら戻れ」
「隊長、それでは押し切れない場合は」
「戻れ」
イレーネは鋭く言った。
「落ちたワイバーンでは、村は守れない」
その言葉に、騎士たちが一斉に姿勢を正した。
◇
夜明け前、山の空は暗い青に沈んでいた。
発着場に、七頭のワイバーンが並ぶ。
翼を広げる前に、飼育員たちが胸と付け根を温める。熱を持たせすぎず、冷えを抜く程度に。
肉餌は与えない。代わりに、少量の補助液と水分。
飛行時間は短く。
戻ったらすぐに装具を外し、温め直す。
ルシアは一頭ずつ最後の確認をした。
怖い。
自分の判断で、飛ぶ子と飛ばない子が決まった。
その結果で、人も魔獣も傷つくかもしれない。
けれど、見なかったことにはできない。
「お姉様」
隣にセシリアが立つ。
白い聖女の外套の下、彼女の手には治療用の布と薬が握られていた。
「大丈夫です。負傷したら、私が診ます」
「うん」
「でも、できれば怪我をしないように」
「それが一番だね」
二人は小さく笑った。
ほんの少しだけ。
イレーネが右手を上げる。
「出撃!」
ワイバーンたちが、一斉に翼を広げた。
革膜が風を切り裂く乾いた音が、発着場の石壁に跳ね返る。
冷えた夜明け前の空気が、鱗の隙間を抜けるように吹き荒れ、ルシアの頬を鋭く刺した。
騎手の一人が、手綱を握る指に力を込める。
その声は命令の形をしていたが、わずかに震えていた。
「……行ける。大丈夫だ」
それがワイバーンに向けた言葉なのか、自分自身に言い聞かせた言葉なのか、ルシアには分からなかった。
七頭の影が、岩を震わせるほどの羽音を残して、山の斜面へ舞い上がっていく。
ルシアは息を止めて見送った。
金の瞳には、遠ざかっていくワイバーンたちの熱の流れがかすかに見えた。
まだ大丈夫。
まだ、飛べる。
けれど長くはない。
時間との勝負だった。
◇
谷から、野生魔獣の群れの音が響いてきた。
地を踏む重い足音。
岩を崩す音。
低い唸り声。
群れは大きかった。
鹿に似た角を持つ魔獣。
岩のような皮膚を持つ猪型の魔獣。
その後方に、小型の飛行魔獣も混じっている。
彼らは村を狙っているわけではない。
ただ、押し出され、逃げ場を探し、谷へ降りてきただけだ。
けれど、その先には人の暮らしがある。
西側の斜面で、第一隊のワイバーンが低く旋回した。
誘導香を含ませた袋が、風上へ落とされる。
群れの先頭が、鼻先を上げた。
村側では、第二隊が高く飛び、苦煙草の煙が谷の端へ流れていく。
魔獣の群れが、わずかに揺らいだ。
「動いた」
ノーマンが望遠具を覗きながら叫ぶ。
「西へ、少し!」
イレーネが短く命じる。
「第一隊、深追いするな! 高度を保て!」
だが、その時だった。
一頭のワイバーンが、風に煽られて高度を落とした。
ルシアの金の瞳に、胸の熱が跳ねるのが見えた。
「三番の子、戻して!」
ルシアが叫ぶ。
「今すぐ!」
伝令が走るより早く、イレーネが信号旗を振った。
該当のワイバーンはもう一度羽ばたこうとしたが、途中で動きが鈍る。
落ちる。
そう思った瞬間、別のワイバーンが横へ回り込んだ。
騎手同士が合図を交わし、落ちかけた個体を風の流れから外す。
ぎりぎりで、高度が戻った。
ルシアの喉から、詰めていた息が漏れる。
「戻れ……そのまま戻って」
願うように呟く。
ワイバーンは発着場へ向かって戻ってくる。
着地は荒かった。石床に爪が滑り、胸が大きく上下している。
セシリアがすぐに駆け寄った。
「翼を見ます!」
銀の光が広がる。
裂けてはいない。
だが、付け根に強い炎症が出ていた。
「裂けてはいません。でも熱があります」
「温湿布、冷やしすぎないで。胸は温めて、炎症のところだけ抑えて」
ルシアが指示する。
「水分を少し。肉餌はまだ駄目」
「はい」
セシリアは迷わず動いた。
銀の光が急性の痛みを和らげ、ルシアの言葉が再発を防ぐための処置へつながっていく。
その間にも、谷では群れが西へ逸れ始めていた。
誘導香に引かれ、苦煙草の煙を避け、少しずつ、少しずつ進路が変わる。
村を外れる。
完全ではない。
それでも、村の中心を直撃する軌道ではなくなっていた。
「いける」
イレーネが呟いた。
「このまま押しすぎるな。逃げ道を残せ!」
ワイバーンたちは、追い立てるのではなく、道を作った。
群れの前を塞ぎすぎず、村側だけを嫌がらせ、西の放牧地へ流す。
やがて、先頭の魔獣が西の斜面へ踏み込んだ。
続く個体たちも、少しずつそれに従う。
ノーマンが望遠具を下ろした。
「村を外れました」
誰も、すぐには歓声を上げなかった。
まだ油断できない。
群れが完全に抜けるまでは、気を抜けない。
けれど、発着場にいた人々の肩から、ほんの少し力が抜けるのが分かった。
ルシアは隣を見た。
セシリアが、負傷しかけたワイバーンの翼に手を添えている。
銀の光は柔らかく、けれど確かだった。
その横で、ルシアの金の瞳が、まだ残る熱と痛みを追っている。
治すだけでは足りない。
見抜くだけでも足りない。
二つが並んで、ようやく届く場所がある。
夜明けの光が、山の稜線を淡く染め始めた。
銀と金の光は、その中で静かに並んでいた。
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