第16話
野生魔獣の群れが完全に谷を抜けたのは、陽が山の端から顔を出してしばらく経ってからだった。
村は、無事だった。
無傷ではない。
外縁の柵が一部倒れ、畑の端が踏み荒らされ、逃げ遅れた家畜が数頭傷を負った。警備に出ていた兵士にも負傷者がいる。
それでも、村そのものは飲み込まれなかった。
人も、魔獣も、まだ生きている。
「西の放牧地へ抜けました!」
偵察兵が息を切らして駆け込んでくる。
「群れはそのまま山裾へ移動中! 村への再接近は、今のところありません!」
その報告が届いた瞬間、発着場にいた者たちの間から、ようやく声が漏れた。
歓声というには弱い。
安堵というには、まだ疲れが濃い。
けれど、確かに空気が緩んだ。
イレーネ隊長は、しばらく地図を見下ろしていた。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「……全隊、帰還したワイバーンの状態確認を優先。村への救護班を第二陣で出す。飛ばした個体は全頭、今日の再出撃禁止」
部下の一人が顔を上げる。
「全頭ですか」
「全頭だ」
イレーネの声は揺るがなかった。
「守るために飛ばした。使い潰すためではない」
その言葉に、ルシアは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
ほんの少し前まで、ここでは「飛べるなら飛ばす」が当然だった。
けれど今、隊長自身が休ませる命令を出している。
大きな変化ではないかもしれない。
でも、確かな一歩だった。
「ノーマン」
マグダレナが声をかける。
「はい。帰還個体ごとの翼膜、胸筋、呼吸、食欲、水分、体温、騎手の報告。全部取ります」
「よろしい」
「あと、腰が死にそうです」
「腰の記録は後で」
「了解です。私の腰は後回し。本人の同意は取っていません」
「腰に同意を求めないで」
ノーマンは記録板を抱え、よろめきながらも走っていった。
その背中を見送り、ルシアは発着場へ視線を戻す。
帰還したワイバーンたちは、一頭ずつ確認を受けていた。翼を広げさせるのではなく、まず呼吸を見て、胸に触れ、足元を確かめる。騎手たちも以前のように「まだ飛べる」とは言わない。
彼らの顔には疲労があった。
けれど、目つきが変わっていた。
飛べたかどうかだけではない。
無事に戻ったか。
痛みを隠していないか。
次に飛ばしていい状態か。
そういうものを見ようとしている。
セシリアは、負傷した兵士と魔獣の間を行き来していた。
銀の聖眼が、朝の光を受けて柔らかく輝く。
裂傷。打撲。毒のない噛み傷。翼膜の浅い傷。
セシリアは一つずつ、確実に癒やしていく。
その姿は、本当に聖女だった。
ルシアは、少し離れた場所からその光景を見ていた。
綺麗だと思った。
昔から、セシリアの聖眼は綺麗だった。
自分の金色の目とは違う。誰が見ても聖なるものだと分かる光。
だからこそ、少しだけ遠かった。
けれど今は、その光が遠くない。
自分の隣にあるものとして、見える。
「お姉様」
呼ばれて、ルシアは顔を上げた。
セシリアがこちらへ歩いてくる。
白い外套の裾には土がつき、髪も少し乱れていた。聖女としては、あまり整った姿ではない。
けれど、その顔は晴れていた。
「負傷者の処置は、ひと通り終わりました」
「お疲れさま」
「お姉様こそ」
二人はしばらく向き合ったまま、どちらも次の言葉を探した。
周囲には人がいる。
ワイバーンもいる。
記録を取る声や、飼育員の指示も飛び交っている。
それでも、その瞬間だけ、二人の間に静かな場所ができた。
「……手紙を読みました」
先に口を開いたのは、セシリアだった。
ルシアの指先が、わずかに動く。
「あの時は、会わずに出てごめんね」
「いいえ」
セシリアは首を振った。
「私が遅かったんです。聖女認定で浮かれていたわけではないつもりでした。でも、気づいた時には、お姉様はもういませんでした」
「セシリアのせいじゃない」
「それでも、私は何も知りませんでした」
セシリアの銀の瞳が揺れる。
「お姉様がどこへ行くのかも。どうして行くのかも。お父様たちが何をしたのかも」
「……私も、直前まで知らなかった」
そう言うと、セシリアは唇を噛んだ。
「やっぱり」
小さな声だった。
「やっぱり、そうだったんですね」
ルシアは、何も言えなかった。
セシリアが悪いわけではない。
それは本当にそう思っている。
けれど、売られた事実が消えるわけでもない。
あの部屋で、婚約も職も家も、すべて畳まれていたあの感覚が消えるわけでもない。
簡単に笑って「大丈夫」と言うには、少しだけ重すぎた。
セシリアもそれを分かっているのか、無理に近づいてこなかった。
「お姉様」
「うん」
「私は、お姉様を連れ戻したいと思っていました」
ルシアは静かに目を伏せた。
「でも、今は少し違います」
「違う?」
「戻ってほしい、ではなくて……お姉様が選べるようにしたいです」
その言葉に、ルシアは顔を上げた。
セシリアは、泣きそうな顔で笑った。
「テレジアに戻ることも、戻らないことも。誰かに決められるのではなく、お姉様が決められるように」
ルシアの胸が、きゅっと痛んだ。
売られた。
連れて来られた。
必要とされた。
そのどれもが、自分の意思だけで始まったものではない。
でも、ここから先は。
自分で選んでもいいのだろうか。
「セシリアは、テレジアに戻るの?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「戻って、変えます」
「変える?」
「お姉様が見ていたものを、もう“雑務”とは呼ばせません。魔獣の記録も、補食の管理も、薬草の状態も、全部必要な仕事だと認めさせます」
セシリアは少しだけ眉を下げた。
「……できるかは、分かりません。でも、やります」
ルシアは、妹を見つめた。
銀の聖眼を持つ、正統な聖女。
誰からも期待され、誰からも求められる少女。
そのセシリアが今、泥のついた外套で、魔獣のための記録を変えると言っている。
不思議だった。
遠かったはずの妹が、今はとても近い。
「私も」
ルシアはゆっくり言った。
「ここで、できることをします」
セシリアは頷いた。
「はい」
「フランキスで、魔獣たちのことを見ます。ヴァルミアのことも、まだ終わっていない。テレジアのことも……きっと、関係している」
「はい」
「だから、また一緒に見ることになるかもしれない」
セシリアの瞳が、少しだけ明るくなった。
「その時は、呼んでください」
「セシリアも」
「はい」
「一人で抱えないで」
言った瞬間、セシリアの目に涙が浮かんだ。
けれど彼女は、それをこぼさなかった。
「……お姉様もです」
ルシアは小さく笑った。
「うん」
その返事は、自分でも驚くほど自然だった。
◇
昼前には、村からの詳細な報告が届いた。
死者はなし。
重傷者も、セシリアの治癒で安定。
家屋の損壊は一部。
家畜と小型魔獣に負傷あり。
野生魔獣の群れは西の放牧地を抜け、山裾の森へ移動している。
しばらく監視は必要だが、直ちに村へ戻る気配はない。
最悪は避けられた。
だが、問題は解決していなかった。
救護拠点の会議天幕で、地図を囲む者たちの顔は重い。
ヴァルミアのイレーネ。
フランキスのアルベルトとマグダレナ。
ルシアとセシリア。
そして、テレジア側から派遣されていた小隊長と教会騎士レオン。
地図の上には、野生魔獣の移動経路が赤い線で書き込まれている。
その線は、テレジア側の開拓地から始まっていた。
「偶然とは言いにくいですね」
アルベルトが静かに言った。
「ここ数か月、山岳地帯の群れが南西へ移動している。フランキス側でも、ヴァルミア側でも同じような報告が出ている」
イレーネが腕を組む。
「原因がテレジア側の開拓だと?」
テレジアの小隊長が顔を強張らせた。
「断定は早計です。我が国の政策は、王命に基づく正式な開拓であり」
「開拓が正式かどうかと、魔獣が棲み処を失ったかどうかは別よ」
マグダレナが切った。
「結論から言うわ。正式な政策でも、魔獣は文書を読まない」
ノーマンが小声で呟く。
「名言です」
「書かないで」
「額に入れません」
「入れる気だったの?」
緊張の場に、ほんの少しだけ空気の抜ける音がした。
だが、すぐに話は戻る。
ルシアは地図を見つめていた。
森。
鉱山予定地。
新しい街道。
伐採範囲。
そして、魔獣の移動経路。
点と線が、少しずつ繋がっていく。
「魔獣たちは、襲うために来たのではないと思います」
ルシアは言った。
「押し出されて、通れる場所を探しているだけです。餌場と水場、それから安全な通り道が変わってしまったのだと思います」
「では、どうするべきだと?」
イレーネが問う。
「討伐だけでは追いつきません。むしろ、群れをさらに散らす可能性があります」
ルシアは地図の西側を指した。
「移動経路を調べて、通っていい場所へ誘導する必要があります。餌場を残す。煙や香りで人里を避けさせる。軍用魔獣は、常に全力で迎撃するのではなく、誘導と監視を中心に使う」
「簡単ではないな」
アルベルトが言う。
「はい。時間がかかります」
「だが、続けなければ同じことが起きる」
マグダレナが言葉を継いだ。
「そのたびにワイバーンやペガサスを無理に飛ばせば、今度は守る側の魔獣が壊れる」
イレーネは目を閉じた。
隊長として、彼女は誰よりそれを理解しているのだろう。
「……ヴァルミアは、共同調査を求めます」
やがて、イレーネはそう言った。
「フランキス、テレジア、ヴァルミア。三国で、魔獣移動と開拓影響を調べるべきです」
テレジアの小隊長が口を開きかける。
だが、その前にセシリアが言った。
「テレジアの聖女として、その調査に協力します」
小隊長が驚いたように振り返る。
「聖女様、それは国の判断を」
「人と魔獣が傷ついています」
セシリアの声は静かだった。
「なら、聖女として関わる理由があります」
その言葉に、小隊長は何も言えなくなった。
しかし、しばらく黙ったあと、彼は声を落として言った。
「聖女様。この報告が王都へ届けば、必ず波紋を呼びます」
セシリアは静かに振り返った。
「分かっています」
「アージェント家も、ヴァーダンド家も、ルシア様の名が国境協議に出ることを快く思わないでしょう。場合によっては、ルシア様をテレジアへ戻すべきだという声も出ます」
ルシアの胸が、わずかに冷えた。
戻す。
その言葉は、まるで荷物の行き先を変えるように聞こえた。
けれど、隣でセシリアが一歩前へ出た。
「お姉様は、戻されるものではありません」
銀の瞳が、静かに光る。
「必要なら、私が王都でそう伝えます」
ルシアは妹の横顔を見た。
あの日、何も知らずに残された少女は、もう誰かの後ろに隠れてはいなかった。
◇
夕方、救護拠点の広場では、負傷したワイバーンたちの確認が行われていた。
翼膜を裂いた若い個体は、まだ飛べない。
だが、痛みは落ち着き、温めた岩床の上で目を閉じている。
グラウの処置も始まった。
重い肉餌は一時停止。
消化の軽い餌を少量ずつ。
飛行前には必ず温めと翼の確認。
冷えた状態での緊急出撃は避ける。
すぐにすべてが治るわけではない。
だが、少なくとも同じ傷を繰り返す理由は見え始めた。
イレーネはグラウの前に立ち、深く頭を下げた。
「すまなかった」
ワイバーンは言葉を返さない。
ただ、低く喉を鳴らした。
それが許しなのか、不満なのか、ルシアには分からない。
でも、少なくとも先ほどより、声の棘は薄かった。
その様子を見ていたヴァルミアの若い騎士が、ぽつりと言った。
「銀の聖女と、金の聖女だ」
ルシアは振り返った。
「え?」
「傷を癒やす銀の聖女と、苦しみの根を見抜く金の聖女」
別の騎士が小さく頷く。
「二人そろって、双つの聖女か」
セシリアが驚いたように目を瞬いた。
「いえ、私はともかく、お姉様は薬剤師で」
「私も聖女では……」
ルシアも慌てて言いかける。
その横で、ノーマンが記録板を構えた。
「出ましたね。銀と金の双聖女」
「記録しないでください」
ルシアとセシリアの声が、ほとんど同時に重なった。
ノーマンは真顔で頷く。
「では、心の記録に」
「それも、できれば」
セシリアが困ったように言う。
マグダレナが腕を組んで、少しだけ口元を緩めた。
「諦めなさい。こういう呼び名は、止めるほど広がるわ」
アルベルトも穏やかに笑う。
「悪い名ではないと思うよ。二人が並んで救った命があるのだから」
ルシアは何も言えなくなった。
銀と金の双聖女。
あまりにも大げさで、身に余る呼び名だ。
けれど、その名を口にした騎士たちの顔には、からかいがなかった。
そこにあったのは、感謝だった。
セシリアが、そっとルシアを見る。
ルシアも妹を見た。
銀の瞳。
金へ変わる魔眼。
かつては、比べられるだけだった二つの目。
今は、同じ場所に並んでいる。
ルシアは小さく息を吐いた。
「……呼び名はともかく」
セシリアが首を傾げる。
「一緒にできることがあるのは、分かったね」
セシリアの顔が、少しだけ明るくなった。
「はい」
夕陽が山の端へ沈んでいく。
冷たい谷の風の中で、銀と金の光は、ほんの一瞬だけ並んで輝いた。
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