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婚約破棄され売られた欠陥聖女は、隣の大国で『魔獣の聖女』と呼ばれることになった  作者: 一十一
第2章 国境の向こう

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第16話

 野生魔獣の群れが完全に谷を抜けたのは、陽が山の端から顔を出してしばらく経ってからだった。


 村は、無事だった。


 無傷ではない。


 外縁の柵が一部倒れ、畑の端が踏み荒らされ、逃げ遅れた家畜が数頭傷を負った。警備に出ていた兵士にも負傷者がいる。


 それでも、村そのものは飲み込まれなかった。


 人も、魔獣も、まだ生きている。


「西の放牧地へ抜けました!」


 偵察兵が息を切らして駆け込んでくる。


「群れはそのまま山裾へ移動中! 村への再接近は、今のところありません!」


 その報告が届いた瞬間、発着場にいた者たちの間から、ようやく声が漏れた。


 歓声というには弱い。

 安堵というには、まだ疲れが濃い。


 けれど、確かに空気が緩んだ。


 イレーネ隊長は、しばらく地図を見下ろしていた。

 そして、ゆっくりと息を吐く。


「……全隊、帰還したワイバーンの状態確認を優先。村への救護班を第二陣で出す。飛ばした個体は全頭、今日の再出撃禁止」


 部下の一人が顔を上げる。


「全頭ですか」


「全頭だ」


 イレーネの声は揺るがなかった。


「守るために飛ばした。使い潰すためではない」


 その言葉に、ルシアは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 ほんの少し前まで、ここでは「飛べるなら飛ばす」が当然だった。

 けれど今、隊長自身が休ませる命令を出している。


 大きな変化ではないかもしれない。

 でも、確かな一歩だった。


「ノーマン」


 マグダレナが声をかける。


「はい。帰還個体ごとの翼膜、胸筋、呼吸、食欲、水分、体温、騎手の報告。全部取ります」


「よろしい」


「あと、腰が死にそうです」


「腰の記録は後で」


「了解です。私の腰は後回し。本人の同意は取っていません」


「腰に同意を求めないで」


 ノーマンは記録板を抱え、よろめきながらも走っていった。


 その背中を見送り、ルシアは発着場へ視線を戻す。


 帰還したワイバーンたちは、一頭ずつ確認を受けていた。翼を広げさせるのではなく、まず呼吸を見て、胸に触れ、足元を確かめる。騎手たちも以前のように「まだ飛べる」とは言わない。


 彼らの顔には疲労があった。

 けれど、目つきが変わっていた。


 飛べたかどうかだけではない。

 無事に戻ったか。

 痛みを隠していないか。

 次に飛ばしていい状態か。


 そういうものを見ようとしている。


 セシリアは、負傷した兵士と魔獣の間を行き来していた。


 銀の聖眼が、朝の光を受けて柔らかく輝く。

 裂傷。打撲。毒のない噛み傷。翼膜の浅い傷。

 セシリアは一つずつ、確実に癒やしていく。


 その姿は、本当に聖女だった。


 ルシアは、少し離れた場所からその光景を見ていた。


 綺麗だと思った。


 昔から、セシリアの聖眼は綺麗だった。

 自分の金色の目とは違う。誰が見ても聖なるものだと分かる光。


 だからこそ、少しだけ遠かった。


 けれど今は、その光が遠くない。


 自分の隣にあるものとして、見える。


「お姉様」


 呼ばれて、ルシアは顔を上げた。


 セシリアがこちらへ歩いてくる。

 白い外套の裾には土がつき、髪も少し乱れていた。聖女としては、あまり整った姿ではない。


 けれど、その顔は晴れていた。


「負傷者の処置は、ひと通り終わりました」


「お疲れさま」


「お姉様こそ」


 二人はしばらく向き合ったまま、どちらも次の言葉を探した。


 周囲には人がいる。

 ワイバーンもいる。

 記録を取る声や、飼育員の指示も飛び交っている。


 それでも、その瞬間だけ、二人の間に静かな場所ができた。


「……手紙を読みました」


 先に口を開いたのは、セシリアだった。


 ルシアの指先が、わずかに動く。


「あの時は、会わずに出てごめんね」


「いいえ」


 セシリアは首を振った。


「私が遅かったんです。聖女認定で浮かれていたわけではないつもりでした。でも、気づいた時には、お姉様はもういませんでした」


「セシリアのせいじゃない」


「それでも、私は何も知りませんでした」


 セシリアの銀の瞳が揺れる。


「お姉様がどこへ行くのかも。どうして行くのかも。お父様たちが何をしたのかも」


「……私も、直前まで知らなかった」


 そう言うと、セシリアは唇を噛んだ。


「やっぱり」


 小さな声だった。


「やっぱり、そうだったんですね」


 ルシアは、何も言えなかった。


 セシリアが悪いわけではない。

 それは本当にそう思っている。


 けれど、売られた事実が消えるわけでもない。

 あの部屋で、婚約も職も家も、すべて畳まれていたあの感覚が消えるわけでもない。


 簡単に笑って「大丈夫」と言うには、少しだけ重すぎた。


 セシリアもそれを分かっているのか、無理に近づいてこなかった。


「お姉様」


「うん」


「私は、お姉様を連れ戻したいと思っていました」


 ルシアは静かに目を伏せた。


「でも、今は少し違います」


「違う?」


「戻ってほしい、ではなくて……お姉様が選べるようにしたいです」


 その言葉に、ルシアは顔を上げた。


 セシリアは、泣きそうな顔で笑った。


「テレジアに戻ることも、戻らないことも。誰かに決められるのではなく、お姉様が決められるように」


 ルシアの胸が、きゅっと痛んだ。


 売られた。

 連れて来られた。

 必要とされた。


 そのどれもが、自分の意思だけで始まったものではない。


 でも、ここから先は。


 自分で選んでもいいのだろうか。


「セシリアは、テレジアに戻るの?」


「はい」


 迷いのない返事だった。


「戻って、変えます」


「変える?」


「お姉様が見ていたものを、もう“雑務”とは呼ばせません。魔獣の記録も、補食の管理も、薬草の状態も、全部必要な仕事だと認めさせます」


 セシリアは少しだけ眉を下げた。


「……できるかは、分かりません。でも、やります」


 ルシアは、妹を見つめた。


 銀の聖眼を持つ、正統な聖女。

 誰からも期待され、誰からも求められる少女。


 そのセシリアが今、泥のついた外套で、魔獣のための記録を変えると言っている。


 不思議だった。


 遠かったはずの妹が、今はとても近い。


「私も」


 ルシアはゆっくり言った。


「ここで、できることをします」


 セシリアは頷いた。


「はい」


「フランキスで、魔獣たちのことを見ます。ヴァルミアのことも、まだ終わっていない。テレジアのことも……きっと、関係している」


「はい」


「だから、また一緒に見ることになるかもしれない」


 セシリアの瞳が、少しだけ明るくなった。


「その時は、呼んでください」


「セシリアも」


「はい」


「一人で抱えないで」


 言った瞬間、セシリアの目に涙が浮かんだ。


 けれど彼女は、それをこぼさなかった。


「……お姉様もです」


 ルシアは小さく笑った。


「うん」


 その返事は、自分でも驚くほど自然だった。


     ◇


 昼前には、村からの詳細な報告が届いた。


 死者はなし。

 重傷者も、セシリアの治癒で安定。

 家屋の損壊は一部。

 家畜と小型魔獣に負傷あり。


 野生魔獣の群れは西の放牧地を抜け、山裾の森へ移動している。

 しばらく監視は必要だが、直ちに村へ戻る気配はない。


 最悪は避けられた。


 だが、問題は解決していなかった。


 救護拠点の会議天幕で、地図を囲む者たちの顔は重い。


 ヴァルミアのイレーネ。

 フランキスのアルベルトとマグダレナ。

 ルシアとセシリア。

 そして、テレジア側から派遣されていた小隊長と教会騎士レオン。


 地図の上には、野生魔獣の移動経路が赤い線で書き込まれている。


 その線は、テレジア側の開拓地から始まっていた。


「偶然とは言いにくいですね」


 アルベルトが静かに言った。


「ここ数か月、山岳地帯の群れが南西へ移動している。フランキス側でも、ヴァルミア側でも同じような報告が出ている」


 イレーネが腕を組む。


「原因がテレジア側の開拓だと?」


 テレジアの小隊長が顔を強張らせた。


「断定は早計です。我が国の政策は、王命に基づく正式な開拓であり」


「開拓が正式かどうかと、魔獣が棲み処を失ったかどうかは別よ」


 マグダレナが切った。


「結論から言うわ。正式な政策でも、魔獣は文書を読まない」


 ノーマンが小声で呟く。


「名言です」


「書かないで」


「額に入れません」


「入れる気だったの?」


 緊張の場に、ほんの少しだけ空気の抜ける音がした。


 だが、すぐに話は戻る。


 ルシアは地図を見つめていた。


 森。

 鉱山予定地。

 新しい街道。

 伐採範囲。

 そして、魔獣の移動経路。


 点と線が、少しずつ繋がっていく。


「魔獣たちは、襲うために来たのではないと思います」


 ルシアは言った。


「押し出されて、通れる場所を探しているだけです。餌場と水場、それから安全な通り道が変わってしまったのだと思います」


「では、どうするべきだと?」


 イレーネが問う。


「討伐だけでは追いつきません。むしろ、群れをさらに散らす可能性があります」


 ルシアは地図の西側を指した。


「移動経路を調べて、通っていい場所へ誘導する必要があります。餌場を残す。煙や香りで人里を避けさせる。軍用魔獣は、常に全力で迎撃するのではなく、誘導と監視を中心に使う」


「簡単ではないな」


 アルベルトが言う。


「はい。時間がかかります」


「だが、続けなければ同じことが起きる」


 マグダレナが言葉を継いだ。


「そのたびにワイバーンやペガサスを無理に飛ばせば、今度は守る側の魔獣が壊れる」


 イレーネは目を閉じた。


 隊長として、彼女は誰よりそれを理解しているのだろう。


「……ヴァルミアは、共同調査を求めます」


 やがて、イレーネはそう言った。


「フランキス、テレジア、ヴァルミア。三国で、魔獣移動と開拓影響を調べるべきです」


 テレジアの小隊長が口を開きかける。


 だが、その前にセシリアが言った。


「テレジアの聖女として、その調査に協力します」


 小隊長が驚いたように振り返る。


「聖女様、それは国の判断を」


「人と魔獣が傷ついています」


 セシリアの声は静かだった。


「なら、聖女として関わる理由があります」


 その言葉に、小隊長は何も言えなくなった。


 しかし、しばらく黙ったあと、彼は声を落として言った。


「聖女様。この報告が王都へ届けば、必ず波紋を呼びます」


 セシリアは静かに振り返った。


「分かっています」


「アージェント家も、ヴァーダンド家も、ルシア様の名が国境協議に出ることを快く思わないでしょう。場合によっては、ルシア様をテレジアへ戻すべきだという声も出ます」


 ルシアの胸が、わずかに冷えた。


 戻す。


 その言葉は、まるで荷物の行き先を変えるように聞こえた。


 けれど、隣でセシリアが一歩前へ出た。


「お姉様は、戻されるものではありません」


 銀の瞳が、静かに光る。


「必要なら、私が王都でそう伝えます」


 ルシアは妹の横顔を見た。


 あの日、何も知らずに残された少女は、もう誰かの後ろに隠れてはいなかった。


     ◇


 夕方、救護拠点の広場では、負傷したワイバーンたちの確認が行われていた。


 翼膜を裂いた若い個体は、まだ飛べない。

 だが、痛みは落ち着き、温めた岩床の上で目を閉じている。


 グラウの処置も始まった。


 重い肉餌は一時停止。

 消化の軽い餌を少量ずつ。

 飛行前には必ず温めと翼の確認。

 冷えた状態での緊急出撃は避ける。


 すぐにすべてが治るわけではない。

 だが、少なくとも同じ傷を繰り返す理由は見え始めた。


 イレーネはグラウの前に立ち、深く頭を下げた。


「すまなかった」


 ワイバーンは言葉を返さない。

 ただ、低く喉を鳴らした。


 それが許しなのか、不満なのか、ルシアには分からない。


 でも、少なくとも先ほどより、声の棘は薄かった。


 その様子を見ていたヴァルミアの若い騎士が、ぽつりと言った。


「銀の聖女と、金の聖女だ」


 ルシアは振り返った。


「え?」


「傷を癒やす銀の聖女と、苦しみの根を見抜く金の聖女」


 別の騎士が小さく頷く。


「二人そろって、双つの聖女か」


 セシリアが驚いたように目を瞬いた。


「いえ、私はともかく、お姉様は薬剤師で」


「私も聖女では……」


 ルシアも慌てて言いかける。


 その横で、ノーマンが記録板を構えた。


「出ましたね。銀と金の双聖女」


「記録しないでください」


 ルシアとセシリアの声が、ほとんど同時に重なった。


 ノーマンは真顔で頷く。


「では、心の記録に」


「それも、できれば」


 セシリアが困ったように言う。


 マグダレナが腕を組んで、少しだけ口元を緩めた。


「諦めなさい。こういう呼び名は、止めるほど広がるわ」


 アルベルトも穏やかに笑う。


「悪い名ではないと思うよ。二人が並んで救った命があるのだから」


 ルシアは何も言えなくなった。


 銀と金の双聖女。


 あまりにも大げさで、身に余る呼び名だ。

 けれど、その名を口にした騎士たちの顔には、からかいがなかった。


 そこにあったのは、感謝だった。


 セシリアが、そっとルシアを見る。


 ルシアも妹を見た。


 銀の瞳。

 金へ変わる魔眼。


 かつては、比べられるだけだった二つの目。


 今は、同じ場所に並んでいる。


 ルシアは小さく息を吐いた。


「……呼び名はともかく」


 セシリアが首を傾げる。


「一緒にできることがあるのは、分かったね」


 セシリアの顔が、少しだけ明るくなった。


「はい」


 夕陽が山の端へ沈んでいく。


 冷たい谷の風の中で、銀と金の光は、ほんの一瞬だけ並んで輝いた。

皆様、ここまで読んで頂き、ありがとうございます。


この作品をここまで続けてこられたのは、読んでくださる皆様のおかげです。

本当に励みになっています。


もし少しでも面白い、続きが気になると思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。

今後ともよろしくお願いいたします。

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